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説教日:2008年10月19日 |
このことは、アブラハムに与えられた契約において約束されている、アブラハムとその子孫が「約束の地」を受け継ぐということの成就としての意味をもっています。きょうはこのことについてお話ししたいと思います。 ローマ人への手紙4章13節〜16節には、 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。 と記されています。この御言葉につきましては、3年ほど前のことですが、この「主の祈り」についてのお話の中でもお話ししたことがあります。きょうは、それをまとめながらお話を進めます。 13節では、 世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によった と言われています。これは、アブラハムに与えられた契約の約束が「世界の相続人となるという約束」であったということを示しています。ここでは「世界の相続人」というときの「世界」(コスモス)が何であるかということは論じられていません。先ほどのヘブル人への手紙2章5節に出てきた「来たるべき世界」の「世界」という言葉(オイクーメネー)は、人などが「居住している世界」を表しますが、この「世界」(コスモス)はそのような人が居住する世界に限らず、荒野や砂漠、さらには空や海も含めて、私たちが住んでいるこの世界全体を表すこともありますし、より広く宇宙全体を表すこともあります。ここでは、それが何を表しているかは示されていません。というのは、ここでの議論の流れの中心は、その約束が「与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によった」ということにあるからです。 このことは、この13節の構文にも反映しています。ここでは、「律法によってではなく」という言葉が最初に出てきて強調されているとともに、「信仰の義によった」という言葉が最後に出てきて強調されています。つまり、「律法によってではなく、信仰の義によった」ということが強い対比をなしていて、論点が示されています。この論点は、続く14節において、 もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。 と言われていることへと受け継がれて補強されています。 ローマ人への手紙の議論の流れでは、「世界の相続人となること」ということが忘れられているのではなく、それが「律法によってではなく、信仰の義によった」ということの方を先に取り上げています。それは3章19節からの議論が、人が神さまの御前に義と認められるのは律法の行いによるのではなく、信仰によるということを中心としているからです。3章28節には、 人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。 と記されています。そして、その議論の流れの中で、4章1節からはアブラハムのことが取り上げられています。このようにして、4章13節で、 世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によった と言われていることのうち、まず、「律法によってではなく、信仰の義によった」ということが取り扱われて、議論が進められていきます。 先ほど引用しました4節13節〜16節の最後の16節には、 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。 と記されていました。これに続く17節〜25節には、 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 と記されています。 いまお話ししていることとかかわることだけを取り上げますと、アブラハムが信仰によって義と認められたというときのアブラハムの信仰は、神である主の契約に約束されたことを信じる信仰でした。その約束は、18節に記されていますように、 あなたの子孫はこのようになる。 というものでした。しかしそれは、アブラハムが、 およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めて いるときに与えられたものでした。厳密に言いますと、この約束が与えられたのはアブラハムが85歳の少し前の時ですが、この約束が成就して約束の子が生まれたのは、アブラハムが百歳、サラが90歳の時のことでした。その十数年の間もアブラハムが主の約束を信じ続けた時でした。それで、「およそ百歳になって」という言葉は、このすべての時を視野に入れてのことであると考えられます。 20節〜22節には、 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。 と記されています。アブラハムがそれによって義と認められた信仰は、生きておられる神である主、17節の言葉で言えば「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」を信じる、生きた信仰でした。その方を信じることは、 あなたの子孫はこのようになる。 という約束を信じること、そして信じ続けることに現れていました。 ここで大切なことは、 あなたの子孫はこのようになる。 という約束におけるアブラハムの「子孫」は、先ほどから取り上げています13節で、 世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によった と言われているときの「子孫」であるということです。つまり、この「子孫」は、アブラハムとともに「世界の相続人となる」と約束されている「子孫」であるのです。この「子孫」はどちらも単数ですが、集合名詞でアブラハムの「子孫」全体を1つとして見ています。 アブラハムが信仰によって義と認められたことは創世記15章に記されています。1節〜6節には、 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。 「アブラムよ。恐れるな。 わたしはあなたの盾である。 あなたの受ける報いは非常に大きい。」 そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。 と記されています。ここに記されていることから分かりますように、この時に問題となっているのはアブラハムの相続人のことです。そして、主はアブラハムに、 ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。 と言われました。そして、天の星を見せて、 あなたの子孫はこのようになる。 と言われました。アブラハムが契約の神である主、ヤハウェを信じたのは、この主の約束の御言葉を信じたことに現れてきています。そして、その約束はアブラハムの相続人としてのアブラハムの「子孫」にかかわる約束です。 すでにお話ししましたように、ローマ人への手紙では、4章13節で、 世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によった と言われていることのうち、まず、「律法によってではなく、信仰の義によった」ということが取り扱われています。けれども、アブラハムが信じた「世界の相続人となるという約束」が忘れられているのではありません。「律法によってではなく、信仰の義によった」ということについての論述が頂点に達した8章において、「世界の相続人」のことが出てきます。 8章15節〜17節には、 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と記されています。17節で、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。 と言われていることは、ローマ人への手紙の論述の流れの中では、4章13節で、 世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によった と言われていることを伏線としてもっていて、それを受けていると考えられます。 このことは、ガラテヤ人への手紙3章26節に、 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。 と記されており、29節に、 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 と記されていることに明確に示されています。この26節と29節の御言葉を合わせ見ますと、「キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子ども」である者が「アブラハムの子孫であり、約束による相続人」であることが分かります。 そうであるとしますと、ローマ人への手紙8章17節で、 もし子どもであるなら、相続人でもあります。 と言われていることはアブラハムへの契約の約束に基づくことであり、その契約が、まことのアブラハムの子孫として来てくださった御子イエス・キリストにあって成就していることを示しています。 この17節に続いて18節〜21節には、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されています。 18節で、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 と言われているときの「今の時」は一時的な時のことではなく、終りの日まで続いていく「この時代」のことで、「来たるべき時代」と対比されるものです。「この時代」は、終りの日に再臨される栄光のキリストのさばきによってさばかれ、過ぎ去ってしまう「この世の歴史」に当たります。これに対して、終りの日に栄光のキリストによってもたらされる新しい天と新しい地の歴史が「来たるべき時代」です。パウロは、「この時代」を造り出している動因が「肉」であり、「来たるべき時代」を造り出している動因が「御霊」であると教えています。 18節においては「将来私たちに啓示されようとしている栄光」のことが出てきます。これは、終りの日に再臨される栄光のキリストが私たちをご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業にまったくあずからせてくださって、私たちを栄光ある者、永遠のいのちをもつ者としてよみがえらせてくださることを指しています。ただし、これには、後ほど触れますが、もう少し広い意味合いがあると考えられます。 ところで、イエス・キリストが私たちの罪を贖ってくださるために十字架について死んでくださったことは、イエス・キリストが私たちが受けなければならないさばきをすべて、私たちに代わって受けてくださったことを意味しています。その意味で、イエス・キリストの十字架においては、終りの日に執行されるべき、私たちに対する最後のさばきが執行されています。また、イエス・キリストが、その十字架の死に至るまでの完全な従順に対する報いとして栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたことは、終りの日に起こるべき死者のよみがえりの「初穂」としての意味をもっています。つまり、イエス・キリストの十字架の死も死者の中からのよみがえりも、終りの日に起こるべきことであるのですが、それが今から2千年前に、歴史の中に起こっています。私たちはこのイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、イエス・キリストとともに死に、イエス・キリストとともに栄光を受けてよみがえっています。これによって私たちはやがて滅び去ってしまう「この世」に属して「この時代」の歴史を造る者ではなく、新しい天と新しい地において完成する「神の国」に属して「来たるべき時代」の歴史を造る者となっています。 このローマ人への手紙8章18節〜21節においては、神の子どもとされている私たちだけでなく、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と言われています。これが先ほどの「将来私たちに啓示されようとしている栄光」の広がりです。言うまでもなく、このことは新しい天と新しい地において実現します。 大切なことは、ここには「神の子どもたち」と「被造物」の一体性が示されているということです。これは、すでにお話ししてきたことから分かりますが、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、これに歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことに基づいています。 ローマ人への手紙の流れでは、約束の贖い主であるイエス・キリストを信じて神の子どもとされている私たちは、神さまがアブラハムに与えてくださった契約による「世界の相続人」としていただいています。その私たちが受けるべき「相続財産」は終りの日に再臨される栄光のキリストがもたらしてくださる新しい天と新しい地です。それは、ここで、 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と言われています「被造物」であるのです。先ほど4章13節では「世界の相続人」の「世界」が何を意味しているかは論じられていないと言いましたが、それがここで明らかにされているわけです。 このことから、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっている私たちが、新しい天と新しい地の歴史と文化を造る使命を委ねられていることが分かります。それは、私たちが「来たるべき時代」を造り出す動因である「御霊」によって導いていただいて、「来たるべき時代」、「新しい時代」の歴史を造ることです。 しかし、それは、22節、23節において、 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と言われているような状況においてのことです。 その私たち自身が「心の中でうめきながら」と言われていることの中には、私たちの外からやって来るさまざまな試練や苦難による「うめき」があります。けれども、それ以上に、このような神さまのみこころを中心としないで、自分の目によしと見えることのみを追い求めてしまう、私たちの罪がもたらしている現実に対する「うめき」が大きなものであるはずです。 しかし、それでも、私たちは、 子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 という望みのうちに生きる者としていただいています。続く24節において、 私たちは、この望みによって救われているのです。 と言われています。私たちはただイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められて救われていますので、これは、おそらく、 私たちは、この望みにあって救われているのです。 と訳したほうがいいと思われます。私たちは神である主の約束に基づく「望み」のうちにある者として救われているということです。 いずれにしましても、イエス・キリストが成し遂げてくださった救いは「望み」にあふれています。それは私たちだけでなく全被造物をも包み込む「望み」です。私たちは、そのような望みを抱きつつ、自らの現実にもしっかりと目を向けて、絶えず、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈り続けます。 |
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