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説教日:2009年1月18日 |
実は、先週取り上げることができませんでしたが、これには根本的なことがもう1つあります。すでに別の機会にお話ししたことではありますが、今日は、そのことを取り上げて、先週お話ししたことを補足したいと思います。 みことばにおいて、人が神のかたちに造られていると言われているとき、それは、たとえば、霊魂が神のかたちであるというように、人の一部が神のかたちであるということではありません。肉体と霊魂から成り立っている人間、肉体と霊魂の人格的な統一体である人間が神のかたちであるということです。 先週も引用しましたが、創世記9章5節、6節には、 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 神は人を神のかたちに お造りになったから。 と記されています。先週は、このみことばがノアの時代の洪水によるさばきの後、すなわち、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後の時代に記されたもので、人は罪によって堕落してしまった後も、神のかたちであるということをお話ししました。 このみことばは、「人の血を流す」こと、すなわち、人を殺すことに対する神さまの警告を記しています。「人の血を流す」ことは、文字通りには、からだを損なうことで、肉体的ないのちを奪うことを表しています。そうであっても、それは「神のかたち」にかかわることであり、「神のかたち」を損なうことであることが示されています。このことは、肉体と霊魂から成り立っている人が神のかたちであることを意味しています。分かりやすく言えば、私たちそれぞれが神のかたちに造られており、神のかたちであるということです。 先ほども触れましたように、神のかたちの本質は、自由な意志をもつ人格的な存在であることにあります。そして、その人格の本質的な特性は愛です。もちろん、神のかたちに造られた人は、知恵や義や聖さや真実など、その他の神さまの人格的な特性(属性)にもあずかっています。 人はそのような特性をもつ神のかたちに造られたものとして、この造られた世界において神さまを映し出す存在であるのです。具体的には、神のかたちに造られた人に委ねられている歴史と文化を造る使命を遂行することを通して、神さまを映し出すものであるのです。すでにお話ししていますように、歴史と文化を造る使命を果たすことは、飲むことや食べることというようなごく日常的なことから始まっています。 このことと関連してローマ人への手紙1章20節〜23節を見てみましょう。そこには、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と記されています。 20節では、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる と言われています。 おそらく、このみことばから私たちがまず最初に思い出すことは、詩篇19篇1節に、 天は神の栄光を語り告げ、 大空は御手のわざを告げ知らせる。 と記されているようなことでしょう。この壮大な宇宙を通して、造り主である神さまの無限の知恵と力が映し出され、あかしされているということでしょう。そのことは、昔の人が感じていたというだけのことではありません。むしろ、今日の私たちのほうが、そのことへの驚きを深くしています。今日の理解では、この宇宙は約138億光年の彼方に広がっていて、いまだに謎であることに満ちています。確かに、このような宇宙が存在していることに、造り主である神さまの無限の知恵と力が映し出されています。 そうではあっても、この宇宙それ自体にはいのちがありませんし、宇宙それ自体は人格的なものではありません。ですから、神さまが生きておられる人格的な方であることも、神さまの愛や義や聖さや真実などの人格的な属性も、宇宙それ自体が自らのものとして映し出すことはありません。けれども、自由な意志をもつ人格的な存在にして、神さまの愛や義や聖さや真実などの人格的な属性にあずかっている人間は、自らの存在と歴史と文化を造る使命の遂行における生き方を通して、生きておられる人格的な神さまを映し出すものであるのです。 このことのうちに、神のかたちとして造られている人の栄光と尊厳性があります。この栄光と尊厳性は神のかたちとして、神さまが生きておられる人格的な方であられることを映し出すものです。それで、神のかたちの栄光と尊厳性は、神さまご自身が守られます。そのことが、先ほど引用しました、創世記9章5節、6節に、 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 神は人を神のかたちに お造りになったから。 と記されていました。 人はこのような神のかたちの栄光と尊厳性を担うものとして造られており、その存在と歴史と文化を造る使命の遂行を通して、造り主である神さまを映し出すものです。すでに繰り返しお話ししていますように、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命の遂行を通して神さまを映し出すことの中心は、神さまを神として礼拝し、神さまを神として信頼することにあります。神のかたちに造られた人が造り出す歴史と文化は、本来、造り主である神さまを礼拝し、造り主である神さまの栄光を映し出す歴史と文化であるのです。神のかたちに造られた人はこのような歴史と文化を造る使命を委ねられています。 実際には、このように、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人が、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。この罪の本質は、無限、永遠、不変の栄光の主であられ、すべてのものの造り主である神さまと、神さまによって造られた自分たちとの「絶対的な区別」をわきまえないこと、すなわち、神さまの聖さを冒すことにあります。 造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人間は、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを認めません。たとえば、神さまを信じない哲学者たちが「神とは無限、永遠、不変の存在である。」と言ったとしても、それは単なる神についての概念を述べただけのことです。そのように述べたといって、その人が神さまを神として礼拝するわけではありません。そのような概念的な理解は悪霊たちももっています。いや、悪霊たちにとっては神さまはそれ以上の存在です。ヤコブの手紙2章19節には、 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。 と記されています。悪霊たちにとっては、神さまは「身震い」するほどに現実的な方です。悪霊たちの問題は、神さまをそのように現実的な方として知っていながら、決して、神さまを愛することはないし、神として礼拝することがないことです。そして、そのことを罪として認めて悔い改めることをしないことです。 このように神さまのことを「身震い」するほど現実的な方として知っている悪霊たちと、「神とは無限、永遠、不変の存在である。」と平然と概念的に述べる人のどちらが、より深く神さまに対して逆らっているのだろうかと考えてしまいます。おそらく、神さまのことを「身震い」するほどに現実的な方として知っていながら、神としてあがめることも礼拝することもしない悪霊たちのほうでしょう。でも、その差はどれほどでしょうか。 ローマ人への手紙1章20節〜23節に記されていることに戻りますと、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は、造り主である神さまを神として認めることも、感謝することも、礼拝することもなくなってしまいました。そうであるからといって、人が神のかたちに造られているという事実がなくなってしまったわけではありません。人が神のかたちでなくなってしまったわけでもありません。先ほど引用しました、創世記9章5節、6節に記されているみことばは、罪によって堕落してしまった人も神のかたちであることを示していました。 そのような人間がどのような状態にあるかが、ローマ人への手紙1章21節には、 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 と記されています。これは、その前の20節に、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。 と記されていることを受けて、その理由を述べるものですが、罪によって堕落してしまった人間の現実を明らかにしています。 この21節では、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人間も「神を知っている」と言われています。それは人が神のかたちに造られたことによっています。神さまが、神のかたちに造られた人を「神を知っている」ものとしてお造りになったのです。人は神さまとの愛の交わりに生きる者として、神のかたちに造られており、その最も深いところで神さまを知っています。それで、神のかたちに造られた人の心の奥底には「神への思い」があり、人が人であるかぎり、神さまのことを考えないではいられません。このことは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後も変わっていません。変わったのは、人が自らの罪によって、造り主である神さまを神としてあがめることも、礼拝することもしなくなったということです。それが、 彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなった とあかしされているのです。 神のかたちに造られ、その最も深いところで神さまを知っている人は、罪によって堕落したことによって、造り主である神さまを神として礼拝することはなくなりましたが、それによって「神」のことを考えなくなってしまったわけではありません。その心には「神への思い」が残っています。それで、人は自分の考えにしたがってさまざまな偶像を作り出し、それを「神」として拝んだり、依り頼んだりしています。その様子が、23節に、 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と記されています。 「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました」と言われていることには、いくつか注目すべきことがあります。 まず、「不滅の神の御栄え」と言われているときの「不滅の」ということば(アフサルトス)は続く「神」にかかっています。そして、これは「滅ぶべき人間」と言われているときの「滅ぶべき」ということば(フサルトス)に否定を表す接頭辞(ア)をつけたものです。この「滅ぶべき」ということばは「人間」にかかっています。(「鳥、獣、はうもの」は複数形ですが、「滅ぶべき」と「人間」は単数形です。)ですから、ここには「滅ぶべき人間」と「不滅の神」が対比されています。 神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになった人は、「滅ぶべき」ものではありませんでした。その人が「滅ぶべき」ものになってしまったのは、人が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったからです。ですから、ここで「滅ぶべき人間」と言われているのは、ただ単に被造物としての人間ということではありません。造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落して「滅ぶべき」ものになってしまった人間ということを意味しています。自らの罪によって神のかたちとしての人格的な特性を腐敗させてしまっている人間、しかも、その罪の結果として死と滅びというさばきを刈り取っている人間であるのです。 すでにお話ししましたように、被造物である人間を神とすることは、神さまの聖さを冒すことです。まして、「滅ぶべき人間」を神とすることは、それ以上に、深く神さまの聖さを冒すことです。 しかも、この世で人々が「神」として祀り、依り頼んでいる人間は、ほとんどの場合、自らが何らかの権力の座について人々を従わせていた人々です。そのような人々が自らを偶像化することによって、より人々を従わせやすくするという面がありました。このようなことの根源をたどっていけば、自ら神のようになろうとして、造り主である神さまに対して罪を犯したサタンに行き当たります。コリント人への手紙第2・4章4節では、サタンのことが「この世の神」と呼ばれています。神のかたちに造られた人はそのサタンに倣う罪を犯したものとして、やはり、自らを神の位置に据えようとしますが、神さまの一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、それを徹底化させてしまうことがないように守られています。けれども、その罪の自己中心性は消えることなく残っていて、権力を掌握したりして機会があれば、より徹底した形で表れてきて、自らを神の位置に据えようとします。また、そのような機会がないために、自らがそのような立場に立てなくても、そのような立場に立った人を偶像化してあがめるのです。 また、ここローマ人への手紙1章23節では、「滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物」というように、「滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもの」そのものではなく、それらの「かたちに似た物」と言われています。ここでは、「かたち」と「似た物」という同義語を連ねています。これは、それらが偶像であることを示すとともに、神さまがお造りになったものよりも劣悪で空しいものであるという意味合いを伝えていると考えられます。 神さまがお造りになった「人間や、鳥、獣、はうものの」は生きています。神さまの御手の作品として、これをお造りになった神さまの知恵や力を映し出しています。けれども、人間が作り出すのは「滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物」としての偶像です。そのような偶像は、それ自体にいのちがなく、自らは何もなしえない空しいものでしかありません。このようなものを作り出して「神」として仕えることは、罪に縛られている人間の愚かさを映し出しています。 このようなことを考えますと、23節で、 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました と言われていることが、どんなに愚かで、恐ろしいことであるかを、改めて思い知らされます。ですから、これを22節からのつながりで見ますと、 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。 と記されていることの意味の重さが感じられます。 けれども、この愚かさにはもう1つの面があります。 本当は、神さまがご自身のかたちにお造りになった人間自身が、この造られた世界にあって、最も豊かに造り主である神さまを映し出す存在であるのです。神のかたちに造られた人は造り主である神さまを知っているものとして造られており、その心の最も深いところには神さまへの思いがあります。人はそのように神のかたちに造られているので、造り主である神さまを愛し、神として礼拝し、神として信頼して、委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことができます。そのことをとおして、生きておられるまことの神さまを映し出していきます。このことに、神のかたちの栄光と尊厳性があります。 罪によって堕落してしまった人が、「不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまい」、このような偶像を拝み、それに仕えるものとなってしまったことは、神のかたちの栄光と尊厳性を損なうことでもあるのです。 私たち人間の罪の本質は神さまの聖さを冒すことにあります。それは、また、人間自身に与えられている神のかたちとしての人間の栄光と尊厳性を冒すことでもあります。神のかたちに造られて、この世界において造り主である神さまを映し出すものである人間が犯す罪は、神さまの聖さを冒すとともに、神のかたちとしての栄光と尊厳性をも冒すものです。それは造り主である神さまの御前に「負いめ」となって積み上げられていきます。人類の罪による堕落以来、人は歴史を通してこのような「負いめ」を積み上げてきています。 私たちは御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって罪を贖っていただき、神のかたちの栄光と尊厳性を回復していただいています。そればかりか、神のかたちの完成としての「御子のかたち」にあずかるものとしていただいています。けれども、私たちのうちにはなおも罪の性質が残っており、私たちは実際に罪を犯します。そのために、私たちは「負いめ」を積み上げてしまいます。それに対して、主イエス・キリストは、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈るべきことを教えてくださっています。それは、ご自身が十字架の死によって完全な贖いを成し遂げてくださったことに基づくことです。主イエス・キリストは、その完全な贖いのうちに私たちを保ってくださいます。 |
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