(第177回)


説教日:2009年1月4日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、この祈りに出てくる「私たちの負いめ」がどのようなものであるかを理解するために、人が神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられているということについてお話ししてきました。
 先週は、人が神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられていることと関連することとして、神さまを礼拝することについてお話ししました。とはいえ、礼拝についてのすべてのことというのではなく、「私たちの負いめ」について理解することと関連あることだけを取り上げました。
 人が神のかたちに造られていることの中心にあるのは、人が造り主である神さまとの愛にある交わりに生きる者であるということです。そして、その神さまとの愛にある交わりの中心には、神さまを礼拝することがあります。また、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命を遂行することの中心にあるのも神さまを礼拝することです。
 先週お話ししたことの復習になりますが、造り主である神さまは、その存在においても、その属性の1つ1つにおいても、無限、永遠、不変であられ、そのすべてにおいて無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる方です。これに対して、神さまによって造られたもの、すなわち、被造物は、この広大な宇宙であれ、その中にある人であれ、御使いであれ、すべて有限なものであり、時間的なものであり、変化するものです。それで、神さまと神さまによって造られたものとの間には絶対的な区別があります。このように、神さまが、神さまによって造られたものと絶対的に区別される方であることを示すものが神さまの「聖さ」です。
 私たちは神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にある交わりに生きる神の子どもとしての特権にあずかっています。しかし、先週お話ししましたように、そのことで、かえって神さまの聖さを見失ってしまうことになりかねません。
 このことをさらに考えるために、元旦礼拝でも取り上げましたが、イザヤ書40章21節〜25節を見てみましょう。そこには、

 あなたがたは知らないのか。聞かないのか。
 初めから、告げられなかったのか。
 地の基がどうして置かれたかを
 悟らなかったのか。
 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。
 地の住民はいなごのようだ。
 主は天を薄絹のように延べ、
 これを天幕のように広げて住まわれる。
 君主たちを無に帰し、
 地のさばきつかさをむなしいものにされる。
 彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、
 やっと地に根を張ろうとするとき、
 主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。
 暴風がそれを、わらのように散らす。
 「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、
 だれと比べようとするのか。」と
 聖なる方は仰せられる。

と記されています。
 21節で、

あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。

と言われているのは、言うまでもなく、神さまに分からないことがあるから尋ねているということではありません。これは「修辞疑問」と呼ばれる問いかけです。この場合には、尋ねられた者であるイスラエルの民が、すでにそのことをよく知っているはずだし、聞いているはずだし、告げられているはずだし、悟っているはずだということを示しています。
 ここには4つの問いかけがあります。最初の2つの問いかけは現在のことや未来のことを表す未完了時制で表されています。これに対して、後の2つの問いかけは過去のことを表す完了時制で表されています。その意味で、後の2つの問いかけで取り上げられていることのほうがより基礎的であると考えられます。
 けれども、この4つの問いかけは2つに分けられるものではなく、全体がキアスムスという形(この場合は、A・B・B・A)で構成されています。つまり、最初の、

 あなたがたは知らないのか。

という問いかけと、最後の、

 地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。

という問いかけでは「知ること」と「悟ること」が関連しています。それで、この2つの問いかけは関連しています。先ほどの時制にこだわって言いますと、「地の基がどうして置かれたかを悟」ったはずだから、知っているはずだということになります。そして、2つ目の、

 (あなたがたは聞かないのか。

という問いかけと、3つ目の、

 (あなたがたは初めから、告げられなかったのか。

という問いかけも、「聞くこと」と「告げられること」が関連していますので、つながっています。これも、「初めから、告げられ」ていたはずだから、聞いているはずだということになります。このようにして、この4つの問いかけ全体が(キアスムスという構成によって)1つのまとまりとなっています。そうしますと、ここでは基本的に1つのことが示されているということになります。


 これら4つの問いかけのうち、

 初めから、告げられなかったのか。

という問いかけの「初め」は、これに続く、

 地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。

という問いかけとの関連で理解されるべきものです。この「地の基が・・・置かれた」ということは、神さまの天地創造の御業に触れることです。それで、この「初め」は、ただ単に、問いかけられている人の人生の「初め」ではなく、創世記1章1節に、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されているときの「初め」であると考えられます。
 この、

 初めに、神が天と地を創造した。

というみことばは、創世記1章1節〜2章3節に記されている、神さまの創造の御業の記事の「見出し」に当たります。
この「天と地」ということばはヘブル語の慣用表現で、この世界の「すべてのもの」、しかも秩序立てられている「すべてのもの」を表しています。日本語でも「老いも若きも」で「すべての人」を表しますし、「昼も夜も」で「いつも」を表します。(このような表現の仕方をメリスムスと呼びます。)
 そうしますと、

 初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「初め」は、神さまが造り出されたこの世界の「すべてのもの」の「初め」のことです。ですから、この世界は永遠に存在しているのではなく、神さまの創造の御業とともに始まったものです。
 日本にも『古事記』のような創世神話がありますが、その当時すなわち古代メソポタミアにも創世神話がありました。そのような神話の中では、この世界はずっとあり、神々もこの世界に住んでいると考えられています。そして、神々がすでにあるこの世界の素材を用いていろいろなものを造ったということになっています。創世記1章1節の、

 初めに、神が天と地を創造した。

というみことばは、これとは全く違うことを教えています。この世界は永遠にあるのではなく、神さまによって造られたものであるということです。
 それだけではありません。神さまはこの世界とその中のすべてのものをお造りになった方であるので、この世界の一部ではないということを示しています。
 時間は神さまがお造りになったこの世界の時間です。神さまがこの世界を時間とともに経過し、変化する世界としてお造りになったのです。それで、神さまがこの世界をお造りにならなかったら時間もありません。時間は、神さまの創造の御業とともに始まったものです。私たちは神さまがお造りになったこの世界の中にあり、この世界の一部であり、この世界の時間の中にあり、時間を越えることはできません。その意味で、私たちは時間に縛られています。私たちは過去に戻ることはできませんし、未来に行ってくることもできません。また、私たちはここにいますが、あそこにはいません。私たちは空間のうちにあり、空間を越えることができません。その意味で、私たちは空間に縛られています。しかし、この世界をお造りになった神さまは、この世界の一部ではありませんし、この世界の時間の中にはおられません。神さまは時間や空間を越えておられ、時間や空間に縛られてはいません。神さまは時間や空間を超越しておられます。
 私たちは、

 初めに、神が天と地を創造した。

というみことばからこのようなことを汲み取ることができます。神さまはこのようなことを「初めから」啓示してくださっていました。最初の人アダムは神さまが自分を含めたこの世界のすべてのものの造り主であられ、自分たちは神さまの御手の作品であることを知っていたはずです。そして、そのこと、すなわち、神さまの創造の御業についての啓示が保存され、あるときに、神さまのみことばである聖書に書き記されました。神さまは摂理の御手によって、この聖書のみことばを保存してくださいました。イスラエルの民はそのみことばに触れています。いわば、イスラエルの民は「初めから」告げられた神さまのみことばを聞いているのです。それは、主の契約の民である私たちも同じです。
 イザヤ書40章21節の、

あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。

というみことばは、このようなことを踏まえています。そして、イスラエルの民はそのことを「初めから、告げられ」ており、聞いており、悟っており、知っているはずであるというのです。
 続く、22節〜24節に記されている、

 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。
 地の住民はいなごのようだ。
 主は天を薄絹のように延べ、
 これを天幕のように広げて住まわれる。
 君主たちを無に帰し、
 地のさばきつかさをむなしいものにされる。
 彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、
 やっと地に根を張ろうとするとき、
 主はそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。
 暴風がそれを、わらのように散らす。

というみことばは、神さまがこの世界を越えた方であられ、この世界の支配者として、国々をおさばきになるということを示しています。

 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。
 地の住民はいなごのようだ。
 主は天を薄絹のように延べ、
 これを天幕のように広げて住まわれる。

ということは、その当時の人々に分かるようにということで、この世界についての、その当時の人々の理解に合わせて語られています。

 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。

ということは、神さまがこの世界を超越しておられることを示しています。「地をおおう天蓋」とはそこに天体があるところで、今日のことばで言えば「宇宙空間」のことです。そして、神さまはそれを超越しておられると言われているわけです。今日の私たちの理解に合わせて言えば、神さまはこの宇宙を超越しておられるということです。
 ただし、厳密に言いますと、

 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。
 地の住民はいなごのようだ。
 主は天を薄絹のように延べ、
 これを天幕のように広げて住まわれる。

ということは、神さまの無限、永遠、不変の存在そのもののことを述べているのではありません。「住まわれる」ということばに示されているように、無限、永遠、不変の神さまが、御子にあって無限に身を低くしてくださって、この世界にご臨在してくださり、この世界とかかわってくださることにおいて考えられる超越性のことです。
 先ほどお話ししましたように、あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主である神さまご自身と、神さまがお造りになったこの世界は「絶対的に」区別されます。この意味では、神さまご自身と神さまがお造りになったこの世界は、比較することができません。というのは、何かと何かが比較ができるということは、その比較するもの同士の間に何らかの共通性があるということであり、比較されるもの同士が比較・相対化されるからです。あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主である神さまご自身は、そのように比較・相対化される方ではありません。また、神さまをそのように比較・相対化することは、神さまの聖さを冒すことです。
 いずれにしましても、ここでは、神である主が、ご自身がお造りになったこの世界を超越しておられることが示されています。その上で、25節には、

 「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、
 だれと比べようとするのか。」と
 聖なる方は仰せられる。

と記されています。これは、少し前の18節に、

 あなたがたは、神をだれになぞらえ、
 神をどんな似姿に似せようとするのか。

と記されている問いかけと同じ問いかけです。
 イスラエルの民は、神さまがこの世界の造り主であり、そのゆえにこの世界の一部ではなく、この世界を越えた方であることをみことばを通して、告げられてきましたし、そのことを当然知っているはずでした。それなのに、この神さまを人間の考える「神」のイメージにしたがって考えてしまっているのです。
 このことは、このイザヤの時代に始まったのではありません。このことには古典的な事例があります。それは、出エジプト記32章1節〜6節に記されています。そこには、

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。

と記されています。
 ここでアロンを初めとするイスラエルの民は「金の子牛」を作りました。そして、

イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。

と言っています。アロン自身も、

 あすは主への祭りである。

と言っています。この「」は契約の神である主、ヤハウェです。ですから、イスラエルの民はこの時、「」を礼拝していると考えており、異教の神を礼拝したつもりはないのです。
 それでは何が問題なのでしょうか。それは、イスラエルの民が、これに先立って出エジプト記20章4節に記されている、十戒の第2戒の、

 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

という戒めに背いたということです。契約の神である主、ヤハウェ以外の神々を神とすることは、第1戒において、

 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

と戒められて、禁じられています。それで、この第1戒において、契約の神である主、ヤハウェ以外の神々は退けられ、除外されています。それで、そのことを踏まえて、第2戒で、

 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。

と戒められているのは、主、ヤハウェを礼拝するために偶像を作ってはならないということを戒めるものです。アロンとイスラエルの民は、まさにこの戒めに背いたのです。
 ここには、より深い問題が潜んでいます。それは、どうしてアロンとイスラエルの民が「金の子牛」を作って、それを「ヤハウェ」と呼んだのかという問題です。それは、エジプトの地で生活している中で、エジプトの文化に触れ、その文化の中で生み出された神々のイメージに影響されてのことであったと考えるほかはありません。実際に、エジプトでは「牛」も神として祀られていました。
 このことは、私たちにとっても問題となります。私たちも、目に見える偶像を作ることはないとしても、無限、永遠、不変の栄光の神さまを、自分たちのイメージによって考えてしまうことがあるのです。私たちには神さまによって造られた被造物としての限界があります。そのような自分の貧しい想像力によって神さまのことを考えてしまいがちです。そればかりか、罪によって、造り主である神さまを神とすることがない人間の考え出した「神」のイメージになじんでしまっているという現実もあります。今日においては、アニメや映画や漫画などを通して、造り主である神さまを神としていない人間のもつ世界観を反映した映像が、いやおうなしに私たちの目に飛び込んできます。それは、特に、子どもたちに大きな影響力をもっています。
 このようにして、私たちには、知らず知らずのうちに自分のうちに作り上げられているイメージにしたがって、神さまのことを考えてしまう危険性があります。
 しかし、これにはもう1つの面があります。
 すでにお話ししましたように、私たちは時間や空間のうちにあり、時間や空間を越えることはできませんので、神さまが時間や空間を越えておられるということがどのようなことであるかを、現実的に知ることはできません。まして、神さまが無限、永遠、不変であられることが、実際にどのようなことであるかを知ることはできません。
 それで、神さまは、このような私たちの限界に合わせてご自身を示してくださっています。先週は、そのために、三位一体の御父、御子、御霊が「役割分担」をしてくださっているということについてお話ししました。そして、創世記2章に記されていることなどから、そのことが、神さまが「擬人化」された形で表されているということもお話ししました。
 ここではそれと別のことを取り上げてみましょう。
 詩篇90篇2節には、

 山々が生まれる前から、
 あなたが地と世界とを生み出す前から、
 まことに、とこしえからとこしえまで
 あなたは神です。

と記されています。
 ここでは、神さまが天地創造の御業を遂行される「」と言われていますが、厳密には、神さまが天地創造の御業によってこの世界を造られなければ、この世界の時間もありません。それで、神さまが創造の御業を始められる時間的な「」というものはありません。けれども、私たちとしては神さまが天地創造の御業を遂行される「」というように言うほかはありません。それで、これは時間的に「」ということではなく、論理的に「」ということだと説明したりするわけです。そうではあっても、これが存在においても思考能力においても時間を越えることができない私たちの限界に合わせた言い方であることには変わりがありません。
 いずれにしましても、ここでは、この世界は神さまの創造の御業によって始まったものであり、神さまは永遠にいます方であることが対比されています。
 もちろん、この詩篇90篇ではこの対比を示して終っているわけではありません。これは1節において、

 主よ。あなたは代々にわたって
 私たちの住まいです。

と言われていることを受けています。この場合の「」(アドーナーイ)は、神さまが天地の造り主にしてその支配者であられることを表しています。
 ここでは、この「」が「代々にわたって私たちの住まい」であると言われています。私たちは神さまがお造りになったこの世界が「私たちの住まい」であると考えています。それは間違ってはいません。引用はしませんが、イザヤ書45章18節には、神である主がこの世界を「人の住みかに」形造られたことが記されています。それで、この世界は神さまが人を保護し、養い育ててくださるためのさまざまな賜物に満ちています。けれども、そのようにして私たちを保護し、養い育ててくださるのは造り主である神さまです。神さまの賜物に満ちたこの世界は、神さまが私たちを保護し、養い育ててくださるために用いてくださる手段です。
 詩篇91篇1節〜9節にも、

 いと高き方の隠れ場に住む者は、
 全能者の陰に宿る。
 私は主に申し上げよう。
 「わが避け所、わがとりで、
 私の信頼するわが神。」と。
 主は狩人のわなから、
 恐ろしい疫病から、
 あなたを救い出されるからである。
    ・・・
 千人が、あなたのかたわらに、
 万人が、あなたの右手に倒れても、
 それはあなたには、近づかない。
 あなたはただ、それを目にし、
 悪者への報いを見るだけである。
 それはあなたが私の避け所である主を、
 いと高き方を、あなたの住まいとしたからである。

と記されています。
 すべてのものをお造りになって、治めておられる神さまこそが、真の意味で、「私たちの住まい」であるのです。それで、極端な言い方をすれば、たとえ天地が崩れ去ることがあっても、私たちは、

 主よ。あなたは代々にわたって
 私たちの住まいです。

と告白することができます。実際、詩篇102篇25節〜28節には、

 あなたははるか以前に地の基を据えられました。
 天も、あなたの御手のわざです。
 これらのものは滅びるでしょう。
 しかし、あなたはながらえられます。
 すべてのものは衣のようにすり切れます。
 あなたが着物のように取り替えられると、
 それらは変わってしまいます。
 しかし、あなたは変わることがなく、
 あなたの年は尽きることがありません。
 あなたのしもべらの子孫は住みつき、
 彼らのすえは、あなたの前に堅く立てられましょう。

という告白が記されています。
 私たちの存在と思考能力の限界に合わせた言い方の別の事例が詩篇90篇4節に見られます。そこには、

 まことに、あなたの目には、
 千年も、きのうのように過ぎ去り、
 夜回りのひとときのようです。

と記されています。ここでは、永遠の存在であられる神さまと、時間的な存在である私たちとの、いわば絶対的な区別が示されています。私たちにとって非常に長い「千年も」、永遠の存在である神さまの目には、「きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのよう」だというのです。
 同じようなことは、ペテロの手紙第2・3章8節に、

 主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。

と記されています。このペテロの手紙第2・3章8節に記されているみことばについては、別の解釈もありますが、人間にとって非常に長い「千年」と非常に短い「一日」が永遠の存在である神さまにとってどのようなものであるかを示していると考えられます。
 これらのみことばは、被造物であり、存在と思考能力に限りがある私たちに合わせて、神さまのことを伝えるものです。
 先主日にもお話ししましたが、神さまはあらゆる点において無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる方です。神さまによって造られたものは、御使いであれ、神のかたちに造られた人であれ、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまを直接的に見ることも知ることもできません。この造り主である神さまと造り主である神さまがお造りになったものとの絶対的な区別をわきまえないで、自分たちが神さまを直接的に見て、知ることができると考えるのは、神さまの聖さを犯すことです。
 そうではあっても、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまは、御子にあって、また御子によって、無限に身を低くし、私たちに合わせてご自身を啓示してくださっています。そのことは、これまでほんのいくつかの事例を見てきましたが、神さまのみことばである聖書にも見られます。そして、それはすでに取り上げたいくつかのみことばから分かりますように、私たちの「益」のためです。私たちが神さまを親しく知って、神さまのみを信頼し、神さまのみを礼拝するようになるためです。
 ただ、そのために、私たちが、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であることを見失ってしまう危険があります。また、私たちはその危険に陥りやすいものです。私たちは、このことを心に銘記して、私たちの大祭司である御子イエス・キリストの御名によって、すなわち、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに包んでいただいて、神さまを礼拝する必要があります。
 同時に、自らのうちに罪の性質を宿している私たちは、この点で、すなわち、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であることをわきまえることで、常に欠けがあることを認めて、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈りたいと思います。

 


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