(第172回)


説教日:2008年11月23日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 先主日には秋の伝道集会をいたしました。そのために主の祈りについてのお話はお休みしました。きょうは、主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話に戻ります。
 前回は、この、

 私たちの負いめをお赦しください。

という祈りは、同じ主の祈りの最初の3つの祈りである、

 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りを祈っていることを前提としている、ということをお話ししました。もちろん、この祈りだけでなく、この前の、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

という祈りも、最初の3つの祈りを祈っていることを前提としての祈りです。
 最初の3つの祈りは、基本的には、神さまが、御名があがめられること、御国が来ること、みこころが天で行われるように地でも行われることを実現してくださることを信じて祈るものです。そのように、これらのことを実現してくださるのは神さまですが、神さまはそのために、私たちを用いてくださるという面があります。何よりも、神さまは私たちの祈りにお応えになる形で、御名があがめられること、御国が来ること、みこころが天で行われるように地でも行われることを実現してくださいます。また、それらのことをどこよりもまず私たちの間に実現してくださいます。
 けれども、私たちは、常に、主の祈りで祈っていることに沿って歩んでいるわけではありません。確かに、御名があがめられること、御国が来ること、みこころが天で行われるように地でも行われることは、私たちの心からの願いです。けれども、私たちの現実はそれに符合していないのです。ローマ人への手紙7章18節、19節には、

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

というパウロの告白が記されています。このことは、私たち主の民にとって最も大切な、御名があがめられること、御国が来ること、みこころが天で行われるように地でも行われることを願いとすることにこそ当てはまります。そのことを心から願っているのに、それに反するようなことをしてしまう私たちの現実があります。この点において、私たちは「負いめ」を負っています。


 すでに繰り返しお話ししていますように、神さまの御名があがめられること、御国が来ること、みこころが天で行われるように地でも行われることは、神さまが創造の御業において人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことと深くかかわっています。そして、人が神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられているということには、創造の御業から始まって、人の罪による堕落、御子イエス・キリストによる贖いの御業による回復、そして終りの日における完成に至るまでの歴史的な広がりがあります。それで、人が神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられているということの意味は、その歴史的な広がりの中で理解しなければなりません。
 きょうは、このことに注目してお話ししたいと思います。
 神さまは創造の御業において、人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになりました。神のかたちの栄光と尊厳性をもつものとして送りになったのです。そして、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命をお委ねになりました。神のかたちに造られた人が歴史と文化を造ることの中心には、人が神さまのご臨在の御前にあって、神さまを造り主として礼拝し、神さまとの愛にある交わりに生きることがあります。そのことにおいてこそ、神のかたちの栄光と尊厳性が現されます。そのように、神さまとの愛の交わりに生きることが、神のかたちに造られた人のいのちの本質です。
 そして、この神さまとの愛の交わりの延長線上に、同じく愛を本質的な特性とする神のかたちにつくられている者同士が、神さまの愛に包まれて互いに愛し合うことがあります。
 さらに、その延長線上に、自分たちに委ねられた地や生き物たちに対して心を注ぎ、地に秘められているさまざまな可能性を引き出し、愛をもって生き物たちのいのちが育まれる環境を造り出すことがあります。
 ここでは、愛の表現が同心円的に広がっています。その同心円的な広がりの中心にあるのは、神さまが創造の御業において人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命をお委ねになったことです。同心円的な広がりと言いますと、池に石を投げ込むと波紋が広がっていくことを思い起こします。その池に石を投げ込むことに当たるのが、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命をお委ねになったことです。このことから、神さまを礼拝することを中心とする神さまとの愛の交わりが始まっています。そして、そこから、同じく神のかたちに造られている者同士の愛の交わりが生み出されています。そして、それは、歴史と文化を造る使命において委ねられ、結び合わされた地や生き物たちへの愛へと広がっています。このことは、後ほどお話しすることにもかかわっています。
 神のかたちに造られた人は、このような歴史と文化を造る使命を中心として、神さまのみこころに従い通すことによって、その報いとして、より豊かな栄光を受けることを約束されていました。人はそのより豊かな栄光を受けることによって、神さまのご臨在の御前にさらに近づき、より深く豊かな愛の交わりのうちに生きるものとされるのです。このことを神さまの栄光のご臨在から見ますと、神さまのより豊かな栄光のご臨在がこの世界にあるようになり、人はその栄光のご臨在の御許に近づくようになるということです。これが、「創造の契約」(「わざの契約」)と呼ばれる神さまの最初の契約の祝福でした。
 この祝福は神のかたちに造られた人だけにかかわるものではありません。この点はあまり注目されることがありませんが、この祝福は歴史と文化を造る使命において神のかたちに造られた人に委ねられ、人との一体にあるものとされた被造物にもかかわるものです。神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命において完全に神さまのみこころに従っていたなら、この世界がより豊かな栄光に満ちた神さまがご臨在される世界にふさわしく整えられていたはずです。そして、神さまのより豊かな栄光に満ちたご臨在の御許から溢れ出る祝福にあずかって、神さまの栄光をより豊かに映し出す世界となっていたはずです。話が飛びますが、終りの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身の成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地がこれに当たります。
 このようにして、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命において完全に神さまのみこころに従っていたなら、神さまのより豊かな栄光のご臨在の場としてこの世界が整えられ、神のかたちに造られた人がそのご臨在の御許で礼拝し、神さまの栄光が充満な形で現されるようになります。これによって、歴史と文化を造る使命はまったき形において実現するようになったはずです。
 けれども、実際には、神のかたちに造られた人は、暗やみの主権者であるサタンにそそのかされ、造り主である神さまに対して罪を犯して、その神のかたちとしての栄光を腐敗させてしまいました。その結果、人は造り主である神さまに対する罪へのさばきを受けて滅ぶべきものとなってしまいました。そして、自らのうちに罪を宿し、そのゆえに罪を犯してしまうものとして、神さまの聖なる御怒りの下に置かれています。そのようにして、神さまのご臨在の御許から退けられ、神さまとの愛の交わりは失われ、死の力に捕らえられて、滅びに至る道を歩むものとなってしまいました。
 これは、ただに、人が悲惨な状態になってしまったというだけのことではありません。歴史と文化を造る使命において人と一体にあるものとされたこの世界全体が虚無に服することになってしまいました。
 これには、これらのことより重大な問題があります。この世界をご自身がご臨在される世界としてお造りになり、神のかたちに造られた人をご自身のご臨在の御前に立たせてくださり、ご自身を礼拝することを中心とした歴史と文化を造る使命を委ねてくださった神さまのみこころが、暗やみの主権者であるサタンの働きによって阻止されてしまったという問題です。造り主である神さまのみこころが、被造物であるサタンの働きによって阻止されてしまうことがありえるのかという問題です。これは、神さまの創造の御業の目的にかかわる問題であり、神さまの栄光にかかわる問題です。
 これに対して、神さまは人類がご自身に罪を犯して御前に堕落してしまった直後に、贖い主を約束してくださいました。そして、今から2千年前に、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。御子イエス・キリストは私たちと同じ人の性質を取って来てくださって、私たちの契約のかしらとなってくださいました。そして、十字架におかかりになり、私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わって受けてくださいました。これによって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そればかりでなく、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことに対する報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえってくださいました。これによって、私たちをご自身の復活のいのちによって新しく生まれさせ、ご自身の復活のいのちによって生きるものとしてくださいました。
 これらすべてのことは、イエス・キリストが、私たちの契約のかしらとして、私たちとの一体において成し遂げてくださったことです。イエス・キリストは十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されて、あの、創造の契約(わざの契約)と呼ばれる最初の契約をまっとうし、その祝福を獲得してくださいました。それによって、栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられたのです。私たちは救済の契約(恵みの契約)と呼ばれる、イエス・キリストがご自身の血によって立ててくださった契約によって、イエス・キリストと1つに結び合わされています。そして、イエス・キリストと1つに結び合わされているものとして、イエス・キリストとともに死に、イエス・キリストとともによみがえっています。
 イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、イエス・キリストを信じている私たちにとって意味をもっているだけではありません。コロサイ人への手紙1章19節、20節には、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、歴史と文化を造る使命によって神のかたちに造られた人との一体に置かれて、人の罪による堕落のために虚無に服してしまっていた被造物をも、造り主である神さまとの本来の関係にあるものとして回復してくださるものであるのです。
 これには、先ほどお話ししたのと同じような同心円的な広がりがあります。
 その中心は、今から2千年前の出来事です。永遠の神の御子イエス・キリストが人の性質を取って来てくださり、ご自身の契約の民のために十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったことです。先ほどの、池に石を投げ込むことにたとえれば、これが石を投げ込んだことに当たります。
 その外側には、御霊によってイエス・キリストと1つに結ばれている私たちがあります。私たちは福音の御言葉によってあかしされているイエス・キリストを信じて、イエス・キリストの契約の民となり、その十字架の死にあずかって罪を贖われ、栄光のキリストの復活のいのちによって新しく生まれ、神の子どもとされ、神さまとの愛にある交わりのうちに生きるものとされています。そして、そのようにして神の子どもとしていただいた私たちは、同じく神の子どもとされている者同士の愛の交わりのうちに生きています。
 さらにその外側には、歴史と文化を造る使命において神のかたちに造られた人との一体に置かれている被造物があります。先ほど引用しましたコロサイ人への手紙1章19節、20節にありましたように、被造物もイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業の恩恵にあずかります。
 しかし、被造物が、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業の恩恵にあずかることは、あくまでも、イエス・キリストの契約の民として、イエス・キリストと1つに結ばれている神の子どもたちとの一体においてのことです。ローマ人への手紙8章19節〜21節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されているとおりです。
 言うまでもなく、このことは最終的には、終りの日に再臨される栄光のキリストが、その最後のさばきをもってすべての罪を清算され、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、新しい天と新しい地を創造されることによって完全な形で実現します。しかし、原理的には、このことはすでに歴史の現実となっています。というのは、すでに、今から2千年前に御子イエス・キリストが、十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げてくださったからです。イエス・キリストの十字架において私たちに罪に対する最後のさばきは執行されており、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにおいて、終りの日のよみがえりが歴史の中で起こっています。
 そして、その贖いの御業の結果は、先ほどの同心円的な広がりにおいて全被造物に及んでいるのです。先ほど引用しましたローマ人への手紙8章19節〜21節に続く22節に、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われているとおりです。この「産みの苦しみ」のたとえにおいて産み出そうとしているものは、新しい天と新しい地における贖いの完成された状態です。栄光のキリストによる再創造のお働きによって。新しい天と新しい地が造り出されることです。「産みの苦しみ」のたとえで言いますと、胎児が宿ることがなければ、「産みの苦しみ」はありません。ですから、すでに新しいいのちは始まっており、育まれているのです。それが、いまの歴史的な状況です。
 このこととのかかわりで注意すべきことがいくつかあります。
 第1に、先ほど触れたことですが、このように、被造物が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる」のは、神の子どもたちとの一体においてであるということです。このことは、神さまが創造の御業において、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことによって、被造物が神のかたちに造られた人との一体にあるものとされたことを反映しています。
 この一体性のゆえに、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、被造物が虚無に服し、「滅びの束縛」のうちにあるものとなってしまいました。それと同じ論理で、被造物が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる」ことも、「神の子どもたち」との一体性によっています。ですから、被造物が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる」ことは、歴史と文化を造る使命の実現と完成を意味しているのです。
 第2に、そうであるとしますと、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われていることも、歴史と文化を造る使命の遂行と深くかかわっているということになります。言うまでもなく、それは、神のかたちに造られたのに、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまっている人類が歴史と文化を造っていることとかかわっているということではありません。確かに、罪を犯して堕落してしまっている人類は歴史と文化を造ってきましたし、今も造っています。けれども、その歴史と文化は造り主である神さまを礼拝することを中心としていませんし、神さまの栄光を現すことを目的としてはいません。それは、終りの日に再臨される栄光のキリストによってさばかれ、過ぎ去ってしまう歴史と文化です。決して、新しい天と新しい地につながり、新しい天と新しい地において完成するようになる歴史と文化ではありません。

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われていることに関わっているのは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって神の子どもとされている私たち主の民が、歴史と文化を造る使命を遂行していることにかかわっています。
 第3に、このことを先ほどの同心円的な広がりに当てはめてみますと、このすべてのことの中心にあり、出発点となっているのは、御子イエス・キリストの贖いの御業です。その贖いの御業は、被造物を本来の姿に回復してくださるための御業でもあります。繰り返しになりますが、ことの順序としては、御子イエス・キリストの贖いの御業によって、主の契約の民が罪と死の力から贖い出され、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれて神の子どもとされることが先にあります。そして、神の子どもたちが、イエス・キリストの贖いの御業に基づく恵みによって生かされて、神さまの栄光を現すことを目的として歴史と文化を造る使命を果たすようになります。そして、最終的には、終りの日に再臨される栄光のキリストのお働きによって、神の子どもたちが造り出す歴史と文化が完成する形で、被造物が「滅びの束縛から解放される」ようになるという順序になっています。
 このように見ますと、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業は、私たちの間に歴史と文化を造る使命を回復するためになされた御業でもあることが分かります。さらに言いますと、真の人となって来てくださったイエス・キリストは、その贖いの御業によって、歴史と文化を造る使命を回復し、原理的に、成就しておられるのです。イエス・キリストが歴史と文化を造る使命を成就しておられることにつきましては、すでに、エペソ人への手紙1章やヘブル人への手紙2章に記されていることに基づいてお話ししました。
 ですから、イエス・キリストの贖いの御業によって、私たち主の契約の民が罪と死の力から贖い出されただけではありません。罪と死の力から贖い出され、神さまとの愛にある交わりのうちに回復された神の子どもたちが、神さまを礼拝することを中心として、歴史と文化を造る使命を果たすようになったのです。そして、そのことによって、被造物の回復が実現するようになるのです。
 私たちは自分たちの救いを考えるときに、自分たちが死と滅びの中から救い出されたということで終ってしまいがちです。このように言いますと、いや自分たちが救われたことで終らないで、他の人々が救われるように伝道するのだという返答がなされることでしょう。けれども、そのようにして救われた人々も「自分たち」です。
 救いをこのように理解するかぎり、神さまが創造の御業において人をご自身のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことに現されたみこころを無視してしまうことになってしまいます。そうであれば、先ほどより重大な問題であると言いましたが、暗やみの主権者であるサタンの働きによって、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまい、歴史と文化を造る使命が神さまのみこころに従って果たされなくなってしまったという問題は無視されてしまうことになります。そればかりではありません。十字架につけられてご自身の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってご自身の民を新しく生まれさせてくださった御子イエス・キリストによって、歴史と文化を造る使命が原理的に成就していると、御言葉が教えていることを無視してしまうことになります。
 福音が示している救いは、「自分たち」中心、すなわち、人間中心のものの見方や考え方や生き方から、神中心のものの見方や考え方や生き方への救いでもあります。
 神さまが御子イエス・キリストを私たちの贖い主として立ててくださったこと、そして、その十字架の死によって私たちの罪を贖ってくださり、私たちを罪と死の力から救い出してくださったことは、神さまの一方的な愛と恵みによっています。私たちはこの救いを、信仰により、深い感謝をもって受け取るほかはありません。
 そうではあっても、神さまの救いはこれで終っていないのです。神さまは、やはり、その一方的な愛と恵みによって、私たちをイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、イエス・キリストの復活のいのちによって生きるものとしてくださっています。そして、神の子どもとしての身分を与えてくださり、ご自身との愛にある交わりに生きるもの、またお互いの愛の交わりに生きるものとしてくださっています。さらに、そのようにして神の子どもとされている私たちとの一体において、被造物が「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられる」ようにしてくださっています。もちろん、私たちが被造物を「滅びの束縛から解放」するのではありません。神さまが被造物を私たち神の子どもたちとの一体において「滅びの束縛から解放」してくださるのです。
 これによって、神さまが神さまが創造の御業において人をご自身のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことが、暗やみの主権者であるサタンの働きにもかかわらず、完全な形で成就します。そして、これらすべてにおいて神さまの恵みとまことに満ちた栄光が現されるようになります。
 神さまは私たちを、このような神の子どもとしての使命と希望にに生きるものとなるようにと、御子イエス・キリストの贖いの御業にあずからせてくださり、罪と死の力の下から救い出してくださいました。神さまは、さらにそのような意味で救われる人々を加えてくださいます。それで私たちは伝道をし、あかしをするのです。そのためには、私たち自身が神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりに生きるとともに、神の子どもたち同士が互いに愛し合う愛の交わりに生きる必要があります。それこそが、歴史と文化を造る使命を果たすことの中心にあることです。
 私たちは、このような使命と希望に生きるものとして、主の祈りによって、

 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈っています。そして、そこになお私たち自身の罪による欠けがあることを覚えて、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈っています。

 


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