(第175回)


説教日:2008年12月14日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話を続けます。
 今お話ししているのはこの祈りに出てくる「私たちの負いめ」についてです。先週もお話ししましたように、私たちは自分の「負いめ」を考えるときに自分の狭い視野で、しかも自己中心的に考えてしまいがちです。しかし、「私たちの負いめ」を理解するためには、そもそも神さまが人をどのようなものとしてお造りになったかということを知る必要があります。
 神さまは私たちを愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。私たちには神のかたちとしての栄光と尊厳性が与えられています。そして、神さまがお造りになったこの世界を、神さまのみこころにしたがって治めて、神さまの栄光を現すという、私たちの思いを越えた豊かな意味と価値をもっている使命を委ねられています。先週お話ししましたように、歴史と文化を造る使命を果たすことは、神さまの愛に包んでいただいて、神さまのご臨在の御前に立って、神さまご自身を喜びとし、神さまを礼拝することを中心としています。そして、神さまを礼拝することから始まって、仕事や家庭や学校などにおけるさまざまな活動、学問的な活動や政治的経済的な活動なども含め、ごく日常的な飲むことや食べることに至るまで、そのすべてか神さまが人に備えてくださったさまざまな賜物やこの世界に秘められている可能性などによってなされていることを認め、神さまの愛と恵みを告白しつつ、神さまの栄光を現すのです。
 私たちが神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられているということが、私たちに対する創造者である神さまのもっとも基本的なみこころです。それで、人が何ものであるかを理解するうえでもっとも大切なことです。
 ところが、私たちは、そのように豊かな愛と恵みと祝福による特権を与えられていることを、なかなか自覚することができません。そのために、その歴史と文化を造る使命に十分応えることができていないばかりか、その使命に応ええていないことをなかなか自覚することもできません。私たちは、このような、神のかたちに造られた人にとってもっとも大切なことにおいて、神さまに対して大きな「負いめ」を負っています。


 今日は、先週お話ししたエペソ人への手紙1章20節〜23節に記されていることについてのお話を補足したいと思いますが、その前に、歴史と文化を造る使命に関して、1つのことをお話ししたいと思います。
 それは、福音は、私たちが私たちの主イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、死と滅びの中から救い出されたことにあるのであって、歴史と文化を造る使命とは関係がないのではないかというような疑問、あるいは主張です。
 けれども、そのような主張は福音に対する誤解から出ています。福音のみことばが示している救いには、積極的な面と消極的な面の2つの面があります。これはイエス・キリストの十字架の死に積極的な意味と消極的な意味があることに対応しています。
 イエス・キリストの十字架の死の消極的な意味は、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、私たちの罪に対する刑罰を私たちに代わって受けてくださったということです。それで、私たちの罪に対する、神さまの聖なる御怒りによるさばきは、今から2千年前のイエス・キリストの十字架において終っています。これが「消極的」であるというのは、イエス・キリストが消極的であられたという意味ではなく、これが私たちの負債、主の祈りのことばで言いますと「負いめ」を返すことに当たるからです。
 これに対応する私たちの救いは、私たちがイエス・キリストを信じたときに、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いに基づいて、罪を赦していただき、罪に対するさばきと、それによる死と滅びから救い出していただいたということです。
 これはとても大切なことです。しかし、これが福音が示している救いのすべてではありません。これは、いわば「・・・からの救い」、すなわち、罪と罪の結果である死と滅びからの救いです。福音が示している救いには積極的な面があります。それは「・・・への救い」です。そして、それはイエス・キリストの十字架の死の積極的な意味に対応しています。
 イエス・キリストの十字架の死の積極的な意味は、イエス・キリストが地上の生涯を通して父なる神さまのみこころに従い通されたことの頂点であるということです。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたのです。それによって、イエス・キリストは、その完全な従順に対する報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。
 このようにしてイエス・キリストがお受けになった栄光は、神さまが創造の御業において最初の人アダムをお造りになったときの神のかたちの栄光と同じものではありません。永遠の神の御子イエス・キリストは私たちと同じ人の性質を取って来てくださいました。そのようにしてイエス・キリストがお取りになった人の性質は、神さまが創造の御業においてお造りになったときのアダムと同じ状態にありました。イエス・キリストは罪によって汚染されていない、真の意味で本来の神のかたちの栄光と尊厳性をもつお方として来てくださいました。そのゆえに、私たちの代表者となられ、私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する神さまのさばきをお受けになることができたのです。ご自身に罪があるとすれば、ご自身の罪の清算をしなくてはなりませんので、とても私たちの罪のための贖いをすることはできません。
 その本来の神のかたちの栄光と尊厳性をもつお方であるイエス・キリストが十字架の死に至るまでの従順によって獲得された栄光は、最初に造られたときのアダムが契約の神である主のみこころに全く従っていたなら獲得していたであろう、さらに豊かな神のかたちの栄光です。イエス・キリストはこのような栄光を私たちご自身の民のために獲得してくださいました。
 このことに対応する救いは、私たちイエス・キリストを贖い主として信じている者がイエス・キリストの復活の栄光にあずかって新しく生まれ、イエス・キリストの復活のいのちによって生きる者とされているということです。これを、今お話ししていることとかかわらせて言いますと、私たちは最初に造られたときの神のかたちの栄光にまさる栄光にあずかっている者としていただいており、新しい時代の歴史と文化、終りの日に再臨される栄光のキリストが再創造される新しい天と新しい地につながって行く歴史と文化を造る使命に生きる者としていただいているということです。
 このように私たちを、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストの栄光にあずからせてくださることは、父なる神さまの永遠のみこころ、すなわち永遠の聖定によることです。そのことは、ローマ人への手紙8章28節〜30節に、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と記されていることから分かります。29節では、

神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた

と言われています。「あらかじめ知っておられる人々」とは、神さまが永遠の前から愛して、お選びになっておられる人々のことです。ここでは、神さまがその人々を「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」と言われています。この「あらかじめ定められた」ということは、それが永遠の聖定によることを示しています。「御子のかたちと同じ姿に」ということは、文字通りに訳しますと「ご自身の御子のかたちを分かちもっている」となり、私たちが栄光のキリストのかたちにあずかるという意味合いが示されています。
 そして、続く30節では、神さまがこのことを実現してくださるために、

あらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

と言われています。このうち「あらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め」と言われているときの「義と認め」てくださったことは、すでに完全に私たちの現実となっています。これは法的なことであり、神さまがご臨在される天の法廷の御座において、神さまが私たちのことを「義である」と宣言してくださったということです。この宣言は永遠に有効です。そして、「義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました」と言われていることは、すでにその実現が始まっていますが、その完全な実現としての完成は終りの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされます。私たちはいま、栄光のキリストの復活の栄光にあずかりつつ、その完成の途上にあります。このプロセスを「聖化」と呼びます。そして「聖化」の完成が「栄光化」、すなわち、栄光のキリストの復活の栄光にまったくあずかるようになることです。
 私たちが栄光のキリストの栄光にあずかることがすでに始まっていることは、コリント人への手紙第2・3章18節に記されている、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

というみことばに示されています。ここには、出エジプト記34章に記されているモーセの経験と比較して、私たちが主の栄光にあずかることが記されています。
 ここで「鏡のように主の栄光を反映させながら」と訳されている部分には、新改訳欄外に「主の栄光を鏡に映すように見ながら」という別訳があります。このどちらの訳を採るべきか難しい選択ですが、おそらくこれは「主の栄光を鏡に映すように見ながら」と訳したほうがいいと思われます。というのは、出エジプト記34章に記されているモーセの経験において、モーセの「顔のはだが光を放つ」(30節)ようになったのは、モーセが、通り過ぎた主の栄光の「残光」を見たからです。主の契約の民は、自分たちの間にご臨在される主の栄光を見ることによって、栄光ある者として造り変えられるのです。
 ここで「主と同じかたちに姿を変えられて行きます」と言われているときの「姿を変えられて行きます」と訳されていることばは現在時制で表されていますから、今の私たちにとって現実となっていることを示しています。
 そして、このことが終りの日に完成することは、ヨハネの手紙第1・3章2節に、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と記されています。
 ここでは、私たちが私たちの間にご臨在される主の栄光を見ることと、私たち自身が栄光ある者として造り変えられることの結びつきが明確に示されています。先ほどのコリント人への手紙第2・3章18節では、私たちは今は「主の栄光を鏡に映すように」見ていると言われていました。これはコリント人への手紙第1・13章12節で、

今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。

と言われているように、「ぼんやり映るもの」を見ることです。それに対して、ここヨハネの手紙第1・3章2節では、終りの日に「私たちはキリストのありのままの姿を見る」ようになると言われています。言うまでもなく、この「見る」は未来時制で表されています。その日には、栄光のうちに再臨されるキリストのご臨在の御前に立って、「顔と顔とを合わせ」るように親しく栄光のキリストを見るようになるということです。そのとき、「私たちはキリストに似た者となる」と言われています。

なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

という理由を表すことばは、2つの意味に理解することができます。1つは、「私たちはキリストのありのままの姿を見る」ことによって、「キリストに似た者となる」ということです。もう1つは、「私たちはキリストのありのままの姿を見る」ようになるから、そのためにふさわしい者となるように「キリストに似た者となる」ということ、神さまが私たちを「キリストに似た者」として造り変えてくださるということです。この2つの理解は矛盾するものではありません。おそらく、この2つの理由が1つのことの裏表のように、相互に補い合っているのだと考えられます。
 このように、私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただき、死と滅びの中から救い出されているだけではありません。イエス・キリストの復活にあずかって、その復活のいのちによって新しく生まれ、より豊かな神のかたちとしての栄光ある者として回復されています。そして、終りの日に再臨される栄光のキリストのご臨在の御前に立つのにふさわしい者として、「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」。そして、終りの日には、栄光のキリストに似た者として造り変えられて、栄光のキリストと顔と顔とを合わせるようにして愛にある親しい交わりのうちに生きるようになります。
 このことには、もう1つの面があります。私たちがイエス・キリストの栄光にあずかって栄光ある者としていただいていることを述べているエペソ人への手紙2章4節〜6節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されています。
 今お話ししていることとのかかわりでは、6節で「ともに天の所にすわらせてくださいました」と言われていることが注目に値します。まず、「天の所に」と訳されていることば(エン・トイス・エプウーラニオイス)は、先週お話ししました、1章20節において、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

と記されているときの、「天上において」と訳されていることばと同じことばです。また、「ともに・・・すわらせてくださいました」と訳されていることばは1つのことば(シュングカシゾー)ですが、これは1章20節で「天上においてご自分の右の座に着かせて」と言われているときの「(座に着かせて」と訳されていることば(カシゾー)に「ともに」という接頭辞(シュン)が付いたものです。ですから、2章6節で「ともに天の所にすわらせてくださいました。」と言われていることは、1章20節で、父なる神さまがイエス・キリストを「天上においてご自分の右の座に着かせ」られたと言われていることを受けています。私たちは「天上において」父なる神さまの右の座にお着きになった栄光のキリストとともに座する者となったということです。
 このことを踏まえて、改めて、2章4節〜6節に記されていることを見てみますと、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、

と言われていることは、1章20節で、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、

と言われていることと対応しています。私たちは父なる神さまが「その全能の力を・・・働かせて」死者の中からよみがえらせてくださった栄光のキリストと「ともによみがえらせ」ていただいているのです。そして、父なる神さまが「天上においてご自分の右の座に着か」せられた栄光のキリストとともに「天上において」座する者となったのです。
 これらのことから、2章4節〜6節において、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と記されていることは、1章20節〜23節に、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されていることを受けているということが分かります。
 先週お話ししましたように、1章20節〜23節においては、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリスト、栄光のキリストが歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられるということが示されています。
 「原理的に成就しておられる」ということは、先週お話ししましたように、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座しておられることにかかわっています。それによって、栄光のキリストがご自身の契約の民の「かしら」として、すでに歴史と文化を造る使命を成就しておられるとともに、御霊を注いでくださって、私たちご自身の民が歴史と文化を造る使命を遂行するために必要な条件をすべて整えてくださっているということです。そして、実際に、主の民は御霊によって、新しい時代の歴史と文化、終りの日に栄光のキリストが再臨されて再創造される新しい天と新しい地につながっていく歴史と文化を造る使命を遂行し始めているということです。
 具体的には、20節、21節で、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と言われていることを受けて、22節前半では、

また、神は、いっさいのものを彼の足の下に従わせました。(直訳)

と言われています。これは詩篇8篇5節、6節に記されている、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばの最後にある、

 万物を彼の足の下に置かれました。

というみことばを引用するものです。これによって、栄光のキリストによって歴史と文化を造る使命が原理的に成就していることが示されています。
 これに続いて、22節後半では、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と言われています。これは、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストが「いっさいのものの上に立つかしら」として「教会」に与えられているということを示しています。
 そして、これを受けて、23節では、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われています。ここでは、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストが「いっさいのものの上に立つかしら」として与えられている「教会」は、その栄光の「キリストのからだ」であると言われています。そして、「いっさいのものの上に立つかしら」として「教会」に与えられている栄光のキリストが「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」であられると言われています。これも、栄光のキリストが歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられることを踏まえたことばです。栄光のキリストは「いっさいのもの」を治めておられる方として、「いっさいのもの」をあらゆる点において満たしてくださっています。それによって、この造られた世界に存在する「いっさいのもの」が、それぞれの特性を発揮し、造り主である神さまの栄光を映し出すようになっています。
 このようにして、ここでは、「教会」は歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光の「キリストのからだ」であることが示されています。
 私たちは、御霊によって、この栄光のキリストと1つに結び合わされて、栄光の「キリストのからだ」に属するものとなっています。それで、このことを受けて、2章4節〜6節においては、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われているのです。
 そうしますと、この2章4節〜6節と、1章の終りの23節の、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

というみことばに挟まれている、2章1節〜3節に、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されていることの基本的な意味合いが見えてきます。つまり、これは、神のかたちに造られた人に委ねられている歴史と文化を造る使命とのかかわりで理解されるべきものであるということです。それで、これは、かつて「自分の罪過と罪との中に死んでいた者であった」私たちが、その使命に反する生き方をしていたということを述べているわけです。
 ここには「不従順の子ら」のことが繰り返し(2度目は関係代名詞)出てきます。これも、基本的には、造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たすことにおいて「不従順」によって特徴づけられる人々のことを指しているということになります。
 私たちもかつてはそのような者でした。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

そのようにして、私たちは、御霊によって、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストと1つに結び合わされて、新しい時代の歴史と文化、終りの日に栄光のキリストが再臨されて再創造される新しい天と新しい地につながって行く歴史と文化を造る使命を果たす者として回復していただいています。このすべては、「あわれみ豊かな神」の「私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえ」なされたことです。
 このことを思うにつけ、そのような新しい時代の歴史と文化を造る使命に対して十分に心を注ぐことができなかったことを心痛く告白するほかはありません。そのようにして、私たちは気づかぬうちに「負いめ」を積み上げてきてしまいました。その現実を認めて、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るほかはありません。そして、改めて、すでに、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストを仰いで、私たちに委ねられている新しい時代の歴史と文化を造る使命を心に留めたいと思います。

 


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