(第186回)


説教日:2009年3月8日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話を続けます。
 今日は、この祈りの後半の、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

ということばに注目してお話ししたいと思います。
 このことばは「・・・のように」ということを表すことば(ホース)から始まっています。それを生かして訳しますと、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しましたように、

となります。また、ここでは「私たちも」ということが強調されています。
 この、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

ということばをどのように理解するかということについては、意見が分かれていますが、大きく2つの見方に分けることができます。
 1つの見方では、これは、私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦すことを規準としてあるいは模範として、神さまも私たちの「負いめ」を赦してくださるようにと祈るものであると理解しています。
 もう1つの見方では、これは神さまが「私たちの負いめ」を赦してくださったことを踏まえて、私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦すことを決意することであると理解しています。
 この2つの見方のそれぞれに言い分があります。
 これは、私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦すことを規準としてあるいは模範として、神さまも私たちの「負いめ」を赦してくださるようにと祈るものであるという理解を支えるものは、この部分が、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しましたように、

というように、「・・・のように」ということばで始まっているということと、「赦しました」と訳されていることばが、基本的に過去のことを表す不定過去時制で表されているということです。他にもありますが、あまり一般的ではありません。
 確かに、この「赦しました」と訳されていることばは、基本的には、過去のことを表す時制ですが、現在のことを表している可能性もあります。その場合は、この不定過去時制が「セム語的完了時制」を反映しているということになります。(ヘブル語を学びますと、基本的なことの1つとして「ワウ接続法」が出てきます。そこでは完了時制で表現されていることが現在や未来のことを表し、未完了時制で表現されていることが過去のことを表すという、「逆転」が起こります。そのようなことを反映しているということです。)イエス・キリストがこの教えをなされたときには、セム語に属するアラム語あるいはヘブル語で教えられたと考えられます。それで、この不定過去時制が「セム語的完了時制」を反映しているる可能性があるわけです。
 また、ルカの福音書11章4節には、これと同じ祈りが、

私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。

と記されています。この後半部分には、「・・・だからです」という意味の接続詞(ガル)があります。それを生かして後半を訳しますと、

 私たちも私たちに負いめのある者をみな赦しますから。

となります。
 今お話ししていることとのかかわりで注目されるのは、「赦します」と訳されていることばが現在時制で表されているということです。このことも、マタイの福音書6章12節に記されている第5の祈りの後半の、新改訳で、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

ということばの「赦しました」と訳されていることばが「セム語的完了時制」を反映していて現在のことを表している可能性が高いことを示しています。その場合には、この部分は、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しますように、

と訳すことができます。
 そうしますと、この祈りは、必ずしも、私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦したことを規準あるいは模範として、神さまが「私たちの負いめ」を赦してくださることを祈り求めるものではないということになります。


 これにはまだ問題が残っています。それなら、この部分が「・・・のように」ということばで始まっているということをどのように理解したらいいのかということです。
 今お話ししましたように、私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦したことを規準あるいは模範として、神さまが「私たちの負いめ」を赦してくださることを祈り求めるものではないとしても、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しますように、

ということは、私たちが現在のこととして「私たちに負いめのある人たち」を赦していることが規準あるいは模範となっているのではないかということです。
 しかし、このような理解には問題があります。
 第1に、先ほどお話ししましたように、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しますように、

ということばにおいては、「私たちも」ということが強調されています。少し微妙なことですが、この「私たちも」の「」(カイ)は、神さまが「私たちの負いめ」を赦してくださっていることを踏まえているとも考えられます。私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦しているように、神さまも「私たちの負いめ」を赦してくださいというのではなく、神さまが「私たちの負いめ」を赦してくださるので、「私たちも、私たちに負いめのある人たちを」赦しますということです。
 第2に、私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦しているといっても、私たちの赦しは完全なものではありません。その赦しには必ず欠けがあります。たとえば、ほとんどの場合に、どこかにしこりが残ってしまったりしていて、それを消し去るのにさらに時が必要です。その他の欠けもあることでしょう。そのような私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦したこと、あるいは赦していることが、神さまが「私たちの負いめ」を赦してくださることの規準あるいは模範となるということは考えられないことです。
 第3に、この主の祈りの第5の祈りは、基本的に、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るものです。そのようにして赦しを願う「私たちの負いめ」には、当然、今お話ししましたように、私たちが真の意味では「私たちに負いめのある人たち」を赦すことができなかったということも含まれています。たとえば、もうその人を赦しているはずなのに、ことあるごとにその人が自分にしたことを思い起こして、心をかき乱されてしまうというようなことがあります。そのために、自分は真の意味でその人を赦してはいないということを思い知らされることがあります。そのように真の意味で人を赦すことができていないことを赦してくださいと祈る場合には、私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦したこと、あるいは赦していることを規準あるいは模範として、「私たちの負いめ」を赦してくださいと祈ることはできないのではないでしょうか。
 このようなことから、主の祈りの第5の祈りの後半の、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しますように、

ということばでは、私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦したこと、あるいは、私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦していることが、神さまが「私たちの負いめ」を赦してくださることの規準や模範とはなりえないと考えられます。
 その意味で、文語体の主の祈りが、

 我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。

となっていることには、問題があります。
 また、新改訳が、この部分を、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

と訳して、「・・・のように」ということば(ホース)を訳し出さなかったのは、私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦したこと、あるいは、私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦していることが、神さまが「私たちの負いめ」を赦してくださることの規準や模範となっているというような誤解が生じることを避けるためではないかと思われます。

 そうしますと、この、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

ということ、あるいは、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しますように、

ということばをどのように理解したらいいのでしょうか。なぜこのことばが付け加えられているのでしょうか。
 これについては、さらに考えなければならないことがあります。
 マタイの福音書6章では9節〜13節に記されている主の祈りに続いて、14節、15節には、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 この教えが、主の祈りのすぐ後に置かれているということには意味があると考えられます。これによって、父なる神さまが「私たちの負いめ」を赦してくださることと、私たちが「私たちに負いめのある人たち」を赦すことが切り離すことができないということを強調していると言うことができます。その意味で、これは、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りの後半部分の、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

ということを補強していると考えられます。
 この教えは、これが条件文で表されているので、私たちの罪が赦されるための条件を示すものではないかという気がします。しかし、この条件文は、ある状況の下では、そのようなこともありえるという意味合いをもつ条件文で表されています。そのようなことが起こることが当然のこととされているわけではありません。ですから、ここでは、人の罪を赦さなければならないような状況になったときに赦すならば、ということや、人を赦さなければならない状況になったときに赦さないならばということを問題としています。私たちの地上の歩みの中で、常にそのような状況になるというわけではありません。けれども、私たちは、常に、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈らなければならないものです。その意味では、この14節、15節に記されているイエス・キリストの教えは、私たちが「私たちの負いめ」を赦していただくための条件を示しているわけではないと考えられます。

 話がややこしくなってきてしまいましたが、これらすべてのことを踏まえて、この問題の理解のために決定的に大切なことに注目したいと思います。
 それは、主の祈りを祈るときには、父なる神さまに向かって、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけて祈り始めるようにと、イエス・キリストが教えてくださっているということです。また、先ほどの14節、15節に記されている、

もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。

というイエス・キリストの教えでも、父なる神さまのことが「あなたがたの天の父」と呼ばれています。しかも、それが繰り返されています。
 言うまでもなく、このことは、私たちがすでに御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦されており、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれて、神の子どもとしての身分を授けられ、実際に、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとされていることを踏まえています。これらすべてのことは、父なる神さまが、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、私たちに対してなしてくださっていることです。そして、そのすべては、父なる神さまの一方的な愛と御子イエス・キリストの恵みによっています。私たちの側には、それに価するものは何もありません。
 このことは、これまで数週間にわたって、ヨハネの手紙第1・3章4節に記されている、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは不法です。(直訳)

というみことばと、その数節後の8節〜10節に記されている、

罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。(第3版)

というみことばに基づいてお話ししてきた、私たちが犯す罪がどのようなものであるかということと符合しています。
 実は、これまで、このヨハネの手紙第1・3章に記されていることを取り上げてきたのは、この主の祈りの第5の祈りの後半のことを理解するために助けになることでもあると考えたからです。
 このヨハネの手紙第1・8節〜10節でヨハネは、「神の子どもと悪魔の子どもとの区別」のことを問題としています。言うまでもなく、ヨハネは、私たち、御子イエス・キリストを信じている者が「神の子ども」であることを踏まえて、これらの教えを記しています。今お話ししていることとのかかわりで大切なことは、この「神の子ども」は、複数形であるということです。私たちそれぞれが「神の子ども」であるということで終らないで、「神の子どもたち」の共同体、すなわち、神の家族があるのです。それは、先週までのお話でお話ししてきました「」と「女の子孫」の共同体のことです。
 このような「神の子どもと悪魔の子どもとの区別」を踏まえた上で、ヨハネは、

 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。

と述べています。この場合の「」は、4節で「罪とは不法です」と言われている「不法」としての「」のことです。これは、「悪魔」にたきつけられて、「悪魔」と一体になって神さまに敵対し、逆らうことや、「悪魔」のように高ぶって神さまに敵対し、「悪魔」にくみすることを意味しています。

 だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。

と言われていますように、「神から生まれた者」は、そのような「不法」としての「」を犯すことはありません。
 というのは、私たちは父なる神さまの愛にあずかり、御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、罪を赦されているだけでなく、御子イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれて、神の子どもとされているからです。

 ヨハネは、

だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

と述べていました。
 この「神の種」が何を指しているかということですが、結論的なことを言いますと、「神の種がその人のうちにとどまっている」ということは、その後に記されている「その人は神から生まれた」ということと深く結び合っています。それで、これは「神から生まれた」者の本質的な特質のことであると考えられます。言い換えますと、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれた者の本質的な特質のことです。
 これが「神の種」と呼ばれているのは、ペテロの手紙第1・1章23節に、

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

と記されていますように、また、イエス・キリストの「種まきのたとえ」による教えに見られますように、主のみことばとの関連を示していると考えられます。
 また、「神から生まれた」ということは、ヨハネの福音書3章5節に、

人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。

と記されているイエス・キリストの教えに示されていますように、「御霊によって生まれ」たということを意味しています。「水と御霊」はエゼキエル書36章25節〜27節のみことばを背景としていて、「御霊」のことを指していると考えられます。ヨハネの福音書3章では、続く6節以下には「」のことは出てこなくて、「御霊」のことしか出てきません。
 これらのことから、この「神の種」、すなわち、「神から生まれた」者の本質的な特質は、神である主のみことばと、みことばとともにお働きになる御霊によって、はぐくみ育てられて実を結ぶに至るものであると考えられます。
 それでは、この「神の種」、すなわち、「神から生まれた」者の本質的な特質とは、具体的にどのようなものでしょうか。それは神さまが神のかたちに造られた人にお与えになった、義、聖性、真実、善、愛といつくしみなど、神さまご自身の人格的な属性のことですが、ヨハネの手紙第1・3章の文脈では、兄弟を愛する愛が強調されています。
 3章1節では、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、―― 事実、いま私たちは神の子どもです。―― 御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。

と言われています。このことから「神の子ども」(複数)に関する記述が始まっています。そして、16節には、

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

と記されています。さらに、4章7節〜11節には、

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と記されています。
 父なる神さまは、これほどまでに私たちを愛してくださり、イエス・キリストの贖いの御業に基づいて、私たちの罪をまったく赦してくださり、私たちを新しく生まれさせて「神の子ども」としてくださいました。大切なことは、この父なる神さまと御子イエス・キリストの愛は過去のものではなく、変わることなく今も私たちに注がれており、永遠に私たちに注がれ続けるということです。それで、私たちは、今も、これからも、永遠に父なる神さまに向かって、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることができます。
 そして、私たちはこのような父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みに包まれている「神の子ども」であるので、「不法」としての「」を犯すことはありません。とはいえ、私たちは罪を犯します。それは、「悪魔」のように高ぶって神さまに敵対し、「悪魔」にくみする罪ではありません。「神の子ども」として神さまの愛と恵みに包まれており、その愛を信じていながら、さまざまなことに惑わされて、不本意ながら犯してしまう罪です。そのような神さまの愛を信じているからこそ、犯してしまった罪の重みに打ちのめされることになります。しかし、イエス・キリストは、私たちがそのような罪を犯してしまったときにもなお、父なる神さまの方を向いて、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るようにと教えてくださっています。
 ここには、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛と恵みがあふれています。それは「神の子どもたち」の共同体としての神の家族を満たしている愛と恵みです。この神の家族においては、「互いに愛し合う」ことは、最も自然なことです。そしてその愛は、何よりも兄弟の罪を赦すことに表れてきます。ペテロの手紙第1・4章8節には、

何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。

と記されています。
 前に、簡単にお話ししたことがありますが、

 私たちの負いめをお赦しください。

という祈りは、基本的には、「神の子どもたち」の共同体である神の家族の祈りです。それで、私たちは、この祈りで自分の「負いめ」の赦しだけを祈るのではありません。基本的には、「私たちの負いめ」の赦しを祈り求めるのです。愛においてお互いの弱さを思いやりつつ、心を合わせて、御子イエス・キリストの御名によって、父なる神さまの恵みとあわれみを祈り求めるのです。そうであれば、

 私たちの負いめをお赦しください。

と心を合わせて祈る私たちが、兄弟の「負いめ」を赦さないということは、この祈りそのものを否定することです。私たちは、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るとともに、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

あるいは、

 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦します。

と祈ることによって、お互いへの愛を具体的に現すことへと導かれます。そして、私たちが父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みによって満たしていただいている神の家族のうちに加えていただいていることを確認します。

 


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