(第183回)


説教日:2009年2月15日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで3週間にわたって、私たちが犯す罪とその赦しについて1つの大切なことを考えるために、ヨハネの手紙第1・3章に記されていることを取り上げてお話ししてきました。今日は、それらのことを踏まえて、もう少しお話を進めていきたいと思います。
 まず、これまでお話ししたことを、多少の補足を加えながらまとめておきます。
 ヨハネの手紙第1・3章4節には、同じことばをそろえて訳しますが、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは不法です。

と記されています。
 この「不法」は、前後の文脈から、終りの日に出現すると言われている「不法の人」に典型的また最終的に現れてくることを意味していると考えられます。その「不法」とは、サタンに動かされて神さまに逆らうことです。あるいは、サタンのように高ぶって神さまに逆らい、サタンの側につくことです。
 ヨハネの手紙第1・3章4節の文脈では、8節に、

罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。(第3版)

と記されています。ここに出てくる「罪を犯している者」ということばは、先ほどの4節に出てくる「罪を犯している者」とまったく同じことばで同じ人を指していると考えられます。このことから、4節で、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは不法です。

と言われているときの「不法」とサタンの働きの関連が見て取れます。

罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。

というみことばは、神さまに対して高ぶって、神さまに逆らうことはサタンから始まっていることを示しています。その意味で、

 罪とは不法です。

と言われているときの「不法」の根源はサタンです。サタンの本質的な特性は、「不法」としての罪、すなわち、神さまの御前に高ぶり神さまに逆らうことにあります。それで、その「不法」としての「罪を犯している者」は、そのようなサタンの本質的な特性を受け継いでいる者として、「悪魔から出た者です」と言われているのです。


 このように、「不法の人」に典型的また最終的に現れる「不法」は、サタンに動かされて神さまに逆らうことです。それは、創世記3章に記されていますが、人類の歴史の初めにおいて、最初の人アダムとその妻エバがサタンにそそのかされて、神である主に背いてしまったことから始まっています。
 神さまは創造の御業において、人を神のかたちにお造りになり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。神のかたちに造られた人のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛の交わりに生きることにあります。しかし、人はサタンにそそのかされて神である主に対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。それによって、人は、神さまとの愛の交わりに生きることを本質とするいのちを失ってしまいました。それどころか、神さまの御前に高ぶり神さまに逆らうことを本質とする罪によって、サタンと1つになってしまいました。それ以来、すべての者が、自らのうちに罪を宿し、サタンと一体である者として生まれてくるようになりました。
 このように人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落した直後に、神である主は「最初の福音」を与えてくださいました。それが、創世記3章15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

というみことばです。
 これは「おまえ」と呼ばれている「」の背後にあって働いて人を罪へと誘ったサタンに対するさばきの宣言です。
 ここで神である主は、「おまえ」と呼ばれているサタンと「」の間に、また、「おまえの子孫と女の子孫との間に」「敵意」を置いてくださると言われています。罪によるサタンとの一体性が破られるということです。そして、「」と「女の子孫」は、神である主に敵対して働いているサタンとその子孫に敵対して立つ者とされます。それは、「」と「女の子孫」が、霊的な戦いにおいて、神である主の側に立つ者となるということです。そして、神である主はこの霊的な戦いを通して、「おまえ」と呼ばれているサタンに対するさばきを執行されるというのです。これが「最初の福音」が示す救いです。ですから、神である主が備えてくださった救いは、霊的な戦いの中で実現するものです。
 ここには、「」と「女の子孫」の共同体と、サタンとその子孫の共同体があります。そして、この2つの共同体が、神である主が置いてくださった「敵意」によって、歴史を通して、霊的な戦いを展開するということが示されています。ところが、ここに記されているのは、基本的には、サタンという一個の存在に対するさばきの宣言です。それはサタンとその子孫の共同体の「かしら」であるサタンに対するさばきの宣言です。そして、そのさばきは、最終的には、

 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という形で執行されると言われています。その意味では「」は、集合名詞として「女の子孫」の共同体を表すとともに、「おまえ」と呼ばれているサタンに対して、最終的なさばきを執行する「女の子孫」の「かしら」をも表していると考えられます。
 このサタンとその子孫へのさばきを最終的に執行する「女の子孫」の「かしら」は、「女の子孫」の1人として来てくださった神の御子イエス・キリストです。ヨハネの福音書5章27節に、

また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。

と記されているイエス・キリストの教えは、永遠の聖定における神さまの決定に基づいていると考えられますが、歴史的には、「最初の福音」を踏まえていると考えられます。

 ヨハネの手紙第1・3章に戻りまして、4節で、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは不法です。

と言われているときの「不法」は、終りの日に到来する「不法の人」において典型的また最終的な姿を現します。つまり、終りの日に到来する「不法の人」において「不法」の現れが頂点に達するのです。
 これに対して、同じヨハネの手紙第1・3章の2節には、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されています。ここでは、終りの日に再臨される栄光のキリストが、私たちご自身の民の救いを完成させてくださること述べています。
 イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従って、十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そして、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして、栄光を受けて、死者の中からのよみがえりました。それも、ご自身のためではなく、私たちのためのことです。それで、父なる神さまは私たちをイエス・キリストの栄光にあずからせてくださり、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださいました。エペソ人への手紙2章4節〜6節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されている通りです。これらすべてのことは、すでに私たちに起こったこととして記されています。ただ、その完全な実現は、なお、終りの日に栄光のキリストが再臨されて、すべてを完全に実現してくださるのを待たなければならないのです。先ほどの、ヨハネの手紙第1・3章2節に記されている、

キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。

ということは、その、終りの日における完全な実現のことを記しています。
 ですから、終りの日に起こることとして、サタンの働きによる「不法の人」の到来と、栄光のキリストの再臨が対比されます。「不法の人」の到来によって、「不法」の現れが頂点に達するようになります。それに対して、栄光のキリストの再臨によって、「神の子ども」たちが完全に「キリストに似た者」とされます。

 もちろん、この終りの日に起こる2つのことが併存することはありません。神である主が、「」と「女の子孫」の共同体と、サタンとその子孫の共同体の間に「敵意」を置いてくださったからです。
 テサロニケ人への手紙第2・2章8節には、

その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。

と記されています。これは、「女の子孫」の「かしら」なる方によるさばきの執行を示しています。
 ここで注目したいのは、

 主は御口の息をもって彼を殺し、

というみことばです。これは、旧約聖書のイザヤ書11章1節〜5節に、

 エッサイの根株から新芽が生え、
 その根から若枝が出て実を結ぶ。
 その上に、主の霊がとどまる。
 それは知恵と悟りの霊、
 はかりごとと能力の霊、
 主を知る知識と主を恐れる霊である。
 この方は主を恐れることを喜び、
 その目の見るところによってさばかず、
 その耳の聞くところによって判決を下さず、
 正義をもって寄るべのない者をさばき、
 公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、
 口のむちで国を打ち、
 くちびるの息で悪者を殺す。
 正義はその腰の帯となり、
 真実はその胴の帯となる。

と記されている、メシヤ預言のみことばの中の、

 口のむちで国を打ち、
 くちびるの息で悪者を殺す。

というみことばを背景としています。
 これは、メシヤがご自身のみことばをもってさばきを執行するということを意味しています。「くちびるの息」の「」(ルーァハ)は「御霊」を意味しています。このことは、メシヤが語るみことばと御霊の結びつきを示しています。そして、そのように、御霊がともに働かれるみことばは、そのみことばが示していることを実現する力があることを示しています。その意味で、

 口のむちで国を打ち、
 くちびるの息で悪者を殺す。

ということは、メシヤがさばきを宣言するということだけではなく、神である主がみことばをもってさばきを執行するということを示していると考えられます。
 テサロニケ人への手紙第2・2章8節の、

 主は御口の息をもって彼を殺し、

というみことばは、そのような主のさばき、みことばをもってのさばきが「不法の人」に対して執行されるということを示しています。

 そのような、みことばによる主のさばきは「不法の人」に対して執行されるだけではありません。
 終りの日に至るまでの歴史のことを記している黙示録の初めには、その歴史の主であり、鍵を握っておられる栄光のキリストの顕現(クリストファニー)が黙示文学の手法で記されています。1章13節〜16節には、

それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

と記されています。今お話ししていることとのかかわりで注目すべきことは、16節で、

 口からは鋭い両刃の剣が出ており、

と言われていることです。これは、栄光の主が真理のみことばをもってさばきを執行することを示しています。
 また、異端的な教えである「ニコライ派の教えを奉じている人々がいる」ペルガモにある教会に対する警告を記している2章16節には、

だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

と記されています。この「わたしの口の剣をもって」ということも、真理のみことばをもってということを示しています。
 さらに、終りの日に来臨され、さばきを執行される方の栄光の顕現(クリストファニー)を記している19章11節〜16節には、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。

と記されています。ここで、

 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。

と言われていることは、1章16節で、

 口からは鋭い両刃の剣が出ており、

と言われていることに対応しています。これは、黙示録に記されている、終りの日に至るまでの歴史の初めと終わりに対応があることを示しています。
 これらの個所に出てくる「」ということば(ロムファイア)は、幅が広くて長い剣を表します。そして、これらのみことばは、栄光のキリストが、黙示録に記されている、終りの日に至るまでの歴史を、初めから終わりまで一貫して、ご自身のみことばをもってさばかれるということを示しています。

 主のさばきとみことばの関連を示すものとしては、さらに、ヨハネの福音書12章48節に記されている、

わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

というイエス・キリストの教えがあります。5章24節には、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 父なる神さまはご自身の御子イエス・キリストを贖い主として遣わしてくださいました。イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従って十字架にかかり、私たちの罪の贖いを成し遂げてくださいました。そして、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださいました。イエス・キリストのみことばはこのことをあかししています。このみことばにしたがってイエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて罪を贖われ、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、新しく生まれたものとされます。それが、

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

というイエス・キリストの教えが意味するところです。
 イエス・キリストが私たちに代わって私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けてくださったのであれば、私たちに対するさばきはすでに今から2千年前にイエス・キリストの十字架の死において執行されて終っています。そうであれば、私たちは2度とさばかれることはありません。
 しかし、イエス・キリストがご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられたことをあかしするみことばを受け入れることがないのであれば、自らが自分の罪に対するさばきを受けなければなりません。そのさばきには、イエス・キリストが語られ、退けられた福音のみことばが。いわば「証人」として立つことになります。それが、

わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

というイエス・キリストの教えが意味するところでしょう。

 このように、「女の子孫」の「かしら」として来てくださって、私たちのために贖いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストは、そのみことばをもって、ご自身の民を救いへと招き入れてくださるとともに、ご自身の救いを受け入れない者たちへのさばきを執行されます。そのことについて、テサロニケ人への手紙第2・2章9節〜12節には、

不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

と記されています。
 ここでは「不法の人の到来」には「あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い」、「滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれる」と言われています。これによって、人々の心が、御子イエス・キリストによる贖いの御業をあかししている福音のみことばから離れていってしまうようになります。これが、霊的な戦いにおけるサタンの基本的な戦略です。
 ここで、

なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

と言われているときの「真理」は「福音」あるいは「福音の真理」のことです。この人々は福音の真理を愛して追い求めなかったために、「あらゆる偽りの力、しるし、不思議」によって欺かれてしまい、ますます、「偽りを信じるように」なってしまうということが示されています。そして、これが、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは不法です。

と言われているときの「不法」としての「」を犯すこと、すなわち、サタンに動かされて神さまに逆らうこと、あるいは、サタンのように高ぶって神さまに逆らい、サタンの側につくことの行き着くところです。
 このことから分かりますが、霊的な戦いは真理のみことばをめぐる戦いです。私たちは御霊によって真理のみことばを悟り、それによって生きることによってこの戦いに参加します。それに対して、サタンとその子孫は、偽りによって真理のみことばを曲げたり、覆い隠したりします。
 私たちは福音のみことばがあかししている御子イエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じて神の子どもとしていただいています。しかし、その私たちも罪を犯します。それで、主は、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るようにと教えてくださっています。
 これは、私たちが福音のみことばにあかしされているイエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じて、イエス・キリストに信頼するようにとの招きでもあります。
 ヨハネの手紙第1・1章8節〜10節には、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と記されています。
 先ほど触れましたように、霊的な戦いは真理のみことばをめぐる戦いです。私たちが犯す罪に関しては、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と言われており、

もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と言われています。「罪はないと言う」ことや「罪を犯してはいないと言う」ことによっては、「真理」を見失い、「神のみことば」から離れてしまうことになります。これでは、罪の問題を解決することはできません。真の解決は、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

というみことばの約束にあります。
 自らの罪を認めて、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に信頼すること、そして、その恵みのうちに生きることは、福音のみことば、真理のみことばのうちにあることの現れです。

 


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