(第173回)


説教日:2008年11月30日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 これまで、主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りに出てくる「私たちの負いめ」を考えるうえで大切なこととして、神さまが天地創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったということをお話ししてきました。きょうは、すでにいろいろな機会にお話ししたことですが、イエス・キリストがその歴史と文化を造る使命を成就しておられるということをお話ししたいと思います。
 イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を成就しておられることに直接的に触れている御言葉は、私が知るかぎりですが、コリント人への手紙第1・15章20節〜28節、エペソ人への手紙1章20節〜23節、ヘブル人への手紙2章5節〜10節の3個所あります。そして、そのすべてが、人が神のかたちに造られ歴史と文化を造る使命を委ねられていることに触れている、詩篇8篇5節、6節に、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されている中の、

 万物を彼の足の下に置かれました。

という御言葉を引用して、そのことを示しています。
 これら3つの個所については、主の祈りの第2の祈りである、

 御国が来ますように。

という祈りとの関わりで、1つのお話の中でまとめてお話ししました。そして、ヘブル人への手紙2章5節〜10節に記されていることにつきましては、すでにこの主の祈りの第5の祈りとの関わりでもう少し詳しくお話ししました。それで、きょうはコリント人への手紙第1・15章20節〜28節を取り上げたいと思います。
 そこには、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。

と記されています。
 ここでは、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことと、その意味が明らかにされています。イエス・キリストは、私たちの罪に対するさばきを、私たちに代わって受けてくださるために十字架にかかって死んでくださいました。ここでは、イエス・キリストがそのようにして死なれたということよりは、イエス・キリストが死者の中からよみがえってくださったことの方に注目しています。
 20節では、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

と言われています。この「初穂」という言葉(アパルケー)は、穀物だけでなく動物も含めて、主へのささげ物においてささげられるべき「最初のもの」を表しました。穀物であれば、その年に最初に実った実のことで、それを聖別して主にささげたのです。その意味でこれは「最初のもの」を表しますが、その後に実る実との一体性にあって、その全体を代表しているという意味合いを伝えています。ローマ人への手紙11章16節には、

 初物が聖ければ、粉の全部が聖いのです。

と記されています。この「初物」と訳された言葉は「初穂」と訳された言葉と同じ言葉(アパルケー)です。ここでは「」のことが取り上げられていますので、「初穂」とは訳すことができないわけです。いずれにしましても、「初穂」の性質が「初穂」と一体とされているものの性質を示しており、「初穂」のあり方が「初穂」と一体とされているもののあり方を示しています。
 そのことはこれに続く21節、22節において、

というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

と記されていることにも表されています。ここでは、アダムとキリストが対比されています。また、それとともに、アダムと一体にある人々とキリストと一体にある人々も対比されています。
 このアダムとキリストの対比、さらにアダムにある人々とキリストにある人々の対比は、ここだけのものではありません。20節以下の論述においても、この対比が踏まえられています。少し後の45節〜49節にも、

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。

と記されています。ここでも、アダムとアダムにある人々に対して、キリストとキリストにある人々が対比されています。このように、アダムとキリストが対比されているのは、アダムとキリストが同じような立場にあるからです。そして、

土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。

と言われていますように、アダムの特質とあり方がアダムにある人々の特質とあり方となっているように、キリストの特質とあり方がキリストにある人々の特質とあり方となっているのです。
 そのように、アダムとキリストが対比されていて、キリストが「初穂」であると言われているのであれば、アダムも「初穂」と言われてもよさそうなものです。けれども、聖書の中ではアダムが「初穂」であると言われることはないようです。それは、おそらく、「初穂」が神さまにささげられるべき聖いものであるということに関わっているのではないかと思われます。アダムは最初に神さまに対して罪を犯して御前に堕落し、死の力に捕らえられた人ですから、同じく神さまに罪を犯して死の力に捕らえられている人々の「初穂」という言い方はふさわしくないのでしょう。アダムとキリストが対比されるときに、双方に等しく当てはめられるのは、アダムとキリストがそれぞれに属する人々の「かしら」であるということです。この場合の「かしら」は存在の順序において最初の人という意味とともに、契約の「かしら」という意味があります。


 アダムは神のかたちの栄光と尊厳性をもつものとして造られました。愛を本質的な特性とする神のかたちに造られたものとして、契約の神である主のご臨在の御前において、主との愛にある交わりのうちに生きるものでした。その主のご臨在もご自身の契約に基づくものでしたし、そこにご臨在される主との愛にある交わりも主の契約に基づくものでした。そのように、この契約の神である主のご臨在の御前において、主との愛にある交わりのうちに生きることは、私たちが「創造の契約」と呼んでおり、一般に「わざの契約」と呼ばれる最初の契約の祝福でした。
 いまお話ししていることとの関わりで言いますと、アダムは神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を果たす歩みの中で、神である主を礼拝することを中心として、主との愛にある交わりのうちに生きるものであったのです。アダムは歴史と文化を造る使命を果たす歩みの中で「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」神である主を愛して、主を礼拝することを中心として、そのみこころに従うことによって、主の契約の祝福のうちに留まりました。そして、実際にはそのようになりませんでしたので、それがいつのことであったは分かりませんが、神である主を礼拝することを中心として歴史と文化を造る使命を果たす歩みの中で、神である主を愛し、そのみこころに完全に従い通したなら、そのことへの報いとして栄光あるいのちに入っていたはずです。
 けれども、そのような祝福と望みのうちにあったアダムは、主に対して罪を犯して御前に堕落してしまいました。アダムは最初の契約の違反者となってしまいました。その結果、アダムは死の力に捕らえられてしまいました。
 それは、アダム個人のことで終らないで、アダムと一体にあるすべての人、すなわち全人類のあり方を決定しています。先ほど引用しましたコリント人への手紙第1・15章22節において、「アダムにあってすべての人が死んでいる」と言われているとおりです。すべての人はアダムにあって、アダムとの一体において罪を犯し、死の力に捕らえられてしまっています。ローマ人への手紙5章12節ではこのことが、

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―― それというのも全人類が罪を犯したからです。

と言われています。これが、今日に至るまでの、造り主にして契約の主であられる神さまとの関係における人類の現実です。そのことの中心には、アダムとアダムにある人類が、神である主を愛することも、主を礼拝することを中心として歴史と文化を果たすこともなくなってしまったということがあります。アダムにあって神である主の御前に堕落してしまった人類は、その歴史と文化を通して自らの罪を表現しています。その一端が、ローマ人への手紙1章21節〜25節に、

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

と記されています。
 これに対して、永遠の神の御子イエス・キリストは、父なる神さまのみこころに従って、私たちと同じ人の性質を取って来てくださいました。きょうから2008年の待降節(アドヴェント)に入りますが、イエス・キリストはアダムにある者としてお生まれになったのではなく、聖霊のお働きによって処女マリヤの胎に宿るという形でお生まれになりました。これによって、神さまが創造の御業において神のかたちにお造りになった人の本来の性質をもつ方としてお生まれになったのです。そのイエス・キリストは、最初の契約である創造の契約の下にある方、アダムと同じ立場にある方となられました。
 このようにして、イエス・キリストは私たちの契約のかしらとなってくださいました。そのゆえに、先ほど引用しましたコリント人への手紙第1・15章45節ではイエス・キリストは「最後のアダム」と呼ばれています。「最後のアダム」として来てくださったイエス・キリストは、地上の生涯を通して父なる神さまのみこころに従い通されました。しかも、その父なる神さまのみこころは、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰を、私たちに代わって受けることによって、私たちの罪を贖い、私たちを死の力から解放し、滅びの道から救い出すというものでした。それで、イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従われたのです。その結果、イエス・キリストはその完全な従順に対する報いとして、最初の契約、創造の契約の祝福である栄光を受け、死者の中からよみがえられました。
 アダムが神さまに対して罪を犯して御前に堕落し、死の力に捕らえられてしまったことが、アダム一人のことで終らなかったように、イエス・キリストが十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されて、栄光を受けてよみがえられたことは、イエス・キリストお一人のことで終りませんでした。先ほどのコリント人への手紙第1・15章21節、22節に、

というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。

と記されているとおりです。
 22節で、

アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされる

と言われているときの「キリストによって」という言葉(エン・トー・クリストー)は、その前の「アダムにあって」という言葉(エン・トー・アダム)と同じ前置詞で表されています。それで、この「キリストによって」は「キリストにあって」と訳した方がいいと思われます。この方がアダムとキリストの対比がより明確なものとなります。
 とはいえ、この対比には違いもいくつかあります。
 第1に、前半の、

 アダムにあってすべての人が死んでいるように

は現在時制で表されていて、「アダムにあってすべての人が死んでいる」ことが、「アダムにあって」全人類が罪を犯して御前に堕落して以来のことですが、常にある事実であることを示しています。
 これに対して、後半の、

 キリストによってすべての人が生かされる

は未来時制で表されていて、終りの日の死者の中からのよみがえりに視点を合わせています。続く23節に、

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

と記されているとおりです。
 第2に、「すべての人」がアダムにあるのは、神さまが創造の御業において、人類をご自身の契約のうちにあるものとしてお造りになり、最初の人アダムをその「かしら」としてお立てになったからです。その意味では、「すべての人」はアダムと一体にある者として造られています。それで、人はアダムとの一体にある者として生まれてきます。また、それで、生まれながらの人はアダムにあって罪を犯し、その罪責を負った者、また、罪の性質を宿し、本性が腐敗した者として生まれてきます。このことには、人の意志による選択の余地がありません。
 これに対して、キリストにある「すべての人」は、アダムとの一体にあって罪を犯した者として生まれてくるのですが、福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを贖い主として信じ、イエス・キリストを主として受け入れることによって、キリストにある者となります。ここには、その人の意志が働いています。とはいえ、その人の意志は神さまの恵みによって生かされています。ヨハネの福音書6章37節に、

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

と記されており、44節に、

わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

と記されていますように、私たちがイエス・キリストを信じることができたのは神さまの一方的な愛と恵みによることです。その神さまの愛と恵みによって、私たちはイエス・キリストと1つに結ばれて新しく生まれ、福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを信じるようにしていただいているのです。
 第3に、このようなわけで、「アダムにあってすべての人が死んでいる」と言われているときの「すべての人」は、全人類のことです。これに対して「キリストにあってすべての人が生かされる」と言われているときの「すべての人」は、福音の御言葉にあかしされているイエス・キリストを信じた「すべての人」です。
 20節においては、

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

と記されていました。ここで「眠った者」(複数)と言われているのは、自らの罪の結果、死んでしまったすべての人ではなく、その前の19節で「キリストにあって眠った者たち」と言われている、キリストにある人々です。実際、聖書の中では、生まれながらの人は肉体的に生きていても、神さまとの関係において、すなわち霊的には死んでいる状態にあると言われています。その一方で、キリストにある人々が肉体的に死んだ場合には、その人々は「眠っている」と言われています。
 このように、コリント人への手紙第1・15章20節〜28節に記されていることにおいては、私たち主の契約の民と、契約の主であるイエス・キリストとの一体性が根本的に大切なことです。このイエス・キリストと私たち主の民の契約は一般に「恵みの契約」と呼ばれる契約です。私たちは「救済の契約」と呼んでいます。先ほど触れました23節には、

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

と記されていました。そして、これに続く24節〜27節前半には、

それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。

と記されています。
 27節前半には、

 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。

と記されています。ここでパウロは最初に触れました詩篇8篇6節に記されている御言葉に基づいて、

 最後の敵である死も滅ぼされます。

と論じています。21節では「死がひとりの人を通して来た」と言われています(「来た」は原文にない補足)。しかし、イエス・キリストが十字架にかかってご自身の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえって、天に上り父なる神さまの右の座に着座されたことによって、

 彼は万物をその足の下に従わせた。

という御言葉が成就しました。ここでは、その経緯は記されていませんが、それを踏まえています。そして、栄光のキリストが「その足の下に従わせた」「万物」には「最後の敵である死も」含まれていることが示されています。
 死は人から独立して存在する実体ではありません。人が死ぬのであって、人と無関係に死があるわけではありません。それで、死が滅ぼされるというのは、何か「もの」がなくなるように、死がなくなることではありません。栄光のキリストが死を滅ぼされるということは、ご自身の民を死の力から解き放ってくださり、もはや死ぬことがないものとしてくださることを意味しています。さらに、より積極的には、神である主のご臨在の御許において、主との愛にある交わりのうちに生きるようにしてくださるということを意味しています。
 栄光のキリストが死を滅ぼされたということは、その十字架の死によって、死の原因である罪を贖ってくださったことと、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったことに基づいています。そして、45節において、

 最後のアダムは、生かす御霊となりました。

と記されていますように、栄光のキリストが私たちご自身の民をすべて栄光あるものによみがえらせてくださることによっています。そして、黙示録21章3節、4節に、

見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。

と記されている状態、人が神さまのご臨在の御前にあって、神さまとの愛の交わりのうちに生きることを実現してくださることによっています。
 いまお話ししていることとの関わりで大切なことは、このことが、

 彼は万物をその足の下に従わせた。

という御言葉の成就として実現するということです。つまり、このことも、栄光のキリストが歴史と文化を造る使命を完全に成就してくださることの一環として実現するということです。栄光のキリストは終りの日に再臨されて、新しい天と新しい地を創造されるとともに、私たちご自身の民を栄光あるいのちによみがえらせてくださいます。そのとき、私たちはより豊かな栄光において神である主のご臨在の御前に近づき、主を礼拝することを中心として、新しい天と新しい地の歴史と文化を造ることへと召されます。そのようにして造られる歴史と文化には決して罪と死が影を落とすことはありません。
 このように、コリント人への手紙第1・15章20節〜28節においては、栄光のキリストが歴史と文化を造る使命を完全に成就し、完成してくださることを示しています。
 けれども、いま私たちがこの世にあって主を礼拝することを中心として造る歴史と文化には、私たちの罪と死が影を落としています。私たちが歴史と文化を造る使命を果たすことに、私たちのうちになおも宿っている罪が現れてきてしまいます。私たちは神さまから歴史と文化を造る使命を委ねられていることを常に自覚しているわけではありません。また、神さまのみこころを中心として物事を理解しているわけでもありません。それどころが、しばしば、愛において冷たく、自分の思いをとおしてしまいます。
 そのような現実に悲しみ、心を痛めるとき、私たちの主イエス・キリストが、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るようにと招いてくださっていることは深い慰めでもあります。私たちはこのように祈りつつ、コリント人への手紙第1・15章20節〜28節に記されていますように、栄光のキリストによって歴史と文化を造る使命が完全な形で成就するようになることに思いを向けたいと思います。そして、その時には、私たちが新しい天と新しい地の歴史と文化を造るようになることを待ち望みたいと思います。

 


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