(第180回)


説教日:2009年1月25日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまでこの祈りに出てくる「私たちの負いめ」の「負いめ」をどのように理解したらいいかについてお話ししてきました。今日は、少し脇道にそれる感じになりますが、ヨハネの手紙第1・3章4節に記されている、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

というみことばを取り上げてお話ししたいと思います。
 このみことばの後半で、

 罪とは律法に逆らうことなのです。

と言われているときの「律法に逆らうこと」と訳されていることば(アノミア)は、前半で、

 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。

と言われているときの「不法」と同じことばです。このことを生かして直訳調に訳せば、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは不法です。

となります。
 この「不法」(アノミア)をどのように理解するかについては意見が分かれています。
 新改訳は、後半の部分において「不法」を「律法に逆らうこと」と訳して、1つの理解を示しています。これは、「不法」(アノミア)ということばの意味に基づく理解です。「アノミア」ということばは名詞(女性形)で「不法」、「不法であること」、「律法に背くこと」を表します。このことばは「律法」を意味する「ノモス」に関連しています。「ア」は、否定を表す接頭辞です。また、形容詞である「アノモス」ということばは「不法な」とか「律法をもたない」ということを表します。
 もう1つの理解は、ヨハネの手紙第1・3章4節の文脈に基づくものです。
 ヨハネの手紙第1には「律法」(ノモス)ということばが出てきません。律法に関する論述がないのに、ここで突然のように「不法」ということばが出てくることと、この「不法」ということばに冠詞がついていることに注目します。それで、これは読者たちがすでによく知っていることを表す、一種の専門用語のようなものであると考えます。そして、それは、終りの日に現れる「不法の人」に典型的に見られることを指していると考えます。
 「不法の人」については、テサロニケ人への手紙第2・2章3節、4節に、

だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します。

と記されています。
 ここで「不法の人」は「すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し」、自らを神とすると言われています。「不法の人」の考え方の中では、「すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるもの」の中には造り主である神さまも含まれています。その意味では造り主である神さまも、その中の1つとして相対化されています。その上で「不法の人」は自分がいちばん高いものである、その意味で自分は神であると主張するのです。これは、すでにお話ししてきましたように、無限、永遠、不変の栄光の主にして造り主である神さまと神さまによって造られたものの間にある「絶対的な区別」を否定することです。それゆえに、神さまの聖さを冒すことです。
 また、9節、10節には、

不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。

と記されています。ここでは、「不法の人の到来は、サタンの働きによる」と言われています。
 先ほどのヨハネの手紙第1・3章4節に出てくる「不法」(アノミア)のもう1つの理解は、このような「不法の人」に典型的に見られることであるというものです。つまり、「不法」は、サタンにたきつけられて神さまに逆らうことだというのです。これには、神さまの律法に逆らうことも含まれます。あるいは、より一般的に、サタンのように高慢になって、神さまと神さまの律法に逆らい、サタンの側につくこと、サタンに味方することだというのです。


 この理解と、新改訳に示されている「不法」(アノミア)は「律法に逆らうこと」であるという理解の違いは、この「不法」にサタンとのかかわりがあるかどうかにあります。ことばの上では、もう1つ、「不法」がサタンとかかわっているという理解では、ただ律法に逆らうことだけでなく、その中心に、神さまに逆らうことがあるという違いもあります。しかし、聖書の中では、神さまに逆らうことは、神さまの律法に逆らうことに他なりません。
 新改訳の理解は、この「不法」がサタンとかかわっているかどうかは、これだけでは分からないというものです。それに対して、もう1つの理解は、この場合の「不法」は、文脈からしても、サタンかかわっているというのです。
 ヨハネの手紙第1・3章4節の文脈には、そこにサタンとのかかわりがあるという理解を支持すると思われることがいくつかあります。
 この4節から数節後の8節には、

罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

と記されていて、罪を犯すことと悪魔の関連性が示されています。ちなみに、この8節の「罪のうちを歩む者」と4節の「罪を犯している者」は、原文のギリシヤ語では同じことばで表されています。後ほどお話ししますが、新改訳第3版では、2つは同じように訳されています。
 また、3章4節に先立つ2章18節と22節に「反キリスト」のことが出てきます。18節には、

小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終わりの時であることがわかります。

と記されています。最初に出てくる「反キリスト」は単数です。そして、「多くの反キリスト」は、言うまでもなく複数です。「多くの反キリスト」の最終的な体現者が「反キリスト」です。「反キリスト」の先駆けが「多くの反キリスト」であるとも言えます。そして、この「反キリスト」は、先ほどのテサロニケ人への手紙第2・2章に記されている「不法の人」のことです。「反キリスト」ということばは、ヨハネの手紙にしか出てきません。
 ここでは、この手紙の読者たちが「終わりの時」には「反キリスト」の到来があるということを聞いて知っていると言われています。そのことは、たとえば、マタイの福音書24章1節〜44節に記されている、「オリーブ山の説教」として知られている、終りの日に関するイエス・キリストの教えに示されています。23節、24節には、

そのとき、「そら、キリストがここにいる。」とか、「そこにいる。」とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

と記されています。ここには、「にせキリスト」や「にせ預言者」(ともに複数)のことが出てきます。同じ終りの日に関するイエス・キリストの教えの中には、「不法」(アノミア)のことも出てきます。11節、12節には、

また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

と記されています。
 このように、ヨハネの手紙第1・2章18節以下に記されている「反キリスト」に関するみことばは終りの日の状況を記しています。そして、これより後に記されていることも、終りの日の状況にかかわっていると考えられます。これと関連して注目したいのは、ヨハネの手紙第1・3章1節、2節に記されていることです。そこには、

私たちが神の子どもと呼ばれるために、―― 事実、いま私たちは神の子どもです。―― 御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されています。
 ここでは、終りの日に栄光のキリストが再臨されるときに、「私たちはキリストに似た者となる」と言われています。これは、私たちがイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、栄光あるものとしてよみがえることに触れるものです。私たちがイエス・キリストのよみがえりにあずかって栄光あるものによみがえることは、「キリストに似た者となる」ことであるのです。また、「そのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見る」ようになると言われています。それは、私たちが再臨されるキリストの栄光のご臨在の御許において生きるようになること、栄光のキリストと顔と顔と合わせて見るほどの近さにおける交わりのうちに生きるようになることを意味しています。私たちが「キリストに似た者となる」ことと「キリストのありのままの姿を見る」ことの関係は、どちらかが原因でどちらかが結果というよりは、相互に関連しており、1つのことの裏表であると考えられます。
 そして、終りの日に栄光のキリストが私たちの間に実現してくださる、このような祝福を待ち望んでいる私たちの今の生き方のことが、続く3節に、

キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

と記されています。
 このように、神さまが終りの日に栄光のキリストを通して実現してくださることを信じて待ち望みつつ、今このときに、それにふさわしく考え、ふさわしく生きることを形容して「終末論的」と言います。今の私たち神の子どもたちの考え方と生き方は、終りの日の完成を見据えた「終末論的」な考え方であり、生き方であるのです。
 私たち主の民がこのような終りの日における望みのうちに生きていることを示している3節のみことばに続いて、4節に、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは不法です。

と記されています。それで、このみことばも終りの日の状況と関連していると考えられます。
 これらのことから、この3章4節に出てくる「不法」は、終わりの日の状況の特徴を表していると考えられます。その意味で、これは、サタンにたきつけられて神さまと神さまの律法に逆らうこと、あるいは、サタンのように高慢になって神さまと神さまの律法に逆らって、サタンの側につくことを意味していると考えられます。
 とはいえ、このように理解される3章4節のみことばは、終りの日の状況を反映して、特殊な意味合いを伝えていることを忘れてはなりません。
 それで、私たちが犯すすべての罪がサタンの個人的な働きかけによるものであると言うことはできません。今日では、サタンの働きを過大評価して、すべての罪をサタンの働きと結びつける人々がいますが、サタンは被造物ですから、その存在にも働きにも限界があります。同時にどこにでもいるわけではありませんから、どこかで働いていれば、別のところで働くことはできません。その意味で、サタンもより効果的な働きをしようとして、その働くところを選んでいるはずです。サタンがある特定の個人に対して働きかけることがあるとしたら、それは、善きにつけ悪しきにつけ、その人が神の御国の歴史にとって決定的な役割を担っている場合でしょう。人となって来られたイエス・キリストが個人的にサタンの誘惑にあわれたことや、イスカリオテ・ユダがサタンの働きかけを受けたことは、そのような理由によっていると考えられます。
 このようなことを無視して、サタンがどこにでもいて、誰に対してでも働いているかのように考えることは、サタンが被造物であることを曖昧にしてしまうことです。神の子どもたちがこのように考えることは、サタンにとっては都合のいいことでしょう。しかし、それは、神さまと神さまによって造られたものの間の「絶対的な区別」を曖昧のものとすること、すなわち神さまの聖さを犯すことになります。
 確かに、ペテロの手紙第1・5章8節、9節には、

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

と記されています。しかし、ここに記されているサタンの働きを私たちそれぞれの心の中に働きかけてくるものと考える必要はありません。むしろ、それは、

世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

と言われていることからも分かりますように、その当時のローマ帝国が主の民を迫害したような、政治的、社会的なことです。それは、投獄やむち打ちや十字架刑のような肉体的な苦痛を加えることだけではありません。その当時の主要な思想の流れに働きかけて、福音の真理を曲げてしまうというようなことでもあります。このようなことの背後にあって、さまざまな影響を与えているのがサタンであるということです。サタンはこの世の大きな流れを造り出して神の子どもたちをも押し流そうとするのです。
 ここでは、私たち主の民は、それぞれが、そのようなサタンの働きをわきまえて、注意深くあるようにと戒められています。しかし、だからといって、サタンが私たちそれぞれに対して個別的に働きかけてくるということではありません。
 また、ここにはもう1つの問題があります。
 3章4節で、

 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。

と言われているときの「罪を犯している者」(直訳「罪を行う者」)は現在分詞で表されています。これは、先ほど言いましたように、8節で、

罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

と言われているときの「罪のうちを歩む者」と同じことばです。また、6節で、

だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

と言われているときの「罪のうちを歩みません」(動詞、直訳「罪を犯しません」)は現在時制で表されており、「罪のうちを歩む者」(直訳「罪を犯す者」)は現在分詞で表されています。
 問題は、これら現在時制で表されていることをどのように理解するかということです。これにつきましては、いくつかの見方が提案されてきました。今も、その決着がついているとは言えません。
 ちなみに新改訳は、第2版と第3版では別の立場をとっています。第2版では、この「罪を犯す」ということばが現在時制で表されているのは、それが継続的に、習慣的になされることであるという意味に理解し、「歩む」ということばを補って、「罪のうちを歩む」訳しています。
 広く知られていますように、これは、1章8節〜10節に、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と記されていることと矛盾するのではないかということを踏まえて、それに答えるためのことです。
 しかし、第3版では、文字通りに「罪を犯す」あるいは「罪を犯している」と訳しています。これは、現在時制から第2版の訳が示しているような継続性や習慣性ということだけを読み取ることには無理があるということや、それで問題がすべて解消してしまうわけではないということを考慮してのことでしょう。また、このような1つの理解を示してしまうのではなく、いくつかの理解の可能性を残しておこうということでしょう。第3版の6節は、

だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

となっていますし、8節の初めは、

罪を犯している者は、悪魔から出た者です。

となっています。
 このこと、すなわち、1章8節〜10節に記されていることと、3章6節や後ほど取り上げます9節に記されていることの間にある、矛盾と思われることをどのように理解するかということについてのいろいろな理解の仕方に触れることはできません。しかし、この問題は、これまでお話ししてきたことから理解することができると思われます。
 1章8節〜10節においては、十字架にかかってご自身の民のための贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストを信じて主の契約の民としていただいている私たちのうちにも罪があり、私たちは実際に罪を犯しているということを述べています。8節で、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と言われているときの「」は単数で、「罪の性質」を表しています。私たち神の子どものうちには、なおも罪の性質が残っているということです。そして、9節で、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と言われているときの「」は複数で、私たちが実際に犯す罪を指しています。
 これに対して、すでにお話ししましたように、3章4節で、

罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは不法です。

と言われているときの「罪を犯している者」は「不法を行なっている」ということとのかかわりで理解されます。そして、それは、サタンにたきつけられて神さまと神さまの律法に逆らうことを意味しています。あるいは、サタンのように高ぶって神さまと神さまの律法に逆らい、サタンの側に立つことを意味しています。
 また、同じ「罪を犯している者」のことを述べている8節においては、

罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

と言われています。ここでは、その人が「不法を行なっている」というだけでなく、その人そのものが「悪魔から出た者」であると言われています。それは。罪の徹底的な体現者であるサタンの特質を受け継いでいるということです。「不法を行なっている」ことに示されているように、サタンにたきつけられて神さまに逆らうことをしていることに、あるいは、サタンのように高ぶって神さまと神さまの律法に逆らい、サタンの側に立つことに、サタンとの一体性とサタンの特質を受けついていることの現れがあるということです。
 これに対しまして、これに続く9節には、

だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

と記されています。この「神から生まれた者」は、その存在の特質を示すもので、8節の「悪魔から出た者」という存在の特質と対比されています。このことに根本的な相違があります。私たち神の子どもも、かつては罪の下にあり「悪魔から出た者」でした。それが、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかり、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれたことにより、「神から生まれた者」となりました。この根本的な違いが決定的に大切なことです。
 ここ9節で「罪を犯しません」と言われているときの「」は、4節で「罪とは不法です」と言われているときの「」すなわち「不法」のことです。それは、サタンにたきつけられて神さまと神さまの律法に逆らうこと、あるいは、サタンのように高ぶって神さまと神さまの律法に逆らい、サタンの側に立つことを意味しています。つまり、ここで、

 だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。

と言われているのは、「だれでも神から生まれた者は」サタンにたきつけられて神さまと神さまの律法に逆らうような罪、あるいは、サタンのように高ぶって神さまと神さまの律法に逆らい、サタンの側に立つような罪を犯すことはないということです。同じことは、6節に、

だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

と記されていることにも当てはまります。
 1章8節〜10節には、私たち神の子どものうちにも罪の性質があり、私たちは実際に罪を犯すということが示されています。しかし、そのことは、神の子どもとしての私たちの本性に反してのことなのです。私たちは御子イエス・キリストの十字架の死ににあずかって罪を贖っていただいています。そして、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって、新しく生まれ、神の子どもとしていただいています。その意味で、私たちは神さまのご臨在の御前において、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きています。そのような私たちが、なおも、私たちの神の子どもとしての本性に反して罪を犯してしまうのです。
 このことは神さまとの関係の方向性ということから見ますと理解しやすいと思われます。
 「不法」としての罪を犯している人々は、いわば、父なる神さまと御子イエス・キリストに逆らう者として、神さまに背を向けながら罪を犯します。そして、そのような罪を犯すことによって、ますます神さまに背を向け、神さまから離れていきます。
 これに対して、私たち神の子どもたちは神さまのほうを向きながら、心を父なる神さまと御子イエス・キリストにつなぎながら、心ならずも罪を犯してしまうのです。それで、私たちは悲しみとともに自らの罪を認め、

私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

という約束を信じて罪を告白し、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈ります。そのようにして、神の子どもたちは、罪を犯したとしても、主イエス・キリストの恵みに頼って、神さまにさらに近づくのです。

 


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