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説教日:2009年1月11日 |
このように、神のかたちに造られた人は、その「存在」から言いますと、自由な意志をもつ人格的な存在であり、その「特性」から言いますと、愛を本質的な特性としています。この2つのことは深くかかわっています。つまり、自由な意志をもつ人格的な「存在」の本質的な「特性」が愛であるということです。 言うまでもなく、愛は自由な意志をもつ人格的な存在から生まれてくるものです。相手の心を操作して、その人をマインドコントロールされた状態にしたうえで、その人の愛を受けようとしても、真の愛の関係を築くことはできません。あるいは、お金や地位や名誉などで相手を引きつけたからといって、それで愛が生み出されたということにはなりません。愛は自由な意志をもっている人格的な主体が、その自由な意志によって生み出すものです。 このように、愛は自由な意志をもっている人格的な存在から生み出されます。その自由な意志のないところには真の愛も生まれてきません。とはいえ、自由な意志があれば、そこから自然と愛が生まれてくるというわけではありません。神さまが人を神のかたちにお造りになり、その神のかたちの本質的な特性が愛であるので、自由な意志をもっている人格的な存在である人から愛が生まれてくるのです。 自由な意志があれば、そこから自然と愛が生まれてくるというわけではないということは少し分かりにくいかもしれませんが、具体的な例として、サタンのことを考えてみましょう。 サタンは優れた御使いとして造られ、豊かな栄光を与えられたものとして造られました。もちろん、それは被造物としての栄光です。しかし、自らの栄光のゆえに、造り主である神さまに対して高ぶり、神のようになろうとしました。自由な意志をもつ人格的な存在であるサタンが、自分の意志で、神のようになろうとしたのです。 これは、先週と先々週お話ししたことに照らして言いますと、創造者である神さまと被造物である自分の間にある絶対的な区別をわきまえなくなってしまったということで、神さまの聖さを冒すことです。ここで特に注意したいことは、これが罪の根源であるということです。これは、罪を突き詰めていくと最後にはこのことに行き着くということでもあります。罪の根源は、造り主である神さまと神さまによって造られたものである自分たちの間にある絶対的な区別をわきまえないこと、すなわち、神さまの聖さを冒すことにあるのです。このことは、後ほどお話ししますが、人間の罪にも、そのまま当てはまります。 言うまでもないことですが、いくらサタンが神のようになろうとしても、それで被造物でなくなるわけではありません。造り主である神さまと神さまによって造られたものとの間にある絶対的な区別がなくなるわけではありません。これは、あくまでもサタンの自由な意志によるあり方の選択の問題です。自らの自由な意志によって、自分が神さまとあまり違わないものであると考え、自分が神であるかのように振る舞っているのです。 そのようにしてサタンは、造り主である神さまに対して高ぶり、神さまの聖さを冒して、御前に堕落してしまいましたが、自由な意志をもつ人格的な存在であることには変わりがありません。今日も、サタンは神さまに対して逆らうことを目的として働いています。それは自らの自由な意志による選択です。そのようにサタンが自由な意志をもつ人格的な存在であるからといって、サタンが誰かを愛することはありません。それは、自由な意志をもつ人格的な存在であるサタンの本質的な特性がその罪によって腐敗してしまい、愛ではなくなってしまったからです。このように、サタンが自由な意志をもつ人格的な存在であるのに、サタンから愛が生まれてくることがないのは、サタンの本質的な特性が愛ではないからです。 より厳密に言いますと、サタンはもともと優れた御使いとして造られましたので、自由な意志をもつ人格的な存在であり、その本質的な特性は愛であったと考えられます。そのサタンが造り主である神さまに対して高ぶり、神さまの聖さを冒す罪を犯して堕落しました。それによってサタンから愛がなくなってしまったというよりは、愛が罪によってまったく腐敗し、憎しみに変質してしまったということです。サタンが自由な意志をもつ人格的な存在ではなくなったというのではなく、愛を初めとする人格的な特性がまったく腐敗してしまったということです。 このサタンのことを考えますと、自由な意志がありさえすれば、そこから自然と愛が生まれてくるというわけではないことが分かります。愛が生まれてくるためには、自由な意志をもつ人格的な存在であることとともに、その人格的な特性が愛であるということが必要であるのです。 サタンの罪による堕落のことをお話ししましたが、人間の場合は、少し事情が違っています。先週と先々週お話ししましたように、人も、造り主である神さまと神さまによって造られた自分との間にある絶対的な区別を見失い、神さまの聖さを冒す罪を犯し、御前に堕落してしまいました。これも自らの自由な意志によって選択したことです。神さまは、サタンが自らの罪によってまったく腐敗してしまうままにされました。けれども、神さまは、サタンと同じ罪を犯した人が、サタンと同じように自らの罪によってまったく腐敗してしまうこと、完全に腐敗しきってしまうことがないようにしてくださいました。神さまの一般恩恵による御霊のお働きによって、人が自らの罪によって完全に腐敗しきってしまうことがないように、その腐敗の徹底化を止めてくださったのです。それで、神のかたちの本質的な特性である愛は罪によって腐敗し、自己中心的に歪んだものになってしまっていますが、完全に腐敗しきってはいないのです。 人は神のかたちに造られましたが、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。これによって、神のかたちに造られた人の心が罪によって腐敗してしまいました。そうではあっても、人が神のかたちでなくなったのではありません。創世記9章6節には、 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 神は人を神のかたちに お造りになったから と記されています。このみことばは、神のかたちに造られた人を殺すことを禁じるものですが、ノアの時代、すなわち、人が罪によって堕落してしまった後の時代に語られたものです。それで、このみことばは、堕落の後も人は神のかたちであるということを示しています。 繰り返しになりますが、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも神のかたちであるのは、神さまの一般恩恵による御霊のお働きによって、人が完全に堕落し、腐敗しきってしまうことがないように守っていただいているからです。一般恩恵も恩みですから、これも人間がそれを受けるに値するからということで与えられたのではなく、神さまが価なしに備えてくださったものです。このような一般恩恵に基づく御霊のお働きによる守りや支えがあっても、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人の愛は罪によって腐敗しており、その自己中心性によって歪められてしまっています。それで、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人は契約の神である主を愛することはありません。それどころか、罪の自己中心性によって、自らを中心として生きるようになってしまっています。 神さまが一般恩恵による御霊のお働きによって、人を自らの罪によって完全に腐敗しきってしまうことがないように守ってくださっているのは、いわば「応急措置」です。これだけでは、本当の解決にはなりません。この「応急措置」は、やがて、神さまが福音のみことばにおいて約束してくださった贖い主によって、ご自身の民の罪を贖ってくださるようになるための備えです。もし神さまがこの「応急措置」をしてくださらなかったなら、人間は自らの罪による腐敗を徹底化させて、サタンと同じようになってしまっていたはずです。それによって罪の升目を満たしてしまい、神さまの聖さを冒す者として、さばきを受けて滅び去っていたはずです。 実際に、人類が自らの罪の升目を満たしてしまったことがあります。それがノアの時代です。これによって、神さまは人の罪による腐敗が徹底化されて罪の升目を満たしてしまうならどのようなことになるかを、実際の歴史を通してお示しになったのです。その時代に人類は自らの罪の升目を満たし、大洪水によるさばきによって滅ぼされました。ただノアとその家族だけが主の恵みにあずかって救われました。その後に、神さまはさらなる一般恩恵による御霊のお働きによって、人類が罪の升目を満たすことがないようにしてくださり、歴史を保ってくださっています。 これとともに、神である主はご自身の契約の民をその罪と罪の結果である死と滅びから救い出してくださるために、人類の堕落の直後に贖い主を約束してくださいました。そして、実際に、今から2千年前にご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。御子イエス・キリストは、十字架にかかって、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。このようにして、神さまは私たちの罪を完全に贖ってくださいました。 このこととのかかわりで、先ほどお話ししました罪の根源のことを思い出したいと思います。罪の根源は、造り主である神さまと神さまによって造られたものである自分たちの間にある絶対的な区別をわきまえないことにあります。すなわち、神さまの聖さを冒すことにあります。それは、サタンのように、高ぶって、自らが神のようになろうとすることに現れてきます。それは私たち人間にとっても同じです。私たち人間の罪の特質が自らを神の位置に据えるほどの自己中心性にあるということもこのことを物語っています。 しかし、そのような、自らを神の位置に据えようとする高ぶりには、より深い問題が潜んでいます。それは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまを、自分たちと同じようなものと考えているという現実です。確かに、神さまは自分たちよりは高い存在であるけれども、自分たちも神のようになれると感じることの根底には、神さまと自分たちの違いは程度の違いであるという考え方があるのです。これは、罪を犯しているサタンにも人間にも共通している考え方であり、感じ方です。 すでに、お話ししましたように、造り主である神さまと神さまによって造られたものの間には「絶対的な区別」があるということは、神さまはいかなる被造物とも比べることができないお方であるということを意味しています。神さまがあらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主であられるということはそのようなことです。 このように、造り主である神さまと神さまによって造られたものの間には「絶対的な区別」があって、神さまはいかなる被造物とも比べることができない方です。その意味で、神さまは聖なる方です。御使いであれ、神のかたちに造られている人間であれ、いかなる被造物も、このような神さまを直接的に見ることも知ることもできません。 そうであっても、私たちは神さまを知っています。それは、すでにお話ししましたように、三位一体の神さまが私たちにご自身を啓示してくださっているからです。神さまは私たちにご自身を啓示してくださるために、御父、御子、御霊の間に「役割分担」をされました。 父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表する役割を負っておられます。神さまの無限、永遠、不変の栄光は父なる神さまが代表的に表現しておられます。それで、いかなる被造物も、父なる神さまを直接的に見ることも知ることもできません。 御子は無限、永遠、不変の栄光の主であられますが、その栄光を隠し、無限に身を低くして、私たちにご自身を啓示してくださる役割を負っておられます。この点において、父なる神さまと御子イエス・キリストは1つであられます。つまり、父なる神さまが御子にあってご自身を啓示してくださっているのです。それで、ヨハネの福音書14章9節に記されていますように、イエス・キリストは、 わたしを見た者は、父を見たのです。 と言われました。続く10節には、 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。 というイエス・キリストのみことばが記されています。これは、父なる神さまとイエス・キリストが1つであられることを示しています。 そして、御霊は、御子イエス・キリストが父なる神さまを啓示してくださった啓示を、私たちに悟らせてくださいます。 ですから、御使いや神のかたちに造られた人が神さまを知ることができるのは、御子がその無限、永遠、不変の栄光を隠し、無限に身を低くされて、ご自身を啓示してくださっているからです。そのことを忘れて、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまを、自分たちと比較できる方と考えることは、神さまの聖さを冒すことです。たとえ、自分たちよりはるかに偉大な方であると考えたとしても、そこには比較があります。無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまは、そのような比較のできない方、いっさいの比較を越えた方です。 存在においても考える能力においても限界がある私たちが、私たちのことばで、すなわち、私たちの限界ある考え方にしたがって、神さまは大いなる方であるとか、神さまは天におられると言うことができるのは、御子がその無限、永遠、不変の栄光を隠して、無限に身を低くして、ご自身を私たちに啓示してくださっているからです。私たちは、御子にあって無限に身を低くして、ご自身を示してくださっている神さまのことを、限りある自分たちのことばで、大いなる方であると言うことができるのです。また、父なる神さまが御子にあってこの世界にご臨在してくださっているので、神さまは天におられると言うことができるのです。 これらのことを考えますと、私たち人間の罪の根源が神さまの聖さを冒すことであるということの意味の深さに思い至ります。私たちの罪は、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまの聖さを冒すことにあります。神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることをわきまえないことにあります。そのようにして、神さまを神としないこと、そのゆえに神さまを礼拝することも、愛することもないことにあります。その意味で、私たちの罪は、それがどのような罪であっても、無限の重さをもっています。私たちはこのことを実感できません。それは、私たちが、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを実感できていないからです。もし、さらなる啓示によって、私たちが今このままの状態で、神さまが神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを実感することができるようになるとしたら、私たちは腰が抜け、気を失うほどの恐ろしさに震えることになるでしょう。終りの日についてのイエス・キリストの教えを記しているルカの福音書21章23節には、 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。 と記されています。これは「天の万象が揺り動かされる」ということに直面することによる恐怖です。しかし、罪のあるままで主の栄光のご臨在に触れることは、それ以上に恐ろしいことです。 もちろん、それは私たちが今のままの状態で、すなわち、なおも罪の性質を自らのうちに宿し、思いにおいてもことばにおいても行いにおいても罪を犯している状態で、栄光のキリストのご臨在に直面することになればの話です。終りの日には、栄光のキリストは私たちをご自身が成し遂げられた罪の贖いにまったくあずからせてくださいます。また、それに基づいて、私たちをご自身の栄光にあずからせてくださり、栄光ある者によみがえらせてくださいます。そのようにして私たちを、ご自身の御前に立たせてくださいます。そのとき、私たちには聖なる畏れと主の愛と恵みの大きさに対する驚きはあるでしょうが、恐怖は取り去られることでしょう。 いずれにしましても、私たちは、自らの罪を突き詰めていくと、それが無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまの聖さを冒すことであり、それゆえに無限の重みをもっているということを心に銘記しなければなりません。 そうしますと、そのような罪は、たとえ御使いであれ罪のない人間であれ、いかなる被造物も贖うことができないものであるということが分かります。そして、そうであるからこそ、父なる神さまがご自身の御子を私たちの贖い主として立ててくださったことの意味が了解されます。それは、私たちの罪は他のものによっても贖うことができるけれども、神さまはご自身の愛を示すために御子を贖い主として立ててくださったというようなことではありません。私たちの1つの罪も無限、永遠、不変の栄光の神さまの聖さを冒すものであり、無限の重さをもっています。それで、その1つの罪であっても、ご自身無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストによってしか贖っていただくことができないのです。 父なる神さまは、ご自身に対してそのような罪を重ねてしまっている私たちを贖って、ご自身の民、ご自身の子としてくださるために、御子を私たちの贖い主として立ててくださり、その十字架の死によって私たちの罪を完全に贖ってくださいました。無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いは、どのような罪であっても、またどれほど多くの罪であっても、すべて完全に贖うことができます。 私たちは、このような私たちの想像を絶する父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みのうちに入れていただいています。それで、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈ることができます。ただ、そのように祈るだけでは十分ではないというような考え方をしてはなりません。父なる神さまが御子イエス・キリストによって備えてくださった贖いは完全なものです。それに何か不足があるかのように考えて、自分たちもそれに付け加えようとしてはならないのです。 私たちは父なる神さまが備えてくださった御子イエス・キリストによる罪の贖いの完全さを信じて、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈るとともに、御子イエス・キリストによる罪の贖いの完全さを信じて、父なる神さまが「私たちの負いめ」を赦してくださっていることを信じます。 |
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