(第171回)


説教日:2008年11月9日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、この祈りで取り扱われている「負いめ」について考えるために、神さまが創造の御業において、人を愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったということについてお話ししてきました。
 神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことにつきましては、この主の祈りの第5の祈りについてのお話に先立って、最初の3つの祈り、特に、第2と第3の祈りについてのお話の中で詳しくお話ししました。それを、この第5の祈りにおいても取り上げていることには理由があります。このことにつきましては、すでに、ある程度お話ししていますが、ここで改めてお話ししておきたいと思います。
 1つは現実的なことですが、前にお話した時から少し時が経っているので、復習しておいたほうがいいと考えたからです。そして、そのように繰り返しお話ししているのは、このことが大切なことであるからです。
 神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことは、神さまが創造の御業においてなしてくださったことです。人がどのようなものとして造られているかということは、人の本質にかかわることです。それで、このことは、神さまのみこころを中心として、私たちの存在の意味を考えるうえで決定的に大切なことです。
 実際、水曜日の祈祷会や木曜集会における聖書の学びにおいて聖書の御言葉を学んでいますが、その学びを通しても、歴史と文化を造る使命にかかわる教えが聖書のあちこちに出てくることに気づかせられています。
 ところが、このこと、特に、歴史と文化を造る使命については、今日の福音派の教会においては、ほとんど注目されることがありません。日本や世界の福音派の伝道会議などでは大切な課題として取り上げられることがありますが、それぞれの教会においては、その大切さが認識されているとは言えません。私たちは、造り主である神さまのみこころを中心として見たときに、人が神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられていることがとても大切なことである、ということを忘れないようにしたいと思います。
 もう1つのことですが、

 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という主の祈りの最初の3つの祈りを理解するうえで、神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったことは、決定的に大切なことです。御名があがめられること、御国が来ること、みこころが地で行われることは、人が神のかたちに造られていることと、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命が委ねられていることを離れては考えられないことです。
 このように、

 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りには、人が神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられているということに関わる広がりがあります。神さまの創造の御業から始まって終りの日に至るまでの歴史全体を包み込むような広がりがあるのです。これには、神さまが創造の御業において示されたみこころが、人の罪による堕落にもかかわらず、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業を通して回復され、終りの日に完成するという、御言葉に示されている大きな枠組みがあります。私たちはこの大きな枠組みを、御言葉の約束に基づいて信じて祈っています。それが、

 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りとなっています。
 ところが、私たちは自分のうちに宿してる罪の自己中心性のために、自分のことばかりに気が取られてしまうことがしばしばです。そのために、御名があがめられること、御国が来ること、みこころが地で行われることをも、人間中心に、しばしば自己中心的に理解していまいます。たとえば、自分の願いが実現したときには、神さまを讃美します。それで、御名があがめられていると感じます。それは間違っていませんし、大切なことです。けれども、神さまが創造の御業において、人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださっていることに対しては、ほとんど関心を寄せないことが多いのです。御名があがめられること、御国が来ること、みこころが地で行われることを、創造の御業において示された神さまのみこころを中心として理解することも、祈り求めることもないという現実があります。
 このような現実が、私たちの「負いめ」を生み出しています。自らの罪の自己中心性のために、神さまが創造の御業において示されたみこころに無関心になってしまっている私たちの「負いめ」には、このような広がりと重さがあります。私たちは、このことをしっかりと心に留めて、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈りたいと思います。
 そして、そのような理解をもって、真実に、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るのであれば、私たちは、神さまが創造の御業において示されたみこころに無関心であり続けることはできません。それで、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことについて、しっかりと理解し、その上で、

 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈り続ける必要があると考えています。


 そのようなわけで、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことについては、繰り返しをいとわずお話ししてまいりました。そして、これまで、人が神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられていることは、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも変わっていないということをお話ししました。さらに、世の終わりに再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地においても、歴史と文化を造る使命は継承されるようになるということをお話ししました。
 このことは、今この時代に生きている私たちにも、歴史と文化を造る使命が委ねられているということを意味しています。そして、このことにはいくつかのことがかかわっています。
 まず、最も基本的なこととして理解しておきたいことは、私たちは御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりを通して成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっている者として、歴史と文化を造る使命を委ねられているということです。
 人類はアダムにあって神である主に対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。そうではあっても、人が神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられていることには変わりがありません。神のかたちに造られた人には歴史と文化を造る能力と指向性が与えられています。それで人は、いわば必然的に、歴史と文化を造ります。けれども、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人が造り出す歴史と文化は、造り主である神さまを神としてあがめて礼拝することを中心とした歴史と文化ではありません。罪によって堕落してしまっている人間の現実について、詩篇14篇1節には、

 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。

と記されています。また、ローマ人への手紙21節、22節には、

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されています。
 私たちもかつてはそのような罪の下にあるものでした。そのことが、エペソ人への手紙2章1節〜3節には、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。そのような「自分の罪過と罪との中に死んで」いる状態にある人間が造り出す歴史と文化は、神さまの聖なる御怒りによってさばかれ、清算され、過ぎ去ってしまうものです。
 しかし、エペソ人への手紙2章では、続く4節〜10節に、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

と記されています。
 ここでは、父なる神さまが私たちをイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いにあずからせてくださったことが記されています。そして、それが、父なる神さまの一方的な愛に基づく恵みによっているということが強調されています。
 6節では、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われています。この場合、私たちが誰とともによみがえり、ともに天の所に座するようになったのか分かりにくい気がします。

 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ

と言われているために、これは「私たちお互いがともに」というような感じがしないでもありません。しかし、この場合の「ともによみがえる」ということも「ともにすわる」ということも、その前の5節で、

 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし

と言われているときの「ともに生かす」という言葉と同じように、「ともに」という意味の接頭辞(スン)がついている言葉で表されています。それで、この「ともによみがえる」ということも「ともにすわる」ということも「キリストとともに」ということであると考えられます。
 ですから、ここで、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われていることは、私たちがイエス・キリストと1つに結ばれていることに基づいています。そして、イエス・キリストのあり方が私たちのあり方を決定しているのです。
 そうしますと、そのイエス・キリストのあり方が問題となります。それについては、1章20節、21節において、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されています。
 父なる神さまは、今から2千年前に、御子イエス・キリストを私たちの贖い主としてお遣わしになりました。イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従われて、十字架にかかって私たちの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを、私たちに代わってすべてお受けになりました。それによって、私たちの罪の贖いは成し遂げられました。父なる神さまは十字架の死に至るまでご自身に従われた御子イエス・キリストに、その従順に対する報いとして、栄光をお与えになりました。そして、イエス・キリストを「死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせ」られました。
 私たちは福音の御言葉に基づいて、父なる神さまがお遣わしになった御子イエス・キリストを信じたとき、御霊によって、イエス・キリストと1つに結ばれています。論理的順序としては、父なる神さまが御霊によって私たちをイエス・キリストと1つに結んでくださったので、私たちは新しく生まれ、イエス・キリストを信じることができるようになったのですが、時間的には、同時に起こったと考えることができます。このようにして、私たちは栄光をお受けになって死者の中からよみがえり、天上において父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリスト、すなわち栄光のキリストと、御霊によって1つに結び合わされています。それで、私たちはイエス・キリストとともに死者の中からよみがえり、ともに天の所に座らせていただいているのです。
 1章20節で、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、

と言われているときの「天上において」と、2章6節で、

キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

と言われているときの「天の所に」は、同じ言葉(エン・トイス・エプウーラニオイス)で表されています。それで、場所的には同じ所を表しています。
 もちろん、これは私たちがイエス・キリストとともに父なる神さまの右の座に着座しているという意味ではありません。父なる神さまの右の座に着座しておられるのは栄光のキリストお一人です。私たちは、御霊によって、その栄光のキリストと1つに結び合わされている者として、栄光のキリストが着座しておられる御座のある「天の所に」座をもつものとしていただいているということです。
 1章21節には、父なる神さまの右の座に着座されているイエス・キリストについて、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されています。いろいろな機会にお話ししたことですので詳しい説明は省きますが、イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことは、詩篇110篇1節に、

 主は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることの成就です。それで、ここに出てくる「すべての支配、権威、権力、主権」は、詩篇110篇1節で「あなたの敵」と呼ばれている存在を指しています。父なる神さまがメシヤとしてお立てになったイエス・キリストに敵対している暗やみの主権者たちのことです。
 この暗やみの主権者たちを束ねて治めている存在があります。それがサタンですが、先ほど引用しました、2章1節、2節で、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

と言われているときの「空中の権威を持つ支配者」です。「空中の権威を持つ支配者」は単数形で、この「すべての支配、権威、権力、主権」を束ねて治めている存在としてのサタンを指していると考えられます。
 1章20節、21節に記されていますように、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

そして、私たちはこの栄光のキリストと、御霊によって、1つに結び合わされています。それで、かつては、2章1節、2節に、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

に記されている状態にあった私たちは、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」の主権の下から解放されています。
 2節において「この世の流れに従い」と言われているときの「流れ」と訳された言葉(アイオーン)は、基本的に「時代」を表わす言葉です。これについては、異教の神を指すという見方もあります。実際に、その言葉(アイオーン)で呼ばれる神があったようです。けれども、ここでは新改訳の示すように、この世のあり方、この世の生き方を表していると考えられます。ここでは、1節〜3節に記されています、私たちのかつてのあり方と、4節〜10節に記されています、私たちの今のあり方が対比されています。そして、1節〜3節においては、私たちのかつてのあり方がこの世のあり方に沿っていたことを示し、4節〜10節においては、それと対比されるあり方をするようになっていることを示していると考えられます。
 これまでお話ししてきたことに合わせていいますと、この「この世の流れ」は「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」が、「自分の罪過と罪との中に」死んでいる者に働いて造り出す歴史と文化、この世、この時代の歴史と文化です。
 これは、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化と対比されます。「来たるべき世」、「来たるべき時代」は、また「新しい世」、「新しい時代」とも呼ばれます。この「来たるべき世」、「来たるべき時代」、あるいは「新しい世」、「新しい時代」とは、終りの日に再臨される栄光のキリストが、ご自身の成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される「新しい天と新しい地」のことです。
 私たちはイエス・キリストの贖いの御業にあずかって、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」の主権の下から解放されています。それで生き方においても「この世の流れ」から解放されています。そればかりでなく、より積極的に、イエス・キリストとともによみがえり、ともに「天の所に」座らせていただいているのです。これによって、私たちは「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造る者とされています。
 ですから、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化は、御霊によって、イエス・キリストと1つに結び合わされている者たち、そして、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、イエス・キリストの復活のいのちによって生かされている者たちによって造り出されるものです。
 このようにして造り出される「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を特徴づけているのは、御霊です。なぜなら、私たちを栄光のキリストと1つに結び合わせて、栄光のキリストの復活のいのちによって生かしてくださるのは、御霊だからです。私たちは御霊に導いていただいて、「来たるべき世」、「来たるべき時代」の歴史と文化を造るように召されています。

 


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