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説教日:2008年10月26日 |
神さまが人を愛を本質的な特性とするご自身のかたちにお造りになったのは、人をご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださるためでした。それは、神さまご自身のあり方にかかわっています。 何度も取り上げてきましたが、ヨハネの福音書1章1節〜3節には、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されています。繰り返しお話ししてきたことですので、要点をまとめておきます。 言うまでもなく、1節冒頭において、 初めに、ことばがあった。 と言われているときの「ことば」は、14節で、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 と言われている御子イエス・キリストのことです。この14節では、今から2千年前に、御子イエス・キリストがまことの人の性質をお取りになって来てくださったことを記しています。これに対しまして、 初めに、ことばがあった。 と言われているときの「初めに」という言葉は、創世記1章1節に、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されているときの「初めに」に当たります。 初めに、ことばがあった。 という御言葉は、天地創造の「初めに」までさかのぼっているのです。 また、「あった」という言葉(エーン)は(未完了時制で)過去における継続を表しています。それで、この、 初めに、ことばがあった。 という御言葉は、天地創造の「初めに」すでに「ことば」が継続して存在しておられたということを示しています。時間はこの造られた世界の時間ですから、この世界が造られたときに時間も始まりました。しかし、「ことば」はこの世界とその時間の「初めに」すでに存在しておられました。ですから、「ことば」は時間の中にある方ではなく、時間を越えた永遠の存在です。それで、1節の最後には、 ことばは神であった。 と記されています。 今お話ししていることとのかかわりで注目すべきことは、1節の真ん中において、 ことばは神とともにあった。 と記されていることです。同じことは2節でも、 この方は、初めに神とともにおられた。 と繰り返されています。この「神とともに」という言葉(プロス・トン・セオン)は、神さまとの交わりを示唆する言葉です。このことと、18節で御子イエス・キリストのことが「父のふところにおられるひとり子の神」と言われていることとを合わせて見ますと、御子は父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられることが分かります。しかも、2節で、 この方は、初めに神とともにおられた。 と言われていますように、「ことば」は永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにあられます。「おられた」という言葉(エーン)も過去のある時、この場合は「初め」における継続を表しています。 これは、神さまが三位一体の神であられるということの重要な根拠の1つとなっています。もし神さまが一位一体であられるとしたら、永遠の人格(神さまの場合は「位格」)は1つしかないということになります。そうであるとしますと、永遠の次元において、神さまは愛する相手をもたない、「独りぼっちの神」であるということになります。ヨハネの手紙第1・4章8節と16節に、 神は愛です。 と記されていますように、神さまの本質的な特性は愛です。けれども、もし神さまが一位一体の神であられるなら、神さまの無限、永遠、不変の愛を受け止めることができる存在がいことになります。それで、神さまはその無限、永遠、不変の愛を完全に表現することはできないことになります。しかし、ヨハネの福音書1章1節に記されています、 ことばは神とともにあった。 という御言葉は、「ことば」が永遠に父なる神さまとの愛にある交わりのうちにいますことを示しています。 これに御霊をかかわらせて言いますと、御父と御子の間には、御霊による無限、永遠、不変の愛の交わりがあるということになります。 このように、神さまは無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあって、まったく充足しておられます。 ヨハネの福音書1章では、3節に、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されています。これは、この世界のすべてのものは、「ことば」によって造られたということを示しています。大切なことは、その「ことば」が父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられるということです。この世界のすべてのものは、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる「ことば」によって造られました。 これらのことから、父なる神さまが、ご自身との無限、永遠、不変の愛のうちに充足しておられる御子によって、天地創造の御業を遂行されたことが分かります。さらにことのことから、天地創造の御業は、神さまがご自身の愛をご自身の外に向けて表される御業であったことが分かります。 人間の場合には、夫と妻の愛の交わりがまずあって、その愛の交わりのうちに子どもが生まれてきます。その子どもは「愛の環境の中に」生まれてきます。この世界は父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる「ことば」によって造り出されました。この世界は神さまの「愛の環境の中に」造り出されたのです。 そうであるとしますと、神さまはご自身がお造りになった世界の中に、ご自身の愛を受け止めることができる存在、そして、ご自身に対して愛をもって応答することができる存在をお造りになったはずです。事実、神さまはそのような存在をお造りになりました。それが、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人です。 この主の祈りの第5の祈りのお話の中で取り上げましたが、創世記2章7節には、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と記されています。この御言葉は、契約の神である主がその創造の御業のときから人と親しく向き合ってくださっていたことを示しています。人にとっての最初にして最も重要な事実は、神である主がその御顔を自分に向けていてくださっているということでした。それは決して機械的なことではありません。そこには神である主の愛といつくしみが注がれていたことを読み取ることができます。そして、神である主は、そのような愛といつくしみのうちに、人の「鼻にいのちの息を吹き込まれた」のです。7節の最後の、 そこで、人は、生きものとなった。 という言葉には、これらすべてのことが込められていると考えられます。つまり、人が「生きものとなった」のは、ただ人の鼻に「いのちの息」が吹き込まれたということだけによっているのではないということです。 事実、ノアの時代の大洪水によって、人も生き物たちも滅ぼされてしまいました。そのことを記している創世記6章17節では、人も生き物たちも「いのちの息ある」ものと呼ばれています。(この場合の「いのちの息」の「息」という言葉は基本的に「霊」を表わす言葉(ルーァハ)ですが、表しているものは同じです。)「いのちの息」があるということ、すなわち、呼吸をしているということだけでは、人と動物の区別はつけられません。 2章7節に記されていますように、神である主がその御顔を向けてくださったことに示されている、神である主の愛といつくしみのうちにあって、人の「鼻にいのちの息」が「吹き込まれた」ので、 人は、生きものとなった。 のです。人のいのちの本質は、神である主のご臨在の御前において、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることにあります。ちなみに、ヘブル語では「御顔」と「ご臨在」は同じ言葉(パーニーム)で表されます。 2章8節〜14節には、 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。 と記されています。 人が置かれたエデンの園の中央には「いのちの木」がありました。それは、今日、私たちがあずかっている聖礼典としての聖餐になぞらえることができるもので、「礼典的な意味」をもっています。「礼典的な意味」をもつというのは、見えない神さまのご臨在にかかわる祝福を見える形で表示するものであるということです。「いのちの木」は、神である主のご臨在がそこにあり、人はそこにご臨在される主との愛にあるいのちの交わりにあずかることができることを表示するものです。 そこには「善悪の知識の木」もありました。これには大切な意味がありますが、いまお話ししていることとは直接的にはかかわっていませんので、おいておきます。 また、「一つの川」は神である主のご臨在の御許から流れ出るもので、その豊かさによって全地を潤していることを示しています。今日、世界大、さらには宇宙大の視野が開けている私たちにとって、ここに記されているのはメソポタミアという一地域のことと感じられますが、その当時の人々にとっては、全地に当たるものでした。その川の流域に産出したと言われている「金」や「ブドラフとしまめのう」などの宝石は神である主のご臨在の豊かさの現れとしての意味をもっています。 出エジプト記25章11節に記されていますように、古い契約の下における「地上的なひな型」としての聖所の奥にある至聖所に置かれた契約の箱は内側も外側も純金で覆われていました。その上蓋である「贖いのふた」とその両端に「贖いのふた」と一体になるように造られた2つのケルビムは純金で造られました。そのケルビムの間に主のご臨在がありました。 また、エゼキエル書28章13節には、その川の源であるエデンの園にはさらに多様で豊かな宝石があったことが暗示されています。 黙示録21章18節〜21節においては、新しい天と新しい地の中心である新しいエルサレムの描写は、縦、横、高さが同じという、聖所の表象が用いられています。聖所は主の栄光のご臨在のある所です。そして、その「土台石」の描写にはさまざまな宝石が用いられています。 このように見ますと、8節で、 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。 と言われていることは、人が神である主のご臨在の場であるエデンの園に置かれて、主との愛にあるいのちの交わりにあって生きる者であったことを示しています。 このように神である主のご臨在のあるエデンの園を描写する8節〜14節に続いて、15節には、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されています。 先ほどお話ししましたように、8節で、 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。 と言われていることは、人が神である主のご臨在の場であるエデンの園に置かれて、主との愛にあるいのちの交わりにあって生きるものであったことを示しています。これは、その前の7節で、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と言われていることと相まって、人が神のかたちに造られたことの意味を、具体的な形で示しています。 これに対して、15節で、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と言われていることは、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命が委ねられたことの意味を、具体的な形において示しています。もちろん、ここでは、創世記1章28節に記されています、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という歴史と文化を造る使命の、 地を従えよ。 ということを遂行している姿です。 神のかたちに造られた人は自分が置かれたエデンの園の土地を耕し、神である主が生えさせてくださった「すべての木」やその他の植物たちの手入れをして、その使命を果たしていたと考えられます。そのためには、それらの植物に心を注いで接し、観察しながら、それぞれの特性を理解しなければなりません。「耕した」ということには、肉体的な労働だけでなく、これらすべての文化的な活動が含まれていたと考えられます。 きょうお話ししていることのポイントですが、このことは7節〜14節に記されています、人が神である主のご臨在の御前にあるものとして造られ、実際に、主のご臨在の御前において、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きていたことと切り離すことはできません。人がエデンの園を耕し、守っていたことは、神である主のご臨在の御前におけることであったのです。まず、神である主のご臨在の御前に生きているものとして、主の愛を豊かに受け止めていたわけです。そして、主の愛をその身に受けているものとして、主が生えさせてくださった植物をよく知り、その手入れをしました。それは、神のかたちとしての自らの本質的な特性である愛といつくしみをそれらのものに注ぐということに他なりません。 さらに、2章18節〜20節には、 神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。 と記されています。 人が生き物たちに名をつけたということは、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を遂行するための権威を発揮し、生き物たちとの関係を築いたことを意味しています。生き物に名をつけることは、その生き物の本質的な特質を理解したうえで、それを表す名をつけるということを意味しています。それで、生き物に名をつけるためには、その生き物をよく知っていなくてはなりません。そして、その生き物との交流をとおしてしか、その生き物を知ることはできません。ですから、人が生き物たちに名をつけたときには、その生き物たちとの交流があったと考えられます。 大切なことは、それが「ふさわしい助け手」を探し求める文脈の中でなされているということです。「ふさわしい助け手」とは、自分の投げかける愛を受け止め、同じように愛をもって応答してくれる存在のことです。それで、この時、人は生き物たちの名をつけた時に、生き物たちとの関係を築き、生き物たちに自分の愛を注いだと考えられます。もちろん、これは一時的なことではなく、これ以後、人はその生き物たちにその愛を注ぎ続け、そのお世話をしたと考えられます。人がエデンの園を耕したのも、生き物たちの食料をより豊かに備えるためであったと考えられます。 20節に記されています、 しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。 という御言葉は、生き物たちの中には、人が投げかけた愛に対応する愛をもって応答してくれる存在はいなかったということを意味しています。そのことを踏まえて、神である主は「ふさわしい助け手」としての女性を創造してくださいました。 このように、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命を遂行することの中心にあるのは、神のかたちの本質的な特性である愛を現すことです。それは、契約の神である主のご臨在の御前において主の愛を受け止め、愛をもって主に応答することから始まります。そして、同じく神のかたちに造られ、主の愛に包まれ、主を礼拝するものとして、お互いに愛し合うことに現れてきます。それが、さらに、自分たちに委ねられている、この地を神である主のみこころにしたがって治め、すべての生き物、さらには植物に愛を注いでお世話をすることに現れてきます。 改めて説明するまでもないことですが、この意味での歴史と文化を造る使命を果たすことも、7節〜14節に記されています、人が神である主のご臨在の御前にあるものとして造られ、実際に、主のご臨在の御前において、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きていたことと切り離して理解することはできません。 歴史と文化を造る使命を果たすことは、ご自身、無限、永遠、不変の愛による交わりにおいてまったく充足しておられる神さまが、その愛を私たちに注いでくださっていることを受け止めることから始まります。歴史と文化を造る使命は、神である主のご臨在の御前において、常に主との愛にあるいのちの交わりに生きることを中心として遂行されるものです。そして、そのことがエデンの園における人の姿において示されていました。 先ほど触れました黙示録21節18節〜21節においては、新しい天と新しい地の中心である新しいエルサレムが至聖所の表象で示されていました。その新しいエルサレムの描写の続きである22章1節〜5節には、 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。 と記されています。 ここでは、新しいエルサレムをエデンの園の表象によって描写しています。しかも、エデンの園の最初の状態が回復されているだけでなく、さらに豊かな形において完成していることを示しています。最初に造られたエデンの園においては「いのちの木」はその中央に1本あったのですが、ここでは、「いのちの水の川」の両岸にあって、「十二種の実」をならせると言われています。そこにご臨在される主との愛にあるいのちの交わりの豊かさが、完全数において表現されています。これによって、最初の創造の御業によって造り出されたエデンの園において始まったことが新しいエルサレムにおいて成就し完成することを示しています。 3節、4節においては、 神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。 と言われています。ここで、 そのしもべたちは神に仕え と言われているときの「仕える」と訳された言葉(ラトレウオー)は、「礼拝する」ことをも表します。これに先立つ新しいエルサレムが至聖所の表象で表されていたことを考えますと、ここでは礼拝することを中心として神さまに仕えること意味していると考えることができます。 また、これに続いて、 神の御顔を仰ぎ見る。 と言われています。これは、やはり、礼拝の流れの中で理解すべきことであると考えられます。このことからいろいろなことが考えられますが、一言で言いますと、礼拝を中心とした神さまとの愛にある交わりの完成を示しています。これは、創世記2章7節〜14節に記されていました、神である主の御顔が人に向けられていること、人が主のご臨在の御前にあることの完全な実現を示しています。 これらのことは、さらに、5節において、 彼らは永遠に王である。 と言われていることへとつながっていきます。これは、この部分の最後の御言葉です。これまで数週間にわたってお話ししてきたことから推測できますが、これは、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命が完全な形で果たされるようになることを示しています。 このことは、創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねられている歴史と文化を造る使命は、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業によって回復されるとともに、新しい天と新しい地においても受け継がれていくものであることを示しています。 彼らは永遠に王である。 と言われていることは、この意味での歴史と文化を造る使命が「永遠に」果たされていくことを示しています。 そして、その使命は、神である主のご臨在の御前において、主の御顔を仰ぎ見て、その愛に触れ、主を礼拝することを中心として果たされるものであるということをも示しています。 私たちは、すでに御子イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれているものとして、この新しい天と新しい地における歴史と文化につながっていく歴史と文化を造る使命を委ねられています。この点において私たちは常に欠けがあるものとして、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈ります。しかし、それも、やがて神さまとのまったき愛にある交わりのうちにあって、この使命を果たすようになる時があることを信じてのことです。 |
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