(第184回)


説教日:2009年2月22日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話を続けます。
 この数週間、私たちが犯す罪とその赦しについて1つの大切なことを考えるために、ヨハネの手紙第1・3章4節に記されている、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

というみことばについてお話ししてきました。今日は、そのお話を復習してから、さらに進めたいと思います。
 新改訳で「律法に逆らうこと」と訳されていることば(アノミア)は、前半で「不法」と訳されていることばと同じです。それで、4節は、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは不法です。

と訳すことができます。そして、この「不法」は、終りの日に出現する「不法の人」に典型的また最終的に見られることで、サタンにたきつけられて神さまに逆らうこと、あるいは、サタンのように高ぶって神さまに逆らい、サタンの側につくこと意味していると考えられます。
 このことは同じヨハネの手紙第1・3章の8節に、

罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。(第3版)

というみことばと関連しています。ここに出てくる「罪を犯している者」ということば4節で、

 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。

と言われているときの「罪を犯している者」とまったく同じことばです。それで、どちらも同じ人を表していると考えられます。ですから、「罪を犯している者」が行っている「不法」はサタンとかかわっていると考えられます。
 さらに、8節に続く9節、10節前半には、

だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。(第3版)

と記されています。
 このことから分かりますように、ここでヨハネは「神の子どもと悪魔の子どもとの区別」を明らかにしようとしています。このことを踏まえて見ますと、

 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。

というみことばは「神の子ども」のことを述べているのではないことが分かります。それで、

 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。

というみことばも「神の子ども」のことを述べているのではないと考えられます。
 これらのことから、9節で、

 だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。

と言われているのは、「神から生まれた者」すなわち「神の子ども」は、「不法」としての罪を犯すことはないということを述べていると考えられます。「神の子ども」は、サタンにたきつけられて神さまに逆らうこと、あるいは、サタンのように高ぶって神さまに逆らい、サタンの側につくこととしての罪を犯すことはないということです。


 これまで、このことを理解するために、創世記3章15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という「最初の福音」についてお話ししました。これは、最初の人とその妻を、神である主に対して罪を犯すように誘惑した「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきのことばです。神である主が「おまえ」と呼ばれているサタンとその子孫の共同体と、「」と「女の子孫」の共同体の間に「敵意」を置いてくださって、2つの共同体の間に霊的な戦いがあるようにしてくださることを示しています。そして、神である主は「女の子孫」の「かしら」として来られる方によって、サタンに対する最終的なさばきを執行されるということを示しています。
 このような、「最初の福音」に示されている神である主の備えによって、「」と「女の子孫」は、霊的な戦いにおいて、神である主に敵対しているサタンとその子孫に敵対するものとされます。それは、「」と「女の子孫」が神である主の側に立つものとされるということを意味しています。そしてこのことが「」と「女の子孫」の救いを意味しています。
 このこと、すなわち、霊的な戦いにおいて、「」と「女の子孫」が神である主の側に立つようになることとの対比で、「不法」としての罪が考えられます。それは、「悪魔から出た者」すなわちサタンの性質を受け継いでいる者が犯す罪であり、サタンにたきつけられて神さまに逆らうこと、あるいは、サタンのように高ぶって神さまに逆らい、サタンの側につくことです。「」と「女の子孫」は、神である主が置いてくださった「敵意」によって、霊的な戦いにおいて、これとは反対の立場に立つ者とされています。
 ヨハネの手紙第1・3章8節〜10節前半に、

罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。

と記されていることは、「最初の福音」を踏まえていると考えられます。そして、人類が最初の人にあって神である主に対して罪を犯して御前に堕落した直後に与えられた「最初の福音」によって示されたことが、「女の子孫」の「かしら」として来られた神の御子イエス・キリストのお働きによって現実になっていることを示しています。

 このことは、「女の子孫」すなわち「神の子ども」が罪を犯さないということではありません。「神の子ども」も罪を犯します。1章8節〜10節には、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と記されています。8節では、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と言われていますし、10節では、

もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と言われています。よく知られていますように、8節で「もし、罪はないと言うなら」と言われているときの「」は単数形で、罪の性質のことです。私たち「神の子ども」のうちに罪の性質があるので、私たちは罪を犯します。そのように犯した罪は、私たちのうちにある罪の性質の現れです。
 そうではあっても、私たちは3章4節で、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは不法です。

と言われており、8節で、

 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。

と言われているような意味では罪を犯すことはありません。サタンにたきつけられて神さまに逆らうこと、あるいは、サタンのように高ぶって神さまに逆らい、サタンの側につくこととしての罪を犯すことはないのです。

         *
 このことは、2つの面から理解することができます。
 1つは、歴史的な面、救済史における神である主の贖いの御業という面です。これは、私たちのためになされたことではありますが、私たちに対してなされたことではありません。また、これはすでにお話ししたことですので、簡単にまとめておきます。
 神である主は、贖いの御業の歴史において、「最初の福音」によって示してくださったことを、「女の子孫」の「かしら」として来られた神の御子イエス・キリストによって実現してくださいました。神である主が「最初の福音」を与えてくださったことによって、罪による堕落の後の人類の歴史は、神さまとの関係をめぐる霊的な戦いの状況になりました。「女の子孫」の「かしら」として来られた御子イエス・キリストは、ご自身の十字架の死によって、ご自身の民の罪を贖ってくださることによって、霊的な戦いにおいて勝利されました。ご自身の民の神である主との関係を回復し、確立してくださったのです。ヘブル人への手紙2章14節、15節には、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されています。
 もう1つは、私たち個人の生涯において起こっていることです。言い換えますと、神である主が、すでにイエス・キリストによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、私たちに対してなしてくださっいるお働きです。
 私たちは神さまの一方的な愛に基づく恵みによって、このイエス・キリストの贖いの御業にあずかって、イエス・キリストと1つに結び合わされています。私たちをイエス・キリストと1つに結び合わせてくださっているのは御霊です。そして、私たちは、このイエス・キリストとの一体性のゆえに、「女の子孫」の共同体に属するものとされています。
 先ほど引用しましたヘブル人への手紙2章15節には、

これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されていました。このことが、コロサイ人への手紙1章13節、14節には、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

と記されています。私たちはかつては「暗やみの圧制」の下にありました。それは、これまでお話ししてきたことに合わせて言いますと、サタンとその子孫の共同体に属していたこということです。生まれながらに罪の性質を宿しており、その罪によってサタンと一体となって、神である主に逆らっていました。私たちは「不法」としての罪を犯していたのです。神さまはそのような私たちを「暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました」。これは、私たちが「女の子孫」の「かしら」であられるイエス・キリストとの一体性のゆえに、「女の子孫」の共同体に属する者とされているということでもあります。

 これらのことは、神さまが御子イエス・キリストによって私たちに対してなしてくださったことです。同じことを、私たち自身のうちで起こったこととして見てみましょう。
 御霊によってイエス・キリストと1つに結び合わされている私たちは、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれています。そして、新しく生まれた私たちは、福音のみことばを聞いて悟るようになりました。コリント人への手紙第1・2章14節に、

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

と記されているように、私たちが福音のみことばを理解し悟ることができたのは御霊のお働きによっています。これによって私たちは、福音のみことばにあかしされている御子イエス・キリストを神さまが遣わしてくださった贖い主であることを信じることができるようになりました。私たちは自らが罪人であり、神さまに対して罪を犯していた者であることを認め、十字架にかかって罪の贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストを信じるようになりました。これも御霊のお働きによることです。コリント人への手紙第1・12章3節に、

聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

と記されているとおりです。
 私たちが新しく生まれて、福音のみことばを理解し悟り、十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを父なる神さまが備えてくださった贖い主であると信じ、自らの罪を認めてイエス・キリストに信頼するようになったことを、神学用語では「改変」と呼びます。「回心」と呼んでもいいのですが、「回心」という日本語には少し違う意味合いがあるので、「改変」と呼ぶほうがいいと考えられます。この「改変」の消極的な面が「悔い改め」であり、積極的な面が「信仰」です。「改変」の消極的な面としての「悔い改め」を「いのちに至る悔い改め」と呼び、積極的な面としての「信仰」を「救いに至る信仰」と呼ぶこともあります。いずれにしましても、「悔い改め」と「信仰」は(改変という)1つのことの裏表であるということが大切です。罪の悔い改めのない信仰は「救いに至る信仰」ではありません。たとえば、イエス・キリストを信じれば幸いな人生を送ることができるということで信じているけれども、自らの罪を認めて悔い改めることはないとしたら、それは「救いに至る信仰」ではありません。また、イエス・キリストを信じることにつながらない「悔い改め」は「いのちに至る悔い改め」ではありません。自らの罪を深く悔いることはあっても、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いを信じて、イエス・キリストに信頼しないとしたら、それは「いのちに至る悔い改め」ではありません。
 さて、このような罪の「悔い改め」とイエス・キリストへの「信仰」からなる「改変」は、私たちの生涯において一度だけ起こった決定的な転換です。それまでの私たちは、自らの罪によってサタンと1つであり、神さまに逆らって「不法」としての罪を犯しておりました。その私たちが、神さまの一方的な愛に基づく恵みによって、イエス・キリストを信じるようになり、自分の罪を悔い改めて神さまの御許に立ち返るようになりました。
 これ以後、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認めていただき、神の子どもとしての身分を与えていただき、神さまの御前を歩む者、神さまとの愛にある交わりのうちに生きる者としていただいています。

 このすべては、父なる神さまが御子イエス・キリストによって私たちに成し遂げてくださったことです。
 ヨハネの福音書6章37節には、

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

というイエス・キリストの教えが記されています。また、44節には、

わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

というイエス・キリストの教えが記されています。どちらも、慰めに満ちた約束のことばです。

わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。

と言われており、

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。

と言われているように、私たちがイエス・キリストを信じることができたのは父なる神さまが私たちをイエス・キリストの御許へと引き寄せてくださったからです。そして、イエス・キリストが、

そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

と言われたように、イエス・キリストは私たちを最後までご自身の民として保ってくださいます。そればかりか、

わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

と言われたように、私たちを終りの日にご自身の栄光にまったくあずからせてくださってよみがえらせてくださいます。イエス・キリストはこのことを実現してくださるために、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださっただけでなく、父なる神さまの右の座に着座しておられます。
 ですから、私たちは御霊によって、イエス・キリストと1つに結ばれ、その十字架の死にあずかって罪を贖っていただき、死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれ、イエス・キリストを信じて義と認められ、神の子どもとしての身分を受けています。これによって、この後、永遠に神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としていただいています。その具体的な現れが、ここで、御霊に導いていただいて、御子イエス・キリストの御名による礼拝を父なる神さまにささげていることです。
 私たちには、このような、生涯に一度の決定的な転換が起こりました。このことを別の角度から見ますと、先ほど引用しましたコロサイ人への手紙1章13節、14節に記されている、

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

というみことばが示すことになります。
 私たちはこのような生涯に一度だけ起こった決定的な転換としての、罪の悔い改めとイエス・キリストへの信仰によって、義と認められ、神の子どもの身分を与えられています。それで、私たちは父なる神さまの御許に帰り、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者としていただいています。そして、先ほど引用しましたイエス・キリストのみことばに示されているとおり、イエス・キリストは最後まで私たちをご自身の民として、また神の子どもとして支えてくださり、守ってくださいます。それで、私たちは2度とサタンとその子孫の側に立つことはありませんし、それゆえに、「不法」としての罪を犯すことがないのです。それは、私たちの資質によっているのではなく、イエス・キリストの真実な約束に基づく、御霊のお働きによっているのです。
 このことは、私たちが罪を犯すとしても変わることはありません。私たちは父なる神さまの一方的な愛に基づく恵みによってイエス・キリストを信じ、義と認めていただき、神の子どもとしていただいている者として、罪を犯してしまいます。それは、すでに神の子どもとなっている私たちが、神さまのご臨在の御前にありながら、神さまの御顔から目をそらせてしまい、背を向けてしまうことです。
 それでも、私たちが義と認められていることが取り消されることはありませんし、神の子どもとしての身分が取り去られることはありません。むしろ、私たちには、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

という約束が与えられています。これは、生涯に一度の決定的な転換をやり直すということではありません。すでに神さまのご臨在の御許にある神の子どものために神さまが備えてくださっている恵みにあずかることです。
 このこととの関連で、私たちは主の晩餐において示されている恵みを思い起こします。主の晩餐においては、御子イエス・キリストが十字架の上で裂かれたからだと流された血を表すパンとぶどう酒が私たちのために備えられています。マタイの福音書26章26節〜28節には、

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」

と記されています。私たちがこのイエス・キリストのみことばを信じてこれにあずかるときに、御霊によってご臨在してくださっているイエス・キリスト、栄光のキリストが、ご自身の十字架の死をもって成し遂げてくださった贖いの御業に基づく恵みを注いでくださいます。これは、父なる神さまが私たち神の子どもに絶えることなく与えてくださる恵みです。
 私たちは絶えずこのような恵みにあずかっている者として、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

と祈ることができるのです。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第183回)へ戻る

「主の祈り」
(第185回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church