(第170回)


説教日:2008年11月2日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 きょうも、主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、この祈りで取り扱われている「負いめ」について考えるために、神さまが創造の御業において、人を愛を本質的な特性とするご自身のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命をお委ねになったということについてお話ししてきました。
 これまで聖書のいくつかの個所を取り上げて、人が神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられていることは、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも変わっていないということをお話ししました。さらに、世の終わりに再臨される栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される新しい天と新しい地においても、歴史と文化を造る使命は継承されるようになるということをお話ししました。きょうも歴史と文化を造る使命が新しい天と新しい地においても継承されるということに関連することをお話しします。


 私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただいています。そしてイエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれています。イエス・キリストは、ただ、一度死んだ状態になって、そこから蘇生したのではありません。ピリピ人への手紙2章8節、9節に、

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

と記されていますように、イエス・キリストは父なる神さまのみこころに完全に従いとおされました。そして、そのことへの報いとして栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。
 福音の御言葉に基づいてイエス・キリストを信じている私たちは、御霊によって、イエス・キリストと1つに結び合わされています。それで、私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかってイエス・キリストとともに死んだだけでなく、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、イエス・キリストとともによみがえっています。そして、ぶどうの枝がその木につながって、その木のいのちによって生きているように、私たちはイエス・キリストの復活のいのちによって生かされています。
 私たちをイエス・キリストと1つに結び合わせてくださっているのは、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストが注いでくださった御霊です。その御霊が、私たちのうちに宿ってくださっていることによって、私たちは栄光のキリストと1つに結び合わされています。そして、その復活のいのちによって生かされています。
 このイエス・キリストの復活のいのちは、新しい天と新しい地にふさわしいいのち、新しい天と新しい地に属するいのちです。
 このことについて、すでにお話ししたことを振り返っておきましょう。
 ヨハネの福音書1章14節には、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

と記されています。この「ことば」は、先週お話ししましたように、1節において、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

とあかしされている永遠の「ことば」です。真の神にして、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあって、まったく充足しておられる御子です。この永遠の「ことば」なる方が、人の性質を取って来てくださいました。
 それは、永遠の神の御子が神であられることをやめて人となられたということではありません。神から人に変化されたということではありません。この造られた宇宙がなくなるということはありえるとしても、神さまが神でなくなるとか、神さまご自身が変化するというようなことはありえません。御子の受肉とは、無限、永遠、不変の栄光の神であられる御子が、新たに、人としての性質をお取りになって来てくださったということです。
 この人の性質は、神さまが天地創造の御業において造り出された、愛を本質的な特性とする神のかたちとしての人の性質です。これまでの歴史の中で、自らの罪によって本性が腐敗していない、本来の神のかたちとして存在したのは、最初に造られたときのアダムとその妻エバ、そして、人の性質を取って来てくださった御子イエス・キリストだけです。
 神である主は最初の人アダムをご自身のかたちにお造りになって、ご自身との契約のうちあるものとしてくださいました。神さまは人を神のかたちにお造りになってから、ご自身との契約関係に入れてくださったのではありません。人は初めから神さまとの契約関係にあるものとして造られたのです。子どもは両親との親子関係にあるものとして生まれてきます。生まれたとたんにその親子関係が始まります。それと同じように、人が神のかたちに造られたそのときに、神である主との契約関係が始まったのです。(もちろん、親子関係は契約関係ではありません。)
 人が神である主との契約関係にあるものとして造られているということは、神さまが創造の御業においてなしてくださったことですので、人にとって本質的なことです。神である主との契約関係にない人は一人もいません。
 もちろん、人類はアダムにあって罪を犯し、神さまとの契約関係を破ってしまいました。しかし、それで、主との契約関係がなくなってしまったのではありません。契約を結んだ者の一方が契約を破ったとき、もう一方は損害賠償を請求します。その損害賠償の請求は契約に基づくものです。主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人類をおさばきになるのは、契約の神である主です。主は契約の主として、契約のしもべである人類を、ご自身との契約を破ってしまったものとしておさばきになります。
 このような意味で、人が人であるかぎり、造り主にして契約の神である主との契約関係に置かれているということには変わることがありません。
 神さまが創造の御業において、神のかたちに造られた人に与えられた契約は、一般に「わざの契約」と呼ばれます。しかし、私は、近年、何人かの方々によって提唱されてきた「創造の契約」という呼び名のほうがいいと考えています。神である主は、この契約において、人がご自身のみこころに完全に従うことへの報いとして、栄光に満ちたいのちをもつものとなるということを示してくださっています。
 すでにお話ししていますが、人が従うように求められている神である主のみこころは、契約の神である主の律法に示されています。そして、主の律法は、マタイの福音書22章39節〜39節に記されています、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という「第二の戒め」に集約され、まとめられます。
 ここで、「あなたの神である主」の「」は契約の神である主、ヤハウェのことです。

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という戒めは申命記6章5節からの引用ですが、その申命記6章5節においては「」は契約の神である主、ヤハウェを意味しています。
 「あなたの神である主」という言い方は、その人が主との契約関係のうちにあることを示しています。つまり、主の律法は、主が神のかたちに造られた人に与えられた契約の中に位置づけられるものなのです。そして、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」は、神である主との契約関係の在り方の大原則を示しています。また、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という「第二の戒め」は、、同じく主との契約関係にある、契約共同体の「隣人」との関係の在り方の大原則を示しています。そのどちらも、主の律法の大原則は愛である、ということを示しています。その意味で、主の律法は「愛の律法」です。
 この主の律法は、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人自身の心に記されているものです。それで、主の律法は、神のかたちに造られた人にとって、外側から自分を規制し、拘束するものではありません。むしろ、神のかたちに造られた人の自由な意志の働きを愛することへと導くものです。神のかたちに造られた人は人格的な存在であり、自由な意志を与えられています。その自由な意志は気ままに働くのではなく、自らの心に記されている愛の律法にしたがって働きます。本来、神のかたちの本質的な特性は愛です。それで、神のかたちに造られている人にとって、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」契約の神である主を愛すること、また隣人を自分自身のように愛することは最も自然なことです。そして、人はそのような愛のうちにあるときに、自由な状態にあります。
 これを歴史と文化を造る使命との関係で見ますと、歴史と文化を造る使命を遂行することは、造り主にして契約の神である主への愛と契約共同体の隣人への愛を具体的な形で現すことにほかなりません。そのようにして造られる歴史と文化の本質的な特性は、御霊によって導かれて、契約の神である主を礼拝することを中心とした愛です。その歴史と文化は主への愛と隣人への愛に満ちた歴史と文化であるのです。
 これが神のかたちに造られた人の本来の姿でした。しかし、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、この本来の姿は失われてしまいました。罪によって堕落してしまった人は、造り主にして契約の神である主を神として愛することも、あがめることも、礼拝することもなくなってしまいました。つまり、神さまとの契約関係を損ない、契約の違反者になってしまったのです。その結果、契約ののろいの下に置かれて、神である主との愛にあるいのちの交わりを失い、罪を死の力に捕らえられ、滅びへの道を歩むものとなってしまいました。
 そのような状態にある人の心のいちばん深い所にあるのは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」契約の神である主を愛する愛や、隣人を自分自身のように愛する愛ではなくなってしまいました。むしろ、詩篇14篇1節に、

 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。

と記されていますように、

 神はいない。

という根本的な「思い」が人を支配し、人が造る歴史と文化を特徴づけるようになってしまいました。
 そのような状態にある人から、愛がまったく失われたのではありません。もし人が罪によってまったく堕落しきってしまっていたなら、人のうちから愛がまったく失われることになっていたはずです。愛は憎しみに変質していたはずです。しかし神さまは、一般恩恵によって、人が堕落しきってしまうことを止めてくださいました。それで、人のうちには愛が残っているのですが、それが罪の自己中心性によって歪められてしまっています。これが、自らのうちに罪を宿している人間の現実です。そして、これが人が造る歴史と文化を特徴づけています。
 しかし、人は、神である主に対して罪を犯して御前に堕落する前には、このような状態にありませんでした。繰り返しになりますが、本来、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人にとって、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」契約の神である主を愛することと、隣人を自分自身のように愛することは、最も自然で、自由な状態にあることでした。それで、主の律法に従うことは、神のかたちに造られた人にとっては自由な状態にあることであり、何の重荷となることではありませんでした。
 これが、神さまが創造の御業において、神のかたちにお造りになった人と結んでくださった最初の契約、「創造の契約」(「わざの契約」)の特徴です。このことが理解されないために、「創造の御業において『わざの契約』が結ばれたと言う者たちは律法主義に陥っている。」というようなことが言われることがあります。しかし、それは、「わざの契約」や主の律法に対する誤解から来ています。[その誤解の原因は、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことを、歴史の事実としないで、超歴史(原歴史)的なこととする)ことにあると思われます。]
 最初の人アダムは、そのように、神のかたちに造られた人としてのまったき自由の中にあって、契約の神である主に対して罪を犯したのです。決して、律法の重荷に押しつぶされるようにして罪を犯したのではありません。また、厳しい環境の中にあって、身を裂かれるような問題に直面して、罪を犯してしまったのでもありません。アダムは契約の神である主のご臨在のあるエデンの園において、主のご臨在の現れである豊かさに囲まれていました。そのような、いわば「理想的な環境」にあって、罪を犯してしまいました。
 御子イエス・キリストがまことの人としての性質を取って来てくださったということ、処女であるマリヤの胎に宿るという形でお生まれになったということは、愛を本質的な特性とする神のかたちの本来の姿において来てくださったということを意味しています。その意味で、イエス・キリストは、最初に造られたときのアダムと同じ状態にありました。
 ガラテヤ人への手紙4章4節、5節には、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。

と記されています。
 「女から生まれた者」というのは、私たちと同じ立場に立たれ、私たちと1つとなられたことを示しています。このことのゆえに、イエス・キリストは私たちの代表者、私たちにとっての契約のかしらとなることがおできになったのです。また、「律法の下にある者」ということは、イエス・キリストが主の律法を守るべき立場に立たれたことを示しています。栄光の主にして人に律法をお与えになった方が、自ら律法に従う立場に立たれたのです。すでにお話ししましたように、主の律法は主の契約の中に位置づけられます。イエス・キリストは、最初の人アダムと同じように、創造の契約(わざの契約)の下にあるものとしてお生まれになりました。そして、私たちの契約のかしらとなってくださいました。
 イエス・キリストは、先ほど引用しましたピリピ人への手紙2章8節、9節に、

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

と記されていますように、十字架の死に至るまでも父なる神さまのみこころに従い通されました。
 私たちの契約のかしらとなられたイエス・キリストは、十字架にかかって、私たちの罪に対する刑罰を私たちに代わって受けてくださいました。それによって、私たちの過去の罪も、現在の罪も、将来犯すであろう罪も、すべて完全に贖ってくださいました。私たちはこのようにして十字架にかかって死んでくださった御子イエス・キリストを信じることによって、義と認められています。そして、このイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づいて、どのような罪も赦していただくことができます。
 そればかりではなく、イエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されたことへの報いとして、栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。このことは、イエス・キリストが最初の契約である創造の契約(わざの契約)の下にあって、神さまのみこころに従い通されて、その契約の祝福である栄光あるいのちを獲得されたということを意味しています。それは、最初の人アダムが契約の神である主のみこころに完全にしたがっていたなら受けていたであろう、栄光あるいのち、永遠のいのちです。
 先ほどお話ししましたように、最初の人アダムは契約の神である主のご臨在のあるエデンの園において、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。エデンの園は主のご臨在に伴う豊かさに満ちていました。そのような「理想的な環境」にあって、神である主に従うべきものでした。そして、それにもかかわらず、アダムは神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。
 これに対して、イエス・キリストは、人類がアダムにあって罪を犯し、御前に堕落してしまっている状態にある世界にお生まれになりました。そして、ご自身の回りには、人の罪がもたらしたさまざまな痛みと悲しみと叫びが満ちていました。しかも、イエス・キリストは罪のないお方でしたから、罪に慣れっこになってしまう、罪に対して鈍感になってしまうということがありませんでした。私たちは自らのうちに罪を宿していますから、罪に対して鈍感になってしまっています。けれども、罪のないイエス・キリストには、そのような罪に対する鈍感さはありませんでした。人間の罪に心を痛められ、人間の罪の結果としての悲惨に心を痛められました。そして、そのことのゆえに、ご自身の民の罪を贖ってくださることへの思いを強くされたのであると考えられます。
 しかし、そのような悲惨な状態にある人々に注いだ愛は、報われることがありませんでした。かえって、人々から捨てられ、偽メシヤの廉で十字架につけられることとなりました。
 もちろん、全能の主であられる御子イエス・キリストにとっては、十字架を回避することはたやすいことでした。イエス・キリストが逮捕された夜のことを記しているマタイの福音書26章50節〜54節には、

そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕えた。すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」

と記されています。イエス・キリストはそのように願えば「十二軍団よりも多くの御使いを」配下に置いていただくことがおできになりました。それによって、逮捕を免れ、十字架を回避することはおろか、ローマ帝国をも滅ぼすこともおできになりました。しかし、そのようにして、力尽くで世界を支配したとしても、人間の悲惨の根本原因である罪は清算されません。イエス・キリストが、

だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。

と言われたように、聖書を通して示されている、贖い主によって主の民の罪を贖ってくださるという、父なる神さまのみこころは果たされないことになります。
 イエス・キリストは父なる神さまのみこころに従って十字架におかかりになる道を選び取られました。そして、その十字架において、私たちご自身の民の罪に対するさばきを余すところなくお受けになりました。そのさばきは世の終わりに執行されるべき最終的なさばきである、地獄の刑罰に当たります。イエス・キリストは、私たちに代わって、地獄の刑罰をお受けになったのです。
 これがイエス・キリストの十字架の死に至るまでの従順でした。このようなイエス・キリストが置かれていた状況を、最初の人アダムの置かれていた状況と比べると、そのあまりの違いに驚かされます。
 イエス・キリストは、創造の契約(わざの契約)のかしらとして、十字架に至るまで父なる神さまのみこころに従い通され、そのことへの報いとして、栄光を受けて、死者の中からよみがえられました。イエス・キリストの十字架の死が私たちご自身の民のためであったのと同じように、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことも、私たちご自身の民のためでした。無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストは、ご自身のために栄光をお受けになる必要はありません。イエス・キリストはその十字架の死によって私たちの罪を完全に贖ってくださいました。その上で、私たちをご自身の死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって新しく生まれさせてくださり、ご自身の復活のいのちで私たちを生かしてくださっています。
 私たちはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかることによって、終りの日に起こるべき最後のさばきと、栄光あるいのち、永遠のいのちへのよみがえりを経験しています。そのことが、コリント人への手紙第2・5章17節には、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されています。それで、いま、私たちは終りの日に再臨される栄光のキリストが、その再創造の御業によって造り出される新しい天と新しい地につながっていく歴史と文化を造る使命を委ねられています。
 そのようにして造り出される、新しい天と新しい地につながっていく歴史と文化の本質的な特性は愛です。それは契約の神である主への愛と契約共同体の隣人に対する愛に満ちている歴史と文化です。けれども、そのような歴史と文化を造り出す使命を受けている私たちのうちには罪が宿っています。そのために、私たちは愛において欠けたものであり、私たちの愛は罪の自己中心性によって歪められてしまっています。
 私たちの主イエス・キリストは、その私たちの現実をご存知であられます。そして、私たちを、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るようにと導いてくださっています。私たちは新しい天と新しい地につながっていく歴史と文化を造る使命を委ねられているものとして、この祈りを祈ります。

 


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