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説教日:2009年2月8日 |
8節で、 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。 と言われていることは、創世記3章15節に記されている、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 というみことばを背景としていると考えられます。 これは「おまえ」と呼ばれている「蛇」に対するさばきの宣言です。先週詳しくお話ししましたように、創世記3章に記されていることから、この「蛇」は「野の獣」の1つですが、その背後に単なる「野の獣」の限界を越える存在があって働いていることが分かります。新約聖書はそれがサタンすなわち「悪魔」であるということを明らかにしています。この3章15節では、神である主はサタンが用いた「蛇」の生態を用いて、サタンへのさばきを宣言しておられます。 神である主は、まず、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 と言われました。 ここでは、「蛇」の背後にあるサタンにそそのかされて神である主に背いてしまった「女」、すなわちエバが取り上げられています。最初の人アダムとその妻エバは、その罪によってサタンと1つになってしまっています。神である主がアダムとエバの罪を指摘されても、自らが罪を犯したことを認めて、その罪を悔い改めることはしませんでした。そのようにしてサタンの側に立ってしまっているエバは自らの力でサタンとの一体性を断ち切って神である主の御許に帰ることはできません。 しかし、ここで神である主は、ご自身が「おまえ」と呼ばれているサタンと「女」すなわちエバの間に「敵意」を置いてくださると言われています。しかも、その「敵意」は、さらに「おまえの子孫と女の子孫との間に」まで続いていくと言われています。これは、まったく神である主の一方的な恵みによっています。 これによって、「女」と「女の子孫」は、神である主に敵対して働いているサタンとその子孫に敵対して立つもの、すなわち、神である主の側に立つものとされるというのです。これが「最初の福音」が示す救いです。ですから、神である主が備えてくださった救いは、基本的には、霊的な戦いの中で実現するものであるのです。しかも、神である主がサタンとその子孫に対するさばきを執行されるために用いられるものとして救われるのです。 ここ15節に記されているのは「おまえ」と呼ばれている「蛇」の背後にあるサタンへのさばきです。そのさばきは、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という形で執行されると言われています。この「彼」は「女の子孫」を指しています。これは単数形ですが集合名詞で、1つの集合体、共同体を表していると考えられます。同じことは「おまえの子孫」にも当てはまります。 明らかに、「おまえ」と「おまえの子孫」の共同体には「かしら」があります。それは、「おまえ」すなわち「蛇」の背後にあるサタンです。当然、「女」と「女の子孫」の共同体にも「かしら」があるはずです。一見すると、それは先に出てくる「女」であるように思われます。しかし、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という神である主のみことばは、その「かしら」が「女の子孫」の中にいるということを示しています。 その意味で、この「彼」には二重の意味があり、共同体としての「女の子孫」とその「かしら」を表していると考えられます。そして、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という神である主のみことばは、サタンへのさばきが、この二重の意味における「彼」によって執行されるということを示していると考えられます。 言うまでもなく、後の啓示の光では、この「女の子孫」のかしらは、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主であられる方、永遠の神の御子です。他にもありますが、ガラテヤ人への手紙4章4節、5節に、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。 と記されているとおりです。 サタンへのさばきが共同体としての「女の子孫」によって執行されることは、ローマ人への手紙16章20節に、 平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。 と記されています。 また、そのサタンへのさばきが「女の子孫」のかしらによって執行されることは、黙示録12章1節〜9節に、 また、巨大なしるしが天に現われた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。また、別のしるしが天に現われた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。 さて、天に戦いが起こって、ミカエルと彼の使いたちは、竜と戦った。それで、竜とその使いたちは応戦したが、勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。 と記されています。これは「女」から生まれた「男の子」すなわちご自身の民のために贖いの御業を成し遂げられて、父なる神さまの右の座に上げられた御子イエス・キリストの勝利を記しています。これは、創世記3章15節に記されている「最初の福音」に基づく霊的な戦いにおける勝利であって、武力や財力などの血肉の力による戦いの勝利ではありません。 ここには示されていませんが、その勝利はイエス・キリストの十字架の死によっています。 同じ黙示録の中では、5章4節〜6節に、 巻き物を開くのにも、見るのにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったので、私は激しく泣いていた。すると、長老のひとりが、私に言った。「泣いてはいけない。見なさい。ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻き物を開いて、七つの封印を解くことができます。」さらに私は、御座 と記されています。5節では「ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得た」と言われていますが、6節では、この「ユダ族から出たしし、ダビデの根」は「ほふられたと見える小羊」と言われています。 また、ヘブル人への手紙2章14節、15節には、 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。 と記されています。ここでは、私たちの主イエス・キリストが「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」てしまわれるのは、「その死によって」であると言われています。イエス・キリストはご自身の十字架の死によって、私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、「一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放して」くださるとともに、サタンへのさばきを執行され、霊的な戦いに勝利しておられるのです。この2つのことは、「最初の福音」に示されているように、1つのことの裏表です。 黙示録12章に戻りますと、先ほど引用しました1節〜9節に続く10節、11節には、共同体としての「女の子孫」の勝利のことが記されています.そこには、 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。 と記されています。 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。 と言われているときの「彼」は、その前の「私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」のことですが、それは9節に記されている、天から投げ落とされた「悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」のことです。神の子どもたちは自分の力によってではなく、「小羊の血」すなわち御子イエス・キリストの十字架と、そのイエス・キリストをあかしすることばによって、サタンに打ち勝ったし、打ち勝つのです。 彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。 というみことばは、そのイエス・キリストのあかしが迫害の中でなされたことを示しています。 神の子どもたちが霊的な戦いにおいて「小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った」のは、言うまでもなく、「女の子孫」のかしらであられる私たちの主イエス・キリストが「悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし」てしまわれるのが「その死によって」であるからに他なりません。また、主イエス・キリストがすでに悪魔に勝利しておられるからです。神の子どもたちは、ただ、イエス・キリストの十字架の死による勝利にあずかることによってのみ、霊的な戦いに勝利するのです。 このようにして、永遠の神の御子イエス・キリストは十字架におかかりになって、ご自身の民の罪を贖ってくださると同時に、サタンへのさばきの執行に着手されました。 サタンとその子孫に対するさばきは、世の終わりに再臨される栄光のキリストによって最終的に執行されます。言い換えますと、サタンとその子孫への最終的なさばきの執行は終りの日にまで引き延ばされています。けれども、それはサタンとその子孫への最終的なさばきを執行する根拠がまだ確立されていないとか、体制が整えられていないということではありません。その根拠はイエス・キリストの十字架の死によって確立されています。また、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことによって、そのさばきを執行される体制が確立されています。それから2千年の間、栄光のキリストは最終的なさばきを差し控えておられます。しかし、栄光のキリストはいたずらにその時を引き延ばしておられるのではありません。最終的なさばきの執行が終りの日まで引き延ばされているのは、いまだ残されている神の子どもたちが、すべて、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業にあずかって、神さまの御許に集められるためです。黙示録6章9節〜11節には、 小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。 と記されています。ここには「神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々」が出てきますが、先ほど引用しました12章11節で、 兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。 と言われている人々につながっていきます。この人々が誰であるかということが問題となります。詳しい説明は省きますが、黙示録全体の記述、特に20章4節、5節に記されていることに照らして見ますと、これはイエス・キリストをあかししたために殉教した人々だけでなく、すべての主の民のことを指していると考えられます。すべての主の民が、マタイの福音書16章24節に記されている、 だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 という主イエス・キリストの招きにしたがって、主の御許に集められています。そして、ローマ人への手紙8章17節に、 私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と記されているように、主イエス・キリストと「苦難をともにして」います。黙示録では、主イエス・キリストに従うがゆえに殺されるという、主の民がこの世で苦しみを受けることの究極的な形をもって、すべての主の民が苦しみを受けることを代表的に表していると考えられます。それで、 あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで というのは、神の子どもたちのすべてが、主の御許に集められるまでということを意味していると考えられます。 いずれにしましても、創世記3章15節に記されている「最初の福音」においては、「おまえ」と呼ばれているサタンとその子孫の共同体と、「女」と「女の子孫」の共同体の間の霊的な戦いが、歴史を通して継続することが示されています。このことが背景となって、ヨハネの手紙第1・3章8節には、 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。 と記されています。そして、これに続く9節、10節前半には、 だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。(第3版) と記されています。 これら2つのみことばが示している「悪魔から出た者」と「神から生まれた者」の区別、10節前半のことばでは、「神の子どもと悪魔の子どもとの区別」は、サタンとその子孫の共同体と、「女」と「女の子孫」の共同体の区別に符合しています。 そして、11節〜13節には、 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。 と記されています。 ここに「カイン」のことが出てくることも、この部分の教えの背景に人類の歴史の初めに起こった罪による堕落のことがあることを示しています。このことから、13節の、 兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。 というみことばも、「おまえ」と呼ばれているサタンとその子孫の共同体と、「女」と「女の子孫」の共同体の間の霊的な戦いを背景として考えることができます。 さらに、11節で、 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。 と言われているときの「初めから聞いている教え」も、人類の歴史の初めから告げられていて、神の子どもたちが受け継いできた教えであると考えられます。「あなたがたが初めから聞いている教え」と言われているのだから、これは読者たちのことであると言われるかもしれません。それはそのとおりです。しかし、ここではその読者たちが「女」と「女の子孫」の共同体、「神の子ども」の共同体に位置づけられています。その上で、「カイン」のことが出てきます。それで、「互いに愛し合うべきであるという」「初めから聞いている教え」は、神のかたちに造られた人の心に記されている律法にまでさかのぼることができます。その律法は、マタイの福音書22章37節〜40節に記されているように、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に集約されます。「カイン」はこの教えに背いて「兄弟を殺しました」。 このようなことを踏まえますと、神である主の一方的な恵みによって御子イエス・キリストをかしらとする「女の子孫」の共同体に加えていただき、神の子どもとしていただいている私たちが戦うべき霊的な戦いの特質が見えてきます。それは、愛をめぐる戦いであるということです。 「カイン」が兄弟を殺したということは、サタンとその子孫の共同体の霊的な戦いの戦い方が典型的に現れたものと言うことができます。それに対して、「女」と「女の子孫」の共同体の霊的な戦いの戦い方は、互いに愛し合うことにあるということです。 先ほど引用しました、黙示録12章10節では、神の子どもたちは、 小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った と言われていました。イエス・キリストの十字架とイエス・キリストをあかしすることばによってサタンとその子孫に打ち勝つということでした。それは、ヨハネの手紙第1・3章16節に、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 と記されていますように、私たちが互いに愛し合うことの中でのみ現実となることです。互いに愛し合うことがない状態で、イエス・キリストの十字架とイエス・キリストをあかしするということは、実質のないあかしをすることです。それは霊的な戦いにおいては敗北です。 ですから、これは個人のことであるとともに、というより個人のことである以上に、「女」と「女の子孫」の共同体、神の子どもたちの共同体のあり方の問題であるのです。このことを踏まえたときに、主の祈りの第5の祈りにおいて、 私たちの負いめをお赦しください。 というように「『私たちの』負いめ」と言うことの意味や、 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 と祈ることの意味も見えてきます。主の祈りは、基本的に、互いに愛し合うことを本質的な特質とする神の子どもたちの共同体の祈りです。 |
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