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説教日:2009年2月1日 |
今日、改めて注目したいのは、この4節の数節後の8節に、 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。(第3版) と記されているみことばです。 冒頭の、 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。 ということばは、「罪を犯している者」と悪魔との一体性を示しています。 この「罪を犯している者」ということばは、4節で、 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。 と言われているときの「罪を犯している者」と同じことばです。しかも、この2つことばは、同じ問題を取り扱っている中で出てきます。それで、この2つの「罪を犯している者」ということば同じ人を指していると考えられます。そうしますと、4節では、 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。 と言われていて、同じ人のことが、8節で、 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。 と言われていることになります。このことからも、この場合の「不法」にはサタンとの一体性があると考えられます。 ここまでは先週お話ししましたが、もう少し考えておくべきことがあります。先週は、4節に出てくる「不法」の意味を理解するためにここに記されていることばを取り上げました。それで、終りの日に出現する「不法の人」との関連を考えることになりました。しかし、この8節に記されていることばそのものには旧約聖書の背景があります。今日は、そのことに注目したいと思います。 その旧約聖書の背景とは、言うまでもなく、最初の人が契約の神である主に罪を犯して御前に堕落したことを記している創世記3章です。それで、この「罪を犯している者」の「罪」は「不法」として終りの日に出現する「不法の人」に典型的にまた最終的に現れてくることと関連しているだけでなく、人類の歴史の初めに起こった罪による堕落とも関連しているということになりす。 創世記3章1節前半には、 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。 と記されています。 ここでは、「蛇」は、神である主がお造りになった「野の獣」の1つであったことが示されています。この「あらゆる野の獣」ということばは2章20節で、 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。 と言われているときの「野のあらゆる獣」と同じことばです。それで、人は「蛇」にも名をつけていたと考えられます。 すでにいろいろな機会にお話ししていますように、聖書においては、名はその名をもつものの本質的な特性を表わしています。当然、人があるものに名をつけるためには、それを十分に観察してその本質的な特性を理解しなければなりません。そのようにして、名をつけることは、その名をつけたものとの関係を築くことでもありました。その名をつけるものをただ眺めて観察していたのではなく、それと深くかかわりながら、その本質的な特性を理解していったということです。2章20節では、人はすべての生き物たちとの関係を築いて、その本質的な特性を理解するようになったけれども、その中には「ふさわしい助け手が、見あたらなかった」と言われているのです。さらに、名をつけることは権威を発揮することを意味しています。それで、「蛇」も神である主が人に与えてくださった主権の下にあったわけです。 また、ここ3章1節前半には「狡猾な」と訳されていることば(アールーム)が出てきます。このことばは、ここのほかにはヨブ記に2回、箴言に8回出てきます。そして、ヨブ記においては2回とも「悪賢い」という悪い意味で用いられており、箴言においてはすべて「賢い」という良い意味で用いられています。それで、この(アールームという)ことば自体からは、これが「賢い」という意味か、「悪賢い」という意味かは決定することができません。 それでは、この3章1節前半ではどのような意味で用いられているのでしょうか。これについては意見が分かれていますが、おそらく、このことばが良い意味も悪い意味も表すことができるということが、このことばが用いられている理由ではないかと思われます。つまり、ここにはこの「賢い」という意味と「悪賢い」という意味の間にある種の緊張関係があるということです。ただ、私は後ほどお話ししますが、それほどの緊張関係はなかったのではないかと考えています。 どういうことかと言いますと、この「蛇」も神である主がお造りになった「野の獣」の1つであるという点からは、このことばは「賢い」という良い意味に理解すべきです。というのは、そのような特質は神さまが「蛇」にお与えになったものであり、良いものであるからです。その意味では、3章1節前半は、 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番賢かった。 と訳すことができます。アダムが初めて「蛇」に出会って、その名をつけたときには、アダムは「蛇」の賢いことを理解したはずです。 3章1節の後半には、 蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」 と記されています。ここで、「蛇」がエバに語りかけたときにエバは何の警戒もしていません。このことは、この時にはすでにエバと「蛇」の間に親しい関係があったことを思わせます。 今日でも、人は生き物の賢さに驚き、引きつけられます。そのようにして、接していくうちに、そこに生き物の側の意思表示というものをも感じ取っていきます。そのようにして、人と生き物の間の交流が成り立ちます。それが、人類の堕落前のエデンの園においては、もっと自然なことであったと考えられます。そのような人と生き物の交流においては、人は生き物のことを理解するために、生き物のことを擬人化して受け止めます。そして、この擬人化によって交わりが深められますが、その生き物が賢いものであればあるほど擬人化しやすくなります。このようなことから、「神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで・・・一番賢かった」と言われている「蛇」とエバの間には、また、エバだけでなくアダムとの間にも、親しい交流があったと考えられます。 言うまでもなく、人間の側で生き物を擬人化することができるとしても、それで生き物が人格的な存在となるわけではありません。人が人格的な存在であるということは、人が神のかたちに造られたことによっています。それで、人格的であることの本質は、造り主である神さまを知っていること、神さまとの人格的な関係において存在していることにあります。それで、人格的な存在ではない生き物は神さまを知りません。生き物には、神さまとの関係の現れとしての宗教はありません。 ですから、単なる生き物である「蛇」が、 あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。 というような問いかけをしてくるということは、まことに異常なことであったわけです。しかも、その問いかけは、契約の神である主と神のかたちに造られた人との関係の根本にかかわる「善悪の知識の木」をめぐる問いかけでした。そこに、単なる生き物としての「蛇」を越えた、人格的な存在の働きがあることが見て取れます。 新約聖書は、このように「蛇」を用いてエバに働きかけた存在がサタンであることを明らかにしています。黙示録12章9節には、 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。 と記されています。 このようにして、サタンに用いられたときの「蛇」の「アールーム」は「悪賢い」、「狡猾な」という意味合いをもつものとして働いた可能性があります。ただ、私はこの可能性を認めますが、注意深く考える必要があると思います。まず、「蛇」はあくまでも「神である主が造られた・・・野の獣」でしかなく、いくら賢いといっても、「野の獣」の限界のうちにあったことをわきまえておく必要があります。また、「蛇」の悪賢さは、エバに語りかけたことばに表れていますが、「野の獣」である「蛇」そのものは、ことばを話すことができなかったということもわきまえておく必要があります。さらに、「野の獣」としての「蛇」が人格的な存在ではない以上、善悪のわきまえと自由な意志に基づく倫理的な主体性がありません。それで、「蛇」の「野の獣」としての知恵自体が悪賢くなることはなかったと考えられます。 このような「但し書き」があっても、サタンに用いられたときの「蛇」の「アールーム」は「悪賢い」、「狡猾な」という意味合いをもつものとして働いた可能性を認めるのは、サタンが「蛇」を用いたということがどのようなことか、私には十分理解できないからです。 それにしても、どうしてエバは「野の獣」でしかない「蛇」が自分に語りかけただけでなく、契約の神である主と自分たちの関係にかかわることを話題としていることの異常さに気がつかなかったのでしょうか。 これについては、かなりの推論が入ってしまいますが、エバが「蛇」のことをを擬人化して受け止めて、交流を深めていくうちに、人格的な存在としての人間と、「野の獣のうちで」最も賢い生き物である「蛇」との間の区別が曖昧なものとなっていったという可能性が考えられます。そのような中で、ある時、たわいもない語りかけがあったときに、ちょっとした驚きを感じながらも、それを受け止めていき、だんだんと、「蛇」からの語りかけを不思議に思わないようになった。そして、最終的には、3章1節に記されているようなことになっていった、というようなことも考えられます。 いずれにしましても、ヨハネの手紙第1・3章8節に、 罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。 と記されているみことばにおいて、 悪魔は初めから罪を犯している と言われているのは、神のかたちに造られた人が契約の神である主に対して罪を犯して御前に堕落する前に、すでにサタンが罪を犯して堕落していたこと、そして、神のかたちに造られた人を罪へと誘ったことを指していると考えられます。 このような「蛇」を通してのサタンの働きに対して、神である主はさばきを宣言されました。それが、創世記3章14節、15節に、 神である主は蛇に仰せられた。 「おまえが、こんな事をしたので、 おまえは、あらゆる家畜、 あらゆる野の獣よりものろわれる。 おまえは、一生、腹ばいで歩き、 ちりを食べなければならない。 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。」 と記されています。 これは「蛇」に対する語りかけとなっています。しかし、それは「蛇」の背後にあって働いている存在、すなわち、サタンに対して語られたさばきの宣言ことばです。ここで、神である主はサタンが用いた「蛇」の「腹ばいで歩く」という生態を逆に用いて、サタンに対するさばきを宣言しておられます。このことに、痛烈な皮肉が見て取れます。サタンが用いたものは、サタンに対するさばきを宣言するのに「うってつけのもの」であったのです。 具体的には、 ちりを食べなければならない。 ということは、事柄としては「腹ばいで歩く」ことに関連しています。「腹ばいで歩く」ことによって「ちり」に接触せざるをえなくなります。また、ことばの意味としては、「ちりを食べる」ということは、日本語の「土がつく」と同じで、「敗北を喫する」ということを表します。その用例は新改訳欄外引照にありますように、イザヤ書65章25節とミカ書7章17節に見られます。 また、言うまでもなく、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という、「女の子孫」のかしらであられる方による最終的なさばきの執行も、「蛇」が「腹ばいで歩く」ことに関連しています。「女の子孫」のかしらであられる方については、後ほどお話しします。 よく、この時までは「蛇」は立っていたというようなことが言われることがありますが、それは根拠がない想像です。創世記1章25節には、 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。 と記されています。「蛇」もこの「地のすべてのはうもの」の1つとして造られたのです。そして、このさばきのことばにおいては、その「はうもの」としての生態がさばきの象徴として用いられたということになります。 「蛇」(を通してのサタン)へのさばきの宣言のうち15節に記されている、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 というみことばは、「最初の福音」( proto evangelium)として広く知られています。 これにつきましては、すでに詳しくお話ししていますので、結論的なことだけをお話しします。 神である主に対して罪を犯したことによって、「女」は「おまえ」と呼ばれているサタンと一体となってしまいました。それは罪による一体性です。 これに先立つ9節〜13節に記されているように、アダムもエバも、神である主の御前に自らの罪を認めて悔い改めることはありませんでした。そのように、「女」は自分の力で罪によるサタンとの一体性を離れることはできません。しかし、ここでは、神である主が、サタンと「女」の間に「敵意を」置いてくださると言われています。それは神である主の一方的な恵みによっています。それによって、「女」がサタンとの一体性を離れるようになるばかりか、サタンに敵対して立つようになるというのです。しかも、それは一代限りのことではなく、神である主は「おまえの子孫と女の子孫との間に」まで「敵意を」置いてくださると言われています。 サタンは神である主に敵対しています。「女」と「女の子孫」は、神である主の一方的な恵みによって、そのサタンに敵対するようになると言われています。これは、霊的な戦いにおいて「女」と「女の子孫」が神である主の側に立つ者とされるということを意味しています。そして、これが、女」と「女の子孫」の救いを意味しています。 とはいえ、これはあくまでもサタンに対するさばきの宣言です。そのさばきは、最終的には、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という形で執行されると言われています。 ここには「彼」と「おまえ」の対立があります。「彼」はその前の「女の子孫」を指しています。この「女の子孫」は単数ですが、集合名詞と考えられます。つまり「女の子孫」として分類される共同体を意味しているということです。 そうであるとしますと、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と言われているのは2つの共同体の間の、霊的な戦いのことを述べているのでしょうか。これについては、そのことも示されているけれども、それとともに、2つの共同体の「かしら」の間の霊的な戦いも示されていると考えられます。 というのは、これは、基本的には、「おまえ」と呼ばれているサタンに対するさばきの宣言です。さらに、明らかに、「おまえ」と「おまえの子孫」の関係においては「おまえ」が「かしら」です。つまりここには、聖書に見られる共同体の「かしら」思想があります。ですから、「女」と「女の子孫」の側にも「かしら」がいるはずです。ところが、その「かしら」は「女」ではなく「女の子孫」の側にいるというのが、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 という、神である主のみことばが示すところです。「おまえ」と呼ばれているサタンに対するさばきは、最終的に、「女の子孫」の「かしら」であられる方が執行されるということです。 このようなことを踏まえて、ヨハネの手紙第1・1章8節に記されている、 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。 というみことばを見てみましょう。 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。 と言われていることは、創世記3章15節において、「おまえ」と呼ばれているサタンと「おまえの子孫」との関係を示していると考えられます。そして、 神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。 と言われていることは、創世記3章15節において、 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と言われている、「女の子孫」の「かしら」であられる方による最終的なさばきの執行を指していると考えられます。 これらのことから分かりますように、ヨハネの手紙第1・3章4節で、 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。 と言われており、8節で、 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。 と言われている人は、創世記3章15節に記されているサタンへのさばきの宣言に基づく霊的な戦いにおいて、「おまえ」と呼ばれているサタンをかしらとしている「おまえの子孫」として分類される共同体に属している人のことを述べています。この場合の「不法を行う」こととしての「罪」は、サタンとの一体において犯す罪のことです。 私たちも生まれながらにそのような者でした。神さまは、その一方的な愛と恵みによって、そのような私たちを「女の子孫」の「かしら」として来てくださって、十字架にかかって私たちの罪を完全に贖ってくださった御子イエス・キリストによって、主の契約の民としてくださり、ご自身の子どもとしてくださいました。 そのように神の子どもとしていただいている私たちも罪を犯します。しかし、それは、たとえ、サタンを喜ばせ、結果的にサタンを利することになることがあるとしても、サタンとの一体にある者として犯すのではありません。私たちはそのたびごとに罪を悔い改めて、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった完全な贖いに信頼することによって、「女の子孫」の「かしら」であられる御子イエス・キリストと一体にある者であることをあかしすることになります。 私たちの負いめをお赦しください。 という祈りは、そのようなあかしとしての祈りです。 |
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