(第174回)


説教日:2008年12月7日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話を続けます。これまでこの祈りに出てくる「私たちの負いめ」を考えるうえで大切なこととして、神さまが天地創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったということをお話ししてきました。
 「私たちの負いめ」ということで私たちが考えることは、私たち自身の狭い視野と自己中心的な発想から感じている「負いめ」を考えてしまいがちです。しかし、それでは「私たちの負いめ」を真に理解することはできません。神さまがどんなに豊かな愛をもって、神のかたちの栄光と尊厳性を人に与えてくださったのか、そして、ご自身のお造りになったものを、みこころにしたがって治めることによって、神さまのご栄光を現すという、この上ない意味と価値をもっている使命を委ねてくださったかを、まず知る必要があります。そして、そのような、私たちの思いをはるかに越えた恵みと祝福による特権を与えられている私たちが、なかなかそれを自覚できていないという現実があること、まして、その使命に十分応えることができていないという現実があること、そして、そのゆえに、神さまに対して大きな「負いめ」を負っていることを知る必要があるのです。
 先主日は、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を成就しておられるということについてお話ししました。その時お話ししましたように、また私が知っているかぎりでのことですが、このことを直接的に示している新約聖書の御言葉は、コリント人への手紙第1・15章20節〜28節、エペソ人への手紙1章20節〜23節、そしてヘブル人への手紙2章5節〜10節です。この3個所はともに、詩篇8篇5節、6節に記されている、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

という御言葉の最後にある、

 万物を彼の足の下に置かれました。

という御言葉を引用して、これがイエス・キリストによって成就しているということを示しています。
 聖書にはよく見られることですが、聖書の中で他の御言葉を引用するときに、その代表的な御言葉を引用して全体を代表させることがあります。この場合には、その最後の御言葉を引用して、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

という御言葉を代表させていると考えられます。
 この詩篇8篇5節、6節の御言葉は、契約の神である主が創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことを述べています。それとともに、この詩篇8篇は、この詩篇が記された時にも当てはまることを述べています。それで、人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後も、神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが取り消されていないことを示しています。
 イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を成就しておられることを示している3つの個所のうちヘブル人への手紙2章5節〜10節については、すでに主の祈りの第5の祈りとの関わりでお話ししていましたので、先主日は、コリント人への手紙第1・15章20節〜28節を取り上げてお話ししました。今日は、エペソ人への手紙1章20節〜23節を取り上げてお話ししたいと思います。とはいえ、エペソ人への手紙1章20節〜23節については、すでに主の祈りの第2の祈りである、

 御国が来ますように。

という祈りについてのお話の中で詳しくお話ししています。今日は、それを復習するとともに、いくつかのことを補足したいと思います。


 イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を成就しておられるということは、厳密に言いますと、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を「原理的に」成就しておられるということです。「原理的に成就しておられる」というのは分かりにくい言葉です。このような言い方が一般になされているかはよく分かりませんが、英語で言えば、in principleということで、普通ですと「原則的に」と訳されます。けれども、これが、イエス・キリストが旧約の預言と約束を成就しておられることに当てはめられるときには、「原理的に」というような意味合いであると考えています。
 この場合には、歴史と文化を造る使命を成就して実現するための条件をすべて、イエス・キリストが整えてくださり、実際に歴史と文化を造る使命が私たち主の契約の民の間で実現し始めているということを意味しています。より具体的には、イエス・キリストが私たち主の契約の民の「かしら」として歴史と文化を造る使命を成就しておられるということを意味しています。そして、このことに基づいて、私たち主の民も、栄光のキリストとの一体にあって、歴史と文化を造る使命を遂行しつつあるということです。このことはこれからお話しします、エペソ人への手紙1章20節〜23節に示されています。
 私たちが造る歴史と文化が完全に実現し完成するのは、終りの日にイエス・キリストが再臨されて、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて遂行される再創造の御業によって造り出される新しい天と新しい地においてのことです。先週取り上げましたコリント人への手紙第1・15章20節〜28節に記されていることは、その終りの日における完全な成就を示しています。
 ですから、エペソ人への手紙1章20節〜23節に記されていることは現在の歴史の状況であり、コリント人への手紙第1・15章20節〜28節に記されていることは終りの日における最終的な成就と完成です。
 ただし、終りの日に歴史と文化を造る使命が完全に成就し完成するからといって、歴史と文化を造る使命が廃止されるわけではありません。それは最初の創造の御業によって造られた世界の歴史の完成です。新しい天と新しい地も歴史的な世界であることには変わりがありません。ですから、新しい天と新しい地においても歴史と文化は造られます。
 最初の創造の御業において人は神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられています。このことは、人がどのようなものとして造られているかを決定しています。それで、このことは、人が人であるかぎり変わることはありません。
 新しい天と新しい地は、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、再創造してくださるものですが、それは最初の創造の御業によって造り出されたこの世界が完成するものです。新しい天と新しい地には最初の創造の御業によって造り出された状態にあった世界におけるより、はるかに栄光に満ちた契約の神である主のご臨在があります。それで、新しい天と新しい地のすべてが主のご臨在の場としてふさわしい栄光あるものとして造られます。そして、私たち主の民は、主の栄光のご臨在の御前において主を礼拝することを中心とした新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を委ねられます。ですから、歴史と文化を造る使命は廃止されるのではなく、さらに神さまの栄光を豊かに現す歴史と文化を造る使命として完成するのです。
 話が少しそれますが、マタイの福音書25章14節〜30節には、「タラントのたとえ」として知られているイエス・キリストの教えが記されています。そのたとえの中で、主人が、タラントを任せられて忠実であったしもべに、

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。

と言っています。この主人の言葉は、しばしば、私たちが日常の小さなことにまで忠実であるべきことを教えていると理解されています。日常の小さなことにまで忠実であるべきこと自体は間違っているわけではありませんが、ここでのイエス・キリストの教えの主旨は少し違うと思われます。これは、基本的には、終りの日のさばきにおける主の評価を表しています。そうしますと、

 私はあなたにたくさんの物を任せよう。

という主人の言葉は、終りの日におけるさばきによる清算が済んだ後のことを指しています。ですから、「たくさんの物」とは新しい天と新しい地における任務にかかわることです。それは新しい天と新しい地における歴史と文化を造る使命の遂行に関わることです。そうしますと、

 あなたは、わずかな物に忠実だった

という主人の言葉は、今私たちに委ねられている歴史と文化を造る使命に対する主の評価を表しています。
 そのように、私たちは新しい天と新しい地において主の栄光をさらに豊かに表す歴史と文化を造る使命を委ねられることになります。その時にこそ、

 主人の喜びをともに喜んでくれ。

という主人言葉に示されている、主の喜びが私たちのうちにまっとうされるようになります。
 この世界は愛といつくしみに満ちた神さまがお造りになった世界です。それで、この世界には神さまの愛といつくしみが満ちあふれています。特に、それは神のかたちに造られた人に豊かに注がれています。けれども、罪の下にある人は、その愛といつくしみのしるしに囲まれていながら、そのことを認めることはありません。まして、そのことのゆえに神さまに感謝することはありませんし、神さまを礼拝しその恵みに満ちた栄光を讚えることはありません。しかし、私たち御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかっている者たちは、神さまを礼拝することから始まって、飲むこと食べることに至るまで、すべてのことを神さまの愛といつくしみによることとして理解しています。そして、そのすべてにおいて、神さまご自身を喜びとするものとしていただいています。このようなことに、栄光のキリストにあって、新しい時代の歴史と文化を造ることの本質があります。
 旧約においてすでに終りの日のことを預言しているイザヤ書65章17節〜19節には、

 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。
 先の事は思い出されず、心に上ることもない。
 だから、わたしの創造するものを、
 いついつまでも楽しみ喜べ。
 見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、
 その民を楽しみとする。
 わたしはエルサレムを喜び、
 わたしの民を楽しむ。
 そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。

と記されています。確かに、その日には、主の喜びと私たち主の民の喜びが1つになります。まさに、ウェストミンスター小教理問答問1への答えである、

人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

ということがまったきものとなるのです。
 さて、エペソ人への手紙1章20節〜23節には、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 ここには、父なる神さまがイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださったこととが記されています。当然、御子イエス・キリストが父なる神さまのみこころに従って、私たちご自身の民の贖い主となるために人の性質を取って来てくださり、十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださり、私たちの罪を完全に贖ってくださったということを踏まえています。というのは、父なる神さまがイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださったのは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたからです。父なる神さまは十字架の死に至るまでご自身のみこころに従い通されたイエス・キリストに、その完全な従順に対する報いとして栄光をお与えになり、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださったのです。
 イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって、私たちの罪を完全に贖ってくださったことは、とても大切なことで、御言葉があかししている福音の核心にあることです。今日も、私たちはそのことを聖餐式において確認いたします。けれども、ここでは、あえてそのことには触れないで、父なる神さまがイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださったことに焦点を当てています。
 それには理由があります。この20節〜23節に記されている、父なる神さまがイエス・キリストに対してなしてくださったことが、いろいろな意味で、私たち主の民に深く関わっているからです。今日そのすべてをお話しすることはできませんので、今お話ししている、イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられるということと関わっていることをお話しします。
 20節〜23節の中で、詩篇8篇6節に記されている、

 万物を彼の足の下に置かれました。

という御言葉を引用しているのは22節前半ですが、22節、23節を見てみましょう。そこには、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。
 22節前半では、

 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

と言われています。これによって、創造の御業において神のかたちに造られた人に与えられた歴史と文化を造る使命が栄光のキリストにおいて原理的に成就していることが示されています。
 続く22節後半には、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と記されていて、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストが教会に与えられていると言われています。ここでは、「キリストを」(直訳「彼を」)が最初に置かれて強調されています。これによって、「このキリスト」、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストが「いっさいのものの上に立つかしら」として教会に与えられているということを示しています。この場合、「教会に」も最後に置かれて強調されています。
 そして、続く23節では、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

というように、「教会」が「キリスト」との関係で説明されています。
 最初の、

 教会はキリストのからだであり

ということには、ここでは述べられていませんが、そのもう1つの面として、キリストが教会のかしらであられるということがあります。これによって、かしらであられるキリストと「キリストのからだ」である教会が1つに結び合わされていることが示されています。
 ところで、22節後半では、キリストは「いっさいのものの上に立つかしら」であると言われています。そうであれば、「いっさいのもの」が「キリストのからだ」であると言われてもよさそうな気がします。けれども、ここでは、「教会」が「キリストのからだ」であると言われています。その意味で、キリストが教会のかしらであられることは「かしら」と「からだ」の関係における特別な意味でのかしらです。その関係は、これに続いて、

いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われていることに示されています。
 これをより直訳調に訳しますと、

いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の充満

となります。この言葉は、その前の「キリストのからだ」と同格で並べられています。それを生かして直訳調に訳せば、

教会はキリストのからだ、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の充満です。

となります。
 この「充満」(プレーローマ)をどのように理解するかについては、意見が分かれていますが、これは、受身的に、教会が「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」によって「満たされている」という意味であると考えられます。「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」が教会に満ちておられるということで、新改訳にはこの理解が反映しています。
 「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」とは、「いっさいのものをあらゆる点において満たしておられる方」というような意味です。この世界のすべてのものは、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、最初の創造によって造られたものも、新しい天と新しい地あるようになるすべてのものも、あらゆる点において、栄光のキリストによって満たしていただき、支えていただいて存在しているということです。
 そして、ここでは、そのような「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」が「教会」に満ちていてくださると言われています。これは、一般的な言い方をすれば、栄光のキリストが、御霊によって、ご自身のからだである教会にご臨在してくださっていることを示しています。そして、栄光のキリストはご自身のからだである教会を、贖いの恵みによって聖めてくださり、ご自身の御前に立たせてくださり、はぐくみ育ててくださいます。
 そのことを表すのに、ここでは栄光のキリストのことが「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われています。これには理由があります。それは、この前の22節に記されていることとのつながりを示すためです。その他、さらに前の9節、10節に記されている父なる神さまの「みこころの奥義」の実現に関わっているということにもよっていますが、そのことはおいておきます。
 どういうことかと言いますと、後ろから前へとさかのぼっていきますが、この「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」という言葉は、22節後半で、栄光のキリストが「いっさいのものの上に立つかしら」であられると言われていることにつながっており、さらにその前の22節前半で、

 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ

と言われていることへとつながっています。そして、今度は前から後ろへと進んでいきますが、「いっさいのものを・・・足の下に従わせ」ておられる方は、「いっさいのものの上に立つかしら」として「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」であられるということを示しているのです。
 23節は、「教会」はそのような栄光の「キリストのからだ」であるということを明らかにしています。
 この「教会」が何を指しているかについても意見が分かれています。有名な学者の最近の注解書では、これはヘブル人への手紙12章22節〜24節に記されているような「天にある集会」のことであるという見方が採用されています。しかし、これは5章22節〜31節に記されています夫と妻の関係についての教えに出てくる「キリストと教会」の関係で考えられる「教会」と理解したほうがいいと思います。それは歴史を通して存在し、新しい天と新しい地においてまったきものとされる主の契約の共同体としての教会のことです。22節からのつながりで言えば、キリストにあって歴史と文化を造る使命を遂行しており、さらに新しい天と新しい地において歴史と文化を造る使命を遂行するようになる主の契約の民のことです。
 このように理解することによって、教会のかしらであられる栄光のキリストのことが「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と呼ばれており、それが、22節後半で、栄光のキリストが「いっさいのものの上に立つかしら」であると言われていることにつながっており、さらにその前の22節前半で、

 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ

と言われていることへとつながっているということと調和します。
 このようにして、ここでは、そのように「いっさいのものを・・・足の下に従わせ」ておられ、「いっさいのものの上に立つかしら」として「いっさいのものを」あらゆる面から満たしておられ、支えておられる方が教会に与えられていると言われています。そして、それで、教会はその方によって満たされていると言われています。つまり、「キリストのからだ」である教会は、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストによって満たされており、贖いの恵みによって聖められ、はぐくみ育てられているということです。
 このことは、「キリストのからだ」である教会が栄光のキリストによって原理的に成就している歴史と文化を造る使命の遂行に深く関わっているということを意味しています。キリストのからだである教会は、かしらであられる栄光のキリストによって満たされることによって、新しい時代の歴史と文化、終りの日に再臨される栄光のキリストによって完成し、新しい天と新しい地へとつながっていく歴史と文化を造る使命を委ねられているのです。
 そのように、すでに歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストが、ご自身のからだである教会を満たしてくださって、新しい時代の歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが、マタイの福音書28章18節〜20節に記されています。そこには、

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

と記されています。
 詳しい説明は省きますが、

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。

という栄光のキリストの宣言は、エペソ人への手紙1章20節〜22節において、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ・・・ました。

と言われていることに当たります。また、

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

という約束は、栄光のキリストのご臨在の約束です。それで、これは、エペソ人への手紙1章23節で、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われていることを、栄光のキリストご自身が実現してくださることに当たります。
 この2つの御言葉に挟まれている、

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

という御言葉は、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストが委ねてくださった、新しい時代の歴史と文化を造る使命をどのように遂行するかを示しています。
 これを、人間中心的に理解して、「教会を大きくすることだ」というような理解をして終らないように気をつけたいと思います。この栄光のキリストの御言葉は、主の契約の民が栄光のキリストのからだに加えられて、歴史と文化を造る使命を果たすようになることを実現することを求めるものであるとともに、その実現を栄光のキリストがご自身のご臨在をもって保証してくださっているものです。「あらゆる国の人々を弟子と」するということは、歴史と文化を造る使命を原理的に成就しておられる栄光のキリストの「弟子」とすることです。ここに記されている栄光のキリストの命令において、このことは本質的に大切なことです。
 先ほどお話ししましたように、私たちは、御子イエス・キリストの贖いの恵みによって、神さまを礼拝することから始まって、飲むこと食べることに至るまで、すべてのことを神さまの愛といつくしみによることとして感謝をもって受け止め、そのすべてにおいて、神さまご自身を喜びとする者としていただいています。そのようにして、栄光のキリストのからだとして、新しい時代の歴史と文化を造る使命を遂行する者としていただいています。そうではあっても、私たちはこのような豊かな祝福と特権に満ちた使命に応ええていないことを痛感しないではいられません。そのゆえに、常に、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈り続けつつ、委ねられている新しい時代の歴史と文化を造る使命を心に留めたいと思います。

 


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