(第176回)


説教日:2008年12月28日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、この祈りに出てくる「私たちの負いめ」がどのようなものであるかについてお話ししてきました。「私たちの負いめ」を理解するためには、そもそも人がどのようなものとして造られているかを知る必要があります。それで、神さまが天地創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、これに歴史と文化を造る使命を委ねてくださったということについて、いろいろなことをお話ししてきました。
 神さまが神のかたちに造られた人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命については、まだいくつかお話しすべきことが残っていますが、それは、次の主の祈りの第6の祈りともかかわっていると考えられますので、ここでいったん打ち切りたいと思います。
 今日は、人が神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられていることと関連する大切なこととして、神さまを礼拝することについて、「私たちの負いめ」とかかわっていることをお話ししたいと思います。


 人が神のかたちに造られているということには、いろいろな意味がありますが、その中心にあるのは、人が造り主である神さまとの愛にある交わりに生きる者であるということです。そして、その神さまとの愛にある交わりの中心にあるのは、神さまを礼拝することです。また、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命を遂行することの中心にあるのも、神さまを礼拝することです。
 すでにいろいろな機会にお話ししましたが、創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事では、神さまは生き物たちを「その種類にしたがって」お造りになったと記されています。たとえば、1章24節には、

ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。

と記されています。ところが、人間の場合には、「その種類にしたがって」造られたと言われてはいません。26節、27節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されています。ですから、生き物たちは「その種類にしたがって」造られていますが、人は「その種類にしたがって」ではなく、「神のかたちに」造られているのです。
 この違いには大きな意味があります。「その種類にしたがって」造られている生き物たちは、「その種類」の枠の中で完結しています。つまり、自分たちが群がって生きていることで十分であって、それ以上の交流がなければ、自分たちらしく生きていくことができないということはありません。これに対して、神のかたちに造られた人の場合には、人間同士の間に交流があれば、それで人としての本来のあり方ができるということはないのです。もし人が「その種類にしたがって」造られていたとしたら、人間同士の間に交流があれば、それで人としての本来のあり方ができていたはずです。けれども、人は造り主である神さまのかたちに造られています。それで、人のいのちの本質は造り主である神さまとの交わりのうちに生きることにあります。
 ヨハネの手紙第1・4章16節に、

 神は愛です。

と記されているとおり、神さまの本質的な特性は愛です。それで、神のかたちの本質的な特性も愛です。もちろん、神さまの愛は無限、永遠、不変の愛です。これに対して、人の愛は限りがあり、時間的なものであり、変化するものです。よい意味で言えば、その愛が深くなるということです。そのような区別がありますが、神のかたちに造られた人のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛にある交わりのうちに生きることにあります。そして、その神さまとの愛にある交わりの中心に、神さまを礼拝することがあります。
 言うまでもなく、人はお互いの間の交わりに生きるものでもあります。そして、その交わりも、愛を本質的な特質とする神のかたちに造られている者としての愛にある交わりです。けれども、人はお互いの間の交わりに生きるようになるに先だって、造り主である神さまとの愛にある交わりのうちに生きる者であるのです。神のかたちに造られた人は、本来、神さまとの愛にある交わりのうちに生かされている者として、すなわち、造り主である神さまを礼拝する礼拝者として、お互いに出会い、神さまを礼拝することを中心として、お互いの愛のうちに生きる者であるのです。
 これはみことばを通して啓示されている神さまの創造の御業においても示されています。創世記2章7節には、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と記されています。
 ここでは、神さまのことが「神である主」と呼ばれています。この「」は契約の神である主の御名である「ヤハウェ」です。ここでは、神さまがその無限、永遠、不変の栄光を隠して、ご自身がお造りになったこの世界にご臨在してくださり、そのようにして神のかたちに造られた人とともにいてくださる方であられることを意味しています。ですから、人は造られて自らを意識したその時に、自分が神である主のご臨在の御前にあり、主の御顔が自分に向けられていることを自覚したはずです。ここでは、人は造られたその時から、そこにご臨在してくださっている契約の神である主との交わりのうちに生きていたことを示しています。
 ここから少し後の18節には、

その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

と記されています。そして、19節以下に「さわしい助け手」としての女性が造られたことが記されています。21節、22節では、

そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。

と言われています。
 この記事から分かりますように、最初の女性エバも、最初の人アダムと出会う前に、契約の神である主との出会いを経験しています。当然、エバも神である主を主として知り、主の愛に触れる機会があったと考えられます。そして、2人は神である主が引き合せてくださったことによってお互いに出会っています。
 このように、神のかたちに造られた人は、契約の神である主のご臨在の御前において、主との愛にある交わりに生きる者としてお互いに出会い、お互いに愛にある交わりのうちに生きるようになります。その愛にある交わりの中心にともに契約の神である主の愛に包まれて、心を1つにして主を礼拝することがあります。
 話が戻りますが、7節には、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と記されていました。ここでは、神さまのことが擬人化された表現、人になぞらえた言い方で表されています。ここでは特に陶器師の表象が用いられています。それは、神さまが私たちとともにいてくださる方であられることを示すとともに、神さまが生きた人格的な方であられることを示すためです。これによって、人は神さまのことを親しく知ることができます。けれども、これは逆に、人が神さまのことを自分たちとあまり違わない方であるかのように受け止めてしまう危険を伴っています。
 このことは、3章に記されている人類の堕落の経緯の背景となっていると考えられます。3章5節には、「」の背後にいる存在、後の啓示の光で言いますとサタンが、「善悪の知識の木」からは取って食べてはならないという神である主の戒めについて、エバに、

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

と言ったことが記されています。詳しい説明は省いて、結論的なことだけを言いますが、エバがこのようなサタンのことばを信じてしまったのには、いくつかの原因があると考えられます。そのうちの最大の原因は、エバが、無限に身を低くしてそこにご臨在してくださっている契約の神である主のことを、自分たちとあまり違わない方であると感じていたことにあると思われます。他にもいくつかの原因が考えられますが、それらはこの根本的な原因の上に立っていると考えられます。
 このことは、今日の私たちにとっても同じように問題となることです。それで、このことをもう少し考えてみましょう。
 先主日には降誕節の礼拝をいたしまして、栄光の主であられる御子イエス・キリストが「インマヌエル」という御名の主としてお生まれになったことについてお話ししました。そのお話の中でも触れましたが、テモテへの手紙第1・6章15節、16節には、

神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。

と記されています。
 神さまは無限、永遠、不変の栄光の主です。神さまはあらゆる点において、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられます。私たちはそのように言うことはできますが、それがどのようなことであるかを、ある程度知ることができるだけです。私たちには「無限」そのものを知ることはできません。
 神さまがお造りになったこの宇宙は、約150億光年(一般的には137億光年)の彼方に広がっていると言われています。1秒間に約30万キロメートル走る(地球を7回り半する)光が、約150億年走って到達する距離です。それは私たちの想像を絶する広がりです。そのように広大なこの世界と無限、永遠、不変の栄光の神さまの関係をたとえて言えば、紙切れと太陽の関係にたとえられます。紙切れは太陽に直接触れることはできません。直接触れるどころか、ある程度近づけば燃えてなくなってしまいます。この広大な世界も、無限、永遠、不変の栄光の神さまに直接的に触れることはできません。そのようなことはあり得ないのですが、もし、神さまが直接この世界に触れられるなら、この世界は一瞬のうちに焼き尽くされてしまいます。
 それでは、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまはこの世界を造ることはできないのではないかという疑問が出てきます。神さまの存在は無限ですから、神さまが存在されない所はどこにもありません。そして、その神さまの栄光が無限であるのであれば、どこを取ってみてもそこに神さまの無限の栄光が満ちています。そうであれば、この世界が存在する余地はないと言わなければなりません。世界がどこかに存在すれば、一瞬のうちに神さまの無限の栄光によって焼き尽くされてしまうはずです。
 ところが、神さまはこの世界をお造りになり、今日に至るまで真実に支えてくださっています。それはどのようにして可能なのでしょうか。このことについてはすでに詳しくお話ししたことがありますが、今お話していることとのかかわりもありますので、復習しておきましょう。
 これには神さまが三位一体の神であられることがかかわっています。ヨハネの福音書1章1節〜3節には、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。ここでは、「ことば」すなわち御子イエス・キリストが永遠の神であられ、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにいますことが示されています。そして、この世界の「すべてのもの」は、1つの例外もなく、この「ことば」なる方によって造られたと言われています。
 ここで、

 すべてのものは、この方によって造られた。

と言われているときの「この方によって」ということばが大切です。これは、「この方」すなわち永遠の神の御子が実際に創造の御業を遂行されたことを示しています。たとえて言いますと、「Aさんが家を建てた。」というとき、実際に家を建てる働きをしたのは大工さんです。大工さんはAさんの指名(任命)により、Aさんの意思にしたがって家を建てました。天地創造の御業もそれと同じです。私たちは「使徒信条」において、

 我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

と告白しています。この場合、父なる神さまは「Aさんが家を建てた。」というときの「Aさん」に当たります。そして、実際に家を建てる働きをした「大工さん」に当たるのが御子です。つまり、父なる神さまが御子によって創造の御業を遂行されたのです。
 みことばは一貫してこのことを示しています。たとえば、ヘブル人への手紙1章2節、3節には、

神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と記されています。ここでは、父なる神さまが「御子によって世界を造られました」と言われています。また、コロサイ人への手紙1章16節には、

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

と記されています。ここでは「万物」は「御子にあって」また「御子によって」造られたと言われています。
 聖書が創造の御業のことを述べるときに、ここで「御子にあって」と言われているときの「・・・にあって」ということば(前置詞・エン)や「御子によって」と言われているときの「・・・によって」ということば(前置詞・ディア)は御子に対して用いられるもので、これらが父なる神さまに対して用いられることはありません。
 このように、みことばは一貫して、父なる神さまが御子にあって、また御子によって、この世界をお造りになったとあかししています。これは、三位一体の神さまが創造の御業を遂行されたときに、御父、御子、御霊の間に「役割分担」がなされたことを意味しています。
 父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる神さまを代表しておられます。それで、神さまの無限、永遠、不変の栄光は父なる神さまにおいて現されています。この父なる神さまは創造の御業においてすべてをご計画される立場に立たれました。これは、「Aさんが家を建てた。」というときの「Aさん」の立場にたとえられます。
 御子は、実際に創造の御業を遂行する役割を負われました。これは「Aさんが家を建てた。」というときの「大工さん」にたとえられます。
 御霊は御子のお働きを実現に至らせる役割を負われました。御子が御霊の御力をもってこの世界をお造りになったと言うことができます。
 いずれにしましても、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられるのに、この世界が造られて、今日に至るまで存続しているのは、御子がその無限、永遠、不変の栄光を隠して、この世界にかかわってくださっているからです。
 この世界は御子によって造られただけではありません。コロサイ人への手紙1章16節では、

 万物は御子にあって造られた

と言われていました。また、ヘブル人への手紙1章3節では、

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

と言われていました。すべてのものは、御子にあって造られ、御子のうちにあり、御子によって保たれています。
 不完全なたとえではありますが、これは「耐火金庫」にたとえられます。外では火が燃えているのに、「耐火金庫」の中にあるものは保存されています。神さまの無限、永遠、不変の栄光は父なる神さまによって現されています。そうではあっても、この世界は御子のうちにあって保たれているのです。
 このように、御子は無限、永遠、不変の栄光の主であられますが、創造の御業において、ご自身の無限、永遠、不変の栄光を隠して、この世界にかかわってくださり、この世界をお造りになり、すべてのものを真実に支えてくださっています。
 このような「役割分担」は、贖いの御業にも当てはまります。というより、贖いの御業における三位一体の神さまの「役割分担」はよく知られていますが、すでにお話ししました創造の御業における「役割分担」はそれほど知られていません。
 贖いの御業において、父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表しておられ、贖いの御業に関するご計画をお立てになりました。
 御子は父なる神さまのみこころにしたがって贖いの御業を遂行されました。ピリピ人への手紙2章6節〜8節に、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

と記されているとおりです。
 御霊は御子イエス・キリストが成し遂げられた罪の贖いを私たちに当てはめて、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれさせてくださり、私たちを罪から聖めてくださり、イエス・キリストの栄光のかたちに造り変えてくださいます。
 また、神さまがご自身を私たちに啓示してくださることにも、このような「役割分担」があります。
 父なる神さまは無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表しておられます。それで、人であれ御使いであれ、いかなる被造物も父なる神さまを直接的に見ることも知ることもできません。父なる神さまは、御子イエス・キリストを通して、ご自身を私たちに啓示してくださっています。
 御子はその無限、永遠、不変の栄光を隠して、ご自身を私たちに示してくださいました。それで、ヨハネの福音書1章18節では、

いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

と言われています。また、14章9節に記されていますように、イエス・キリストは、

 わたしを見た者は、父を見たのです。

と言われたのです。
 御霊は私たちの心を照らしてくださって、この御子イエス・キリストにある父なる神さまの啓示を悟らせてくださいます。
 これらのことから、私たちが神さまを知ることができるのは、そして、神さまを礼拝することができるのは、御子がご自身の無限、永遠、不変の栄光を隠して、無限に身を低くされて。私たちの間にご臨在してくださり、ご自身を示してくださっているからに他なりません。言い換えますと、無限に身を低くして私たちの間にご臨在してくださっている御子イエス・キリストを通して、父なる神さまが私たちにご自身を示してくださっているからに他なりません。
 天地創造の御業において契約の神である主がエデンの園にご臨在されましたが、これも御子が無限、永遠、不変の栄光を隠して、そこにご臨在されたということに他なりません。
 御子は天地創造の御業においてすでに無限に身を低くして神のかたちに造られた人にご自身を示してくださっています。その御子は、神のかたちに造られた人が神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまった後には、さらに「仕える者の姿」を取るまでに身を低くしてご自身を私たちに示してくださっています。今、私たちはこの御子イエス・キリストを通して神さまがどのようなお方であるかを知ることができます。私たちは御子イエス・キリストをとおして、神さまの栄光が恵みとまことに満ちた栄光であることを知ることができるようになりました。
 このように、神のかたちに造られた人が神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまった後には、御子は「仕える者の姿」を取るまでに身を低くされて、私たちにご自身を啓示してくださっています。そうしますと、私たちは最初の女性エバが抱いてしまったであろう神さまに対する誤解以上の思い違いをしてしまう可能性があります。神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを見失って、私たちとあまり違わないかのように感じてしまう危険性があるのです。そのような思い違いをしたままで、神さまを礼拝することは危険なことです。
 もし私たちが御子イエス・キリストにある父なる神さまの無限のへりくだりをわきまえないで、神さまが無限、永遠、不変の栄光の主であられることを見失ったままに、神さまを礼拝しているとしたら、私たちは神さまに帰すべき栄光をお返ししていないことになりますし、神さまにささげるべき讃美と感謝をおささげしていないことになります。そして、悲しむべきことに、それが私たちの現実でもあります。
 それにもかかわらず、父なる神さまは私たちの礼拝を受け入れてくださいます。それは、私たちがイエス・キリストの御名によって父なる神さまを礼拝しているからです。それで、私たちの大祭司であられるイエス・キリストが私たちの礼拝を導いてくださり、ご自身が成し遂げられた贖いのうちに私たちと私たちのささげる礼拝を包んでくださって、父なる神さまの御前に至らせてくださるからです。そうではあっても、私たちの悲しむべき現実が変わるわけではありません。その意味で、私たちは神さまの御前に大きな「負いめ」を負っています。

 私たちの負いめをお赦しください。

という祈りは、今なお自らのうちに罪を宿しているために、御子イエス・キリストにある父なる神さまの無限のへりくだりをわきまえないで、その栄光をないがしろにしてしまう私たちの祈るべき祈りであるのです。

 


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