![]() |
説教日:2009年3月1日 |
すでにいろいろな機会に繰り返しお話ししましたように、人は愛を本質的な特性とする神のかたちに造られました。そして、人の心には、神さまの律法が記されていました。この神さまの律法は、マタイの福音書22章37節〜39節に記されているイエス・キリストの教えに示されているように、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に集約され、まとめられる「愛の律法」です。この「愛の律法」が神のかたちに造られた人の本質的な特性である愛を導いて、人が具体的な状況の中で愛を現すようになるのです。これが、最初に神のかたちに造られた人の本来の姿です。ですから、人は外から教えられなくても神さまのみこころをわきまえており、人がなすことはそのまま神さまのみこころに沿っていたのです。 創世記1章27節、28節に記されているように、神さまは神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。人は神さまのみこころに従って、すなわち、自らの心に記されている「愛の律法」に導かれて、この歴史と文化を造る使命を果たすものであるのです。そのことを通して、契約の神である主への愛と契約共同体の隣人への愛を、具体的に表現するものであるのです。この点につきましては、すでに、この主の祈りのお話の中で繰り返しお話ししてきました。 このことを背景として「善悪の知識の木」にかかわる神である主の戒めの意味が考えられます。 神のかたちに造られた人は、歴史と文化を造る使命を果たす具体的な状況の中で、造り主である神さまが心に記してくださった「愛の律法」に導かれて、神のかたちの本質的な特性である愛を表現するものです。そのように生きるとき、人は真の意味で自由であると言えます。そこには、外側からの脅迫も、強制も、指示もなく、ただ自分の自由な意志によって愛を表現する具体的な行いを選び取ることができました。 具体的には、歴史と文化を造る使命によって、すべての生き物たちを支配するように命じられた人は、創世記2章19節に、 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。 と記されていますように、その愛をもって、生き物たちに名をつけました。聖書においては、「名」は、その名をもつものの本質的な特性を表しています。そして、名をつけることは権威を発揮することを意味しています。ですから、人は生き物たちの本質的な特性を理解したうえで名をつけ、そのことによって、生き物たちとの関係を築いたのであると考えられます。そして、そのようにして理解した生き物たちの特性にしたがって、生き物たちのお世話をしていたと考えられます。そのことに、神のかたちに造られた人の本質的な特性である愛が、具体的に表現されていたと考えられます。 人が罪によって堕落する前には、神さまから委ねられた権威をもって治めることは、上に立って支配することではなく、愛をもって仕えることでした。マルコの福音書10章43節〜45節に記されているように、イエス・キリストは、権威の本来の姿について、 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。 と教えておられます。 神のかたちに造られた人は、このような具体的な状況の中で愛をもって仕えることを、外からの指示や強制によらず、自らの自由な意志によってなしていました。しかも、そのようにしてなすことには、生き物たちを助け、支えることであるという意味と価値をもっていました。そこに、神のかたちに造られた人の自由と「自律性」があります。 このように、すべてのことを自分の自由な意志によって、いわば、自分の思うとおりに行っていくことができること、しかも、それによって確かに愛の実が結ばれ、結果が生み出されていくということは、まことに幸いなことではあります。しかし、そこにはある種の危険も潜んでいます。それは、自分が「主」であるかのように錯覚してしまうという危険です。それによって、神さまと自分の間にある「絶対的な区別」を見失ってしまうという危険です。このような「危険」に対処するために、神である主は「善悪の知識の木」にかかわる戒めを与えてくださったのであると考えられます。 先に引用しました創世記2章9節に記されていましたように、神である主は、エデンの園に「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木」を生えさせてくださいました。その上で、16節、17節に記されている、 あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。 という戒めを与えられました。 皆が飢えているときにパンが1つしかないというような状況では、自分がそのパンを食べないことは、意味あることです。それは、自らを犠牲として、飢えている仲間を救おうとすることです。けれども、ほかに「見るからに好ましく食べるのに良いすべての木」がたくさんある中で、「善悪の知識の木」から取って食べないこと自体には、何の意味もありません。人が隣人としての妻を愛してさまざまなことをなすことには、「それが彼女のためになる」という理由がありました。また、具体的な状況の中で生き物たちのお世話をすることにも、「それが生き物たちのためになる」という理由がありました。それで、それらのことをすれば何らかの結果が生み出されました。しかし、「善悪の知識の木」から取って食べないことには、「誰かのためになる」というような理由がありません。また、そのことによって何らかの結果が生み出されることはありません。アダムあるいはエバが「善悪の知識の木」から取って食べないことによって誰かが助かるわけでも、誰かが益を受けるわけでもありません。言ってみれば、「善悪の知識の木」から取って食べないということは、形としては「何もしない」ということと同じです。 そうであるとしますと、 善悪の知識の木からは取って食べてはならない という戒めは、何の意味もない戒めであったということになりそうです。しかし、そうではありません。 その本来のあり方から言いますと、神のかたちに造られた人は、ただ、神である主が、 善悪の知識の木からは取って食べてはならない と戒められたからという理由だけによって、この木から取って食べなかったのです。神である主は主であられ、自分は主のしもべであり、主を愛し、主に従うものであるということだけが、この戒めを守る理由であるのです。その他には、この木から取って食べない理由はありません。 先ほどお話ししましたように、神のかたちに造られた人には「自律性」がありました。人はすべてのことを自分の自由な意志によって選び取ることができました。いわば、自分の思うとおりに行っていくことができました。しかも、それによって確かに愛の実が結ばれ、結果が生まれました。このようなことが続いていきますと、自分が「主」であるかのような錯覚に陥らないとも限りません。そして、神さまと自分の間にある「絶対的な区別」を見失ってしまいかねません。 そのような状態にあって、人は「善悪の知識の木」を見るたびに、神である主がこの木からは取って食べてはならないと戒められたこと、そして、自分は神である主のしもべとして主を愛し、主の戒めに従うべきものであるということを思い起こすことができたのです。その意味で、「善悪の知識の木」から取って食べてはならないという戒めは、外側からの指示や強制のない中で、自らの自由な意志によってすべてのことを選び取ることができた状態にあった人が、自分が主のしもべであることを思い起こすための「恵みの手段」であったのです。 そして、先ほどお話ししましたように、「善悪の知識の木」から取って食べてはならないという戒めは、ただ、これが神である主から与えられた戒めであり、自分は神である主を愛しているということだけから、守るべき戒めでした。その意味で、この戒めは、神である主の律法の戒めの根本にあることをそのまま映し出す戒めです。 主の律法の戒めの全体は、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」に集約され、まとめられます。「善悪の知識の木」から取って食べてはならないという戒めは、この「第一の戒め」に通じる戒めです。 この「善悪の知識の木」から取って食べてはならないという戒めには、 それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。 という警告がついています。それは、この戒めが「何々してはならない」という禁令であることによっています。実際に、この戒めだけが、罪によって堕落する前の人に与えられたただ1つの禁令です。 また、神のかたちに造られた人はこの戒めに背くことによってだけ、罪を犯して死ぬのではありません。人がその他のどの戒めに背いたとしても、それは神である主に対する罪であり、人はそれに対するさばきを受けて死ななければなりません。けれども、神のかたちに造られたときの人には罪の性質がありませんでした。それで、人が罪の自己中心性に歪められた欲望を果たそうとすることはありませんでした。むしろ、人は神である主との愛の交わりのうちに生きていました。それで、その心に「何々してはならない」というような戒めは記されていませんでしたし、そのようなことをすればさばきを受けて死ぬことになるというような警告も必要ではありませんでした。 モーセ律法に「何々してはならない」という戒めやそれに伴う警告が多いのは、それが神である主に対して御前に堕落してしまっている人に与えられているからです。 エバは、これまでお話ししましたような「善悪の知識の木」に関する戒めの意味を誤解していました。 創世記3章1節には、 あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。 という「蛇」の背後にあるサタンの問いかけが記されています。これに対するエバの答えが2節、3節に、 私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。」と仰せになりました。 と記されています。 よく、この答えの問題は、「必ず死ぬ」という神である主のことばを、エバが「死ぬといけないからだ」と弱めてしまったことや、「それに触れてもいけない」ということを付け加えたことにあると言われます。確かに、問題はこの2つのことばに表れています。しかし、もしそれが暗証聖句のように一字一句正確に覚えていなかったことが問題であるという意味であれば、それは問題の本質を誤解しています。エバの問題は、単なることばの問題ではなく、「善悪の知識の木」に関する神である主の戒めを誤解していたことにあります。 議論を省いて、結論的に言いますと、 あなたがたが死ぬといけないからだ。 ということばは、ちょうど母親が子どもに「落ちて死ぬといけないから、池に近づいてはいけない」と言うようなものです。エバは、「善悪の知識の木」が危険な木であるので、神である主は、その木から取って食べてはならないと警告してくださったと理解していたのです。また、 それに触れてもいけない。 ということばですが、神である主の戒めにはそれらしいことばもありません。これは、「そんな危ない木には触れないでおこう」という自らが定めた「指針」、「心得」をもっていたことの現れであると考えられます。イエス・キリストの時代の律法学者たちも、主の戒めを守るためのいろいろな「指針」を設けました。それを守ることによって主の戒めを守っていると錯覚してしまうことになりました。エバにも同じような問題があったと思われます。 エバが「善悪の知識の木」は危険な木であるので、神である主はそれから取って食べてはならないと戒められたと考えていたとしますと、エバは「善悪の知識の木」そのものに人を殺すような性質、人に変化をもたらす一種の「力」があると考えていたわけです。 このようなエバの理解の不備をついて、サタンは、 あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。 と言いました。 事柄の理解にとって大切なことですが、これも議論を省いて結論的なことだけをお話ししますと、「善悪を知るようになる」ということは「神のようになる」ということを意味していると考えられます。ただし、それは、この木から取って食べることによってではなく、この木に関する神である主の戒めに示されている、しもべとしての自覚の下に主を愛して、主の戒めに従いとおすことによって、「神のようになる」ということです。この場合、主の戒めに従いとおすということは、「善悪の知識の木」に関する戒めだけに従いとおすということではなく、歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、主のすべての戒めに従いとおすということです。 実際、第2のアダムとして来られたイエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことによって、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。そして、御霊によってイエス・キリストと1つに結ばれた私たちは、その御霊によって「アバ、父。」と呼ぶことができる神の子どもとしていただいています。その意味で、私たちは「神のように」なっています。 サタンは、エバが「善悪の知識の木」そのものに人を変えてしまうような「力」があると考えていたことを逆手に取っています。そして、「この木は危ない木であるどころか、この木から取って食べれば、『あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』」と言ってエバを説得しました。 サタンは、エバが「この木には人に変化をもたらすような力がある」と考えていることを用いて、その上に立って話を進めていますので、エバもその話を受け入れやすくなってしまっています。エバとしては、「そう言われてみれば、この木の名前は『善悪の知識の木』だ。」という方向に考えが進んでしまったのだと思われます。 そのようにして説得されてしまったエバのことが、3章6節に、 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 と記されています。もともと神である主がエデンの園に生えさせた木は「見るからに好ましく食べるのに良い」木でした。それがエバの目には、 その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。 と見えたのでした。 その木から取って食べたエバは夫アダムにもそれを与えました。ここでは、もはや「蛇」の背後にあって働いていたサタンはまったく退いてしまっています。罪によってサタンと1つになってしまったエバが、夫アダムを誘惑するようになってしまいました。 すでにお話ししましたように、「最初の福音」においては、神である主が一方的な恵みによって置いてくださった「敵意」によって、罪によるエバとサタンの一体性を断ち切ってくださることを約束してくださっています。 このようなことから、ヨハネの福音書8章44節に記されている、 悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。 というイエス・キリストの教えは、サタンがいわゆる「殺人」をしているということ以上の深刻なことを示していることが分かります。それは、「真理に立ってはいません」というイエス・キリストのみことばが示しているとおり、神である主とその愛と恵みに関する啓示のみことばを、偽りをもって覆い隠したり、ねじ曲げたりして、人を神である主から遠ざけ、その結果、人を永遠の滅びに至らせてしまうということです。 それは、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後においては、神である主が一方的な愛に基づく恵みによって与えてくださった「最初の福音」に示されている贖い主に関する約束を、偽りをもって覆い隠してしまうこととして現れてきます。その後には、さらに豊かに積み上げる形で福音のみことばが与えられてきましたが、その都度、サタンは偽りをもって、それを覆い隠してきました。 ヨハネの福音書8章では、この44節に先立つ40節には、 ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。 というイエス・キリストのみことばが記されています。これは、ユダヤ人たちがイエス・キリストを殺そうとしていることを述べていますが、イエス・キリストはご自身の身の安全のことを考えておられるのではありません。「神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを」というみことばから分かりますように、彼らが福音の真理のみことばを退けてしまっていることを問題としておられるのです。 同じような危険は私たちにもあります。いろいろなことが考えられますが、主の祈りの第5の祈りとのかかわりで考えられる、1つのことを取り上げます。 私たちはしばしば、自分が犯した罪の深さや愛の足りなさのための「負いめ」の大きさに絶望的な思いになります。このような自分は、もう神の子どもと呼べないのではないかというような思いになります。けれども、そのような思いによって絶望してしまうことは、福音のみことばを曲げてしまうことですし、サタンの陣営を喜ばすことになります。 1つには、黙示録12章10節では、サタンのことが「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と呼ばれています。もし私たちが、自らのことを告発し続けて終ってしまうなら、サタンがしようとしていることを自分が自分にしてしまうことになります。それはサタンの陣営を喜ばせることになってしまいます。もちろん、私たちは自らの罪を認めて、主に対して真実に悔い改め、主の贖いの恵みに信頼しなければなりません。しかし、それは自らを告発し続けることとは違います。 それ以上に重大な問題があります。父なる神さまが私たちのために備えてくださったのは、永遠の神の御子の十字架の死による罪の贖いです。御子が成し遂げてくださった贖いによっても贖うことができない罪やがあると言うことは、御子の十字架の死を無にすることです。 ですから、私たちは、どのような罪を犯したときにも、大きな「負いめ」を負ったときにも、また、そのために絶望的な思いになったときにも、イエス・キリストご自身が、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈るようにと教えてくださっていることに心を向け、真実にこの祈りを祈り、深い感謝をもって主の赦しを信じることによって、福音のみことばの真理のうちに留まりたいと思います。 |
![]() |
||