(第187回)


説教日:2009年3月15日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日から主の祈りの第6の祈りである、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りを取り上げてお話しします。
 この祈りの意味は明白であるように思われますが、これには、いくつかの難しい問題があります。それはすでに古代教会の時代から感じられていたようで、それぞれの問題をめぐって、いろいろな解釈が提案されてきました。これから、そのような問題に触れつつ、ともに、この祈りの意味を考えていきたいと思います。
 まず、この祈りの中心にあります「試み」と訳されたことば(ペイラスモス)の意味が問題となります。
 このことば自体の意味はいくつかありますが、聖書に出てくる用例としては、よい意味で用いられている場合と悪い意味で用いられている場合の2つに分けられます。よい意味で用いられている場合には、人を試してその人がどのような人物であるかを明らかにすることを意味しています。その人の人となりばかりでなく、その人の信仰のあり方やその人の価値観などが明らかにされます。この場合には、このことばは「試み」あるいは「試練」と訳されます。悪い意味で用いられている場合には、その人が罪を犯すように誘うことを意味しています。その場合には、このことばは「誘惑」と訳されます。
 そのような使い分けがなされている例を見てみましょう。ヤコブの手紙1章12節〜15節には、

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

と記されています。
 12節で、

 試練に耐える人は幸いです。

と言われているときの「試練」ということばは主の祈りの第6の祈りで「試み」と訳されたことば(ペイラスモス)と同じことばです。そして、13節で、

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

と言われているときの「誘惑に会った」(現在分詞)や「誘惑された」(定動詞)や「誘惑なさる」(定動詞)は、主の祈りの第6の祈りで「試み」と訳されたことば(ペイラスモス)の動詞に当たることば(ペイラゾー)です。「誘惑されることのない」と訳されていることば(アペイラストス)は、関連する形容詞ですが、新約聖書ではここにしか出てこないことばです。名詞と動詞の違いはありますが、同じことを表わすことばが、12節では「試練」を意味するとされており、13節では「誘惑」を意味するとされています。
 それは、ここで言われていることの意味によっています。
 12節に、

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

と記されている教えにおいては、

 試練に耐える人は幸いです。

というように「幸いです」と言われているばかりでなく、その幸いであることの理由として

耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

と言われていますから、これは「試練」のことを述べていると考えられるわけです。
 これに対して、13節後半に、

神は・・・ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

と記されている教えを、

 神は・・・ご自分でだれを試練に会わせられることもありません。

と訳すことはできません。というのは、具体的なことは後ほどお話ししますが、実際に、神さまはご自身の民を試練に会わせられることがあるからです。そうしますと、13節前半に記されている教えも、

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。

と訳すことになります。ただし、「だれでも誘惑に会ったとき」の方は、12節において試練のことが述べられていますので、そのこととのつながりで、「だれでも試練に会ったとき」と訳すこともできます。その場合には、その人は試練を誘惑の機会としてしまっているということになります。けれども、

 神によって誘惑された、と言ってはいけません。

ということばを、

 神によって試練に会わされた、と言ってはいけません。

に変えることはできません。
 神さまは人を試練に会わせられることはあるけれども、人を誘惑されることはないということは、主の祈りの第6の祈りを理解するうえでとても大切なことです。それが具体的にどのようなことであるかをお話しする前に、少し脇道に逸れることになりますが、神さまが試練を与えられた事例を見てみたいと思います。


 以前お話ししたことがありますが、創世記22章には、神さまがアブラハムにひとり子であるイサクをささげるように命じられたことが記されています。
 1節、2節には、

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

と記されています。1節で、

 神はアブラハムを試練に会わせられた。

と言われていますように、神さまはアブラハムを試練に会わせられました。このように、神さまが特定の個人を試練に会わせられたと言われているのは、旧約聖書においては、これが唯一の事例です。もちろん、神さまはすべてのことをご存知であられますし、計り知れないみこころにしたがって、ある人が試練に会うことをお許しになられます。その場合には、神さまは何らかのものをお用いになられます。けれども、このアブラハムの場合には、直接、神さまがアブラハムに語りかけられる形で、試練をお与えになられました。
 ここでは、神さまがアブラハムにひとり子のイサクを「全焼のいけにえとして」ささげるようにと命じられたと言われています。これに対して、神さまがこのような命令をなさるはずがないと考えて、これは、ヨブ記1章、2章に記されているヨブの試練の場合のように、サタンの提案を神さまが受け入れられたのであるという考え方が、すでに、新約聖書より前のユダヤ教の文書(「ヨベル書」)において表明されているようです。けれども、ここに記されていることを、そのように理解する必要はありませんし、そのように理解することは、この試練の主旨に沿っていないと考えられます。というのは、ここで神さまがアブラハムにひとり子のイサクをささげるように命じられたことには、ただ、アブラハムの従順をお試しになるためだけではなく、それ以上の大切な目的があったと考えられるからです。
 もし神さまがアブラハムにひとり子のイサクをささげるように命じられたことの目的が、アブラハムの従順を試すことだけであったとしたら、イサクをささげることは、そのための「手段」であるということになります。ほかにも「手段」はあるけれども、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子」と呼ばれているイサクをささげるという最も厳しい「手段」を用いられたということになります。
 けれども、この場合には、アブラハムがイサクをささげることは、アブラハムの従順を試すために用いられた「手段」であるのではなく、アブラハムがイサクをささげること自体に意味があったと考えられます。
 実際に、アブラハムは神さまの命令に従ってイサクを主にささげました。そのことを記している9節〜13節には、

ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶに引っかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

と記されています。
 今お話ししていることとのかかわりで大切なことは、アブラハムがイサクをささげようとしたときに「主の使い」がそれを止めてくださったということで終っていないということです。もし、イサクをささげることがアブラハムの従順を試すための「手段」に過ぎなかったのであれば、その段階で、すべてが終っていてもよかったはずです。実際、主は、その段階において、アブラハムに、

わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。

と語りかけておられます。アブラハムの従順な姿勢は十分に実証されています。
 けれども、ことはそこで終ってはいません。主は「雄羊」を備えてくださっており、アブラハムはその「雄羊」をイサクの代わりにささげたと言われています。このことは、アブラハムがイサクをささげたことを主が完遂してくださったということを意味しています。このことには2つのことがかかわっています。
 1つは、アブラハムはイサクをささげなかったのではなく、確かに、イサクを主にささげたということです。けれども、そのことは、アブラハムが「雄羊」をささげる前に、すでに主が、

あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。

と言われたように、主が認めてくださっていたことです。主ご自身にとっては、それで十分でした。いや、主はアブラハムがイサクをささげる前から、アブラハムがご自身を信じておりご自身に従順なものであることを知っておられました。
 アブラハムが「雄羊」をイサクの代わりにささげたことにかかわるもう1つのことは、そのことをとおして、主が確かにアブラハムがささげたイサクを受け取ってくださったということを示してくださったということです。アブラハムがイサクをささげようとしたということだけであれば、アブラハムの思いだけで終ってしまいます。けれども、主はアブラハムが「雄羊」をイサクの代わりにささげるようにしてくださって、主もイサクを受け取ってくださったことを確証してくださったのです。
 このことによって、イサクはもはやアブラハムのものではなく、主のものになりました。
 創世記21章1節〜5節に、

主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。そしてアブラハムは、神が彼に命じられたとおり、八日目になった自分の子イサクに割礼を施した。アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。

と記されていますように、イサクは「約束の子」でした。アブラハムが百歳の時サラは90歳でしたが、それまで2人の間には子どもがありませんでした。イサクはそのようにアブラハムが百歳の時に「不妊の女」と言われていたサラから生まれた子でした。そうではあっても、やはりアブラハムから生まれた子、アブラハムの血肉の子でした。
 アブラハムはそのイサクを主にささげました。そして、主はイサクを受け取ってくださいました。これによって、イサクはアブラハムのものではなく、主のものとなりました。主は、そのイサクを再びアブラハムに与えてくださいました。このようにして、アブラハムは自分との血肉のつながりの断ち切れた「新しいイサク」を受け取ったのです。このことに触れているヘブル人への手紙11章17節〜19節には、

信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

と記されています。
 この最後に出てくる「これは型です。」と訳されていることば(エン・パラボレー)は、「たとえて言えば」ということを表しています。それで、新改訳で、

それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

と訳されている部分は、

それで彼は、いわば、死者の中からイサクを取り戻したのです。

となります。
 いずれにしましても、これによって、アブラハムが、自分との血肉のつながりが切れた「新しいイサク」を受け取ったことが示されています。これは神さまの贖いの御業の歴史において、決定的に大切なことを、古い契約の下にある地上的なひな型の限界のうちにあって、ぎりぎりのところまで突き詰めて表しています。それは、アブラハムの子孫とは、アブラハムとの血肉のつながりによるのではなく、主の一方的な恵みによって備えられた者たちであるということです。
 さらに、アブラハムが自分の子イサクを主にささげたことを受けて、主はアブラハムに最後の約束をしてくださいました。創世記22章15節〜18節には、

それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

と記されています。
 ここでは、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

と言われています。これ以前においては「地のすべての国々」は「アブラハムによって」祝福を受けると言われてきました。そして、ここで初めて、アブラハムの「子孫によって」、「地のすべての国々は祝福を受けるようになる」と言われています。アブラハムとの血肉のつながりによらない「アブラハムの子孫」によって「地のすべての国々は祝福を受けるようになる」ということです。
 このことは、ガラテヤ人への手紙3章13節、14節に、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されており、29節に、

もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されていますように、アブラハムとの直接的な血のつながりがない、まことの「アブラハムの子孫」であられる御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業に基づいて、アブラハムとの血肉のつながりのない私たちが「アブラハムの子孫」とされることへとつながっていきます。
 このような重大な意味をもっていることがアブラハムに起こったのは、神さまの一方的な愛と恵みによっています。同時に、それはアブラハムの信仰にもよっています。ローマ人への手紙4章18節〜22節に、

アブラハムは望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

と記されているとおりです。
 このようなアブラハムの信仰は、神さまが恵みによってアブラハムに与えてくださったものです。そして、神さまは、この試練をとおして、アブラハムのうちにこのような信仰が生み出されていることを明らかにしてくださったのです。
 このようにアブラハムに与えられた試練は、神である主の贖いの御業の歴史において重大な意味をもち、アブラハムにも大切なことを教え、その信仰が現実的に働くようにしてくださったることになるものでした。このような試練を、神である主が悪魔のそそのかしに触発されて、アブラハムに与えられたとは考えられないことです。この場合には、創世記22章1節に、

 神はアブラハムを試練に会わせられた。

と記されているとおり、文字通り、神さまがアブラハムを試練に会わせられたのであると考えられます。
 神さまがご自身の民を全体として試練に会わせられた事例はいくつか記されています。代表的に、申命記8章2節〜5節に記されていることを見てみましょう。そこには、

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。

と記されています。2節では、

それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

と言われています。
 これは出エジプトの時代に、エジプトの奴隷の身分から解放されたイスラエルの民の第1世代が、その不信仰のために荒野で滅びてしまい、第2世代が約束の地に入るに当たって語られたことです。ここで「あなた」と言われているのは、この第2世代の人々のことです。そして「(あなたを試み」と訳されていることば(ナーサー・不定詞)が「試練に会わせる」ことを意味しています。
 ここでは、これによって、

あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

と言われています。先ほどのアブラハムの場合にもそうですが、神さまは初めからイスラエルの民の「心のうちにあるもの」を知っておられます。それで、これは、神さまとしては「再確認する」というようなことになります。このことは、試練に会った人にとってより大きな意味をもっています。これは人の目に隠れていたこと、その人自身も自覚していなかったことが明らかになることを意味しています。この試練をとおして、その人が自分の現実を自覚的に知るようになるのです。もしその人が、この試練をとおして、自らの不信仰に気がつくようになったのであれば、悔い改めて、主に信頼することができるようになります。あるいは、その人がこれまで受けてきた主の恵みの豊かさに気がつくようになったのであれば、主に感謝しつつ、ますます主に信頼するようになることができます。
 このことと調和して、3節では、

人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。

と言われています。40年間にわたる試練の時は、イスラエルの民に大切なことを経験的に学ばせてくださる訓練の時であったのです。これによって、イスラエルの民は契約の神である主が自分たちとともにいてくださることを、しかも、それは一時的なことではなく、その40年間をとおして変わることがなかったということを、経験的に、現実のこととして学ぶことができたのです。
 このように、主が与えられる試練には、積極的な意味があります。それでペテロの手紙第1・4章12節、13節には、

愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

と記されています。
 このように、主が与えてくださる試練には積極的な意味があることを踏まえることは、

 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。

という祈りを理解するうえで大切なことです。この点につきましては、さらにお話しします。

 


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