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説教日:2008年10月12日 |
これがどのようなことであるかということにつきましてはすでにお話ししたことがありますが、補足を加えながら、復習しておきたいと思います。ただ、きょうは、その導入というべきことしかお話しできません。 この世界にとって最も基本的な事実は、この世界が神さまの創造の御業によって造られたものであり、神さまの御手によって支えられているということです。その意味で、この世界のすべてのものが神さまの知恵と御力、愛といつくしみに満ちた栄光を現しています。神さまがお造りになったこの世界に属するもので、このことをわきまえ知ることができる存在は、御使いと神のかたちに造られた人です。 けれども、神さまはこの世界を治める使命を御使いたちにではなく、神のかたちに造られた人にお委ねになりました。ヘブル人への手紙2章5節〜8節前半には、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。 「人間が何者だというので、 これをみこころに留められるのでしょう。 人の子が何者だというので、 これを顧みられるのでしょう。 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。」 と記されています。 5節では、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 と言われています。ギリシャ語原文では、「御使いたちにではなく」という言葉が最初に出てきて強調されています。これは、神さまが「後の世」を治めることをお委ねになったのは御使いたちではないということを示すための強調です。そして、これに続いて、詩篇8篇4節〜6節を引用することによって、神さまが神のかたちに造られた人に「後の世」を治めることをお委ねになったということを明らかにしています。 すでにお話ししましたように、詩篇8篇は、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことを述べています。それで、ここでは、神さまはご自身がお造りになった世界を治める使命を神のかたちに造られた人にお委ねになっただけでなく、「後の世」をも治める使命を委ねておられることが示されています。 「後の世」の「世」と訳されている言葉(ヘー・オイクーメネー)は人などが「居住している世界」を表しています。また、「後の」と訳されている言葉(ヘー・メルーサ)は「なろうとしている」、「来たらんとしている」という意味の動詞(メロー)の現在分詞で「来たるべき」というような意味を伝えています。それで、この「後の世」すなわち「来たるべき世界」は、終りの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される新しい天と新しい地のことを指しています。 話しが少し脇道に逸れてしまいますが、この「来たるべき世界」が確立されることは、旧約聖書においても預言的に示されています。その際に、歴史と文化を造る使命とのかかわりも示されています。 いくつか考えられますが、ダニエル書7章13節、14節を見てみましょう。そこには、 私がまた、夜の幻を見ていると、 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、 年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。 この方に、主権と光栄と国が与えられ、 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、 彼に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく その国は滅びることがない。 と記されています。 これはダニエルに与えられた幻の形の啓示を記しています。 13節では、 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られる。 と言われています。 この「人の子のような方」とは、ダニエルにとっては、やがて来たるべきメシヤのことです。私たちにとっては、まことの人となって来てくださって、私たちご自身の民の罪の贖いを成し遂げてくださった御子イエス・キリストのことです。「人の子のような方」という言い方がなされていますので、違和感を覚える方もおられるかもしれません。しかし、これは黙示文学的な表象です。引用していませんが、このダニエル書7章においては、バビロン、メディア・ペルシャ、ギリシャ、ローマを指していると考えられる、地上の4つの帝国の王たちが、それぞれ「獣」の表象で示されています。「人の子のような方」はこれと対比されるもので、「この方」が、真の意味で「人」であられることを示しています。 ちなみに、このダニエル書7章では、メシヤの主権の確立に先立って、それらの「獣」たちへのさばきが執行されることが示されています。 言うまでもなく、13節の「年を経た方」も黙示文学的な表象で、神さまのことを表しています。 また、「天の雲」が出てきます。これは、自然現象としての雨を降らす雲ではなく、神さまの栄光の顕現(セオファニー)に伴い、神さまの栄光の顕現を表示する雲のことです。出エジプトの時代に、エジプトを出たイスラエルの民を導いてくださったのは、昼は雲の柱、夜は火の柱として現れてくださった栄光の主のご臨在でした。この雲の柱も、神さまの栄光の顕現です。 14節では、 この方に、主権と光栄と国が与えられた。 と言われています。これには、創世記1章26節〜28節に記されている、神さまが人を神のかたちにお造りになって、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったこと、そして、詩篇8篇5節、6節に、 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されている御言葉が背景となっているということが広く認められています。 13節、14節の、 見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、 年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。 この方に、主権と光栄と国が与えられ、 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、 彼に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく その国は滅びることがない。 という御言葉は、イエス・キリストがご自身のことを「人の子」と呼ばれたことの根底にあります。イエス・キリストが十字架につけられる前の夜に、議会(サンヘドリン)であかしされたことを記しているマタイの福音書26章63節、64節には、 しかし、イエスは黙っておられた。それで、大祭司はイエスに言った。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」 と記されています。 ここでイエス・キリストは、ご自身がダニエルに示された栄光の主であられることをあかししておられます。そして、 今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き という御言葉は、ダニエルに与えられた啓示において、 この方に、主権と光栄と国が与えられ、 諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、 彼に仕えることになった。 その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく その国は滅びることがない。 と言われていたことを成就するものであることを示しています。 ヘブル人への手紙2章に戻りますが、5節において、このような終りの日に再臨される栄光のキリストが再創造の御業によって造り出される「来たるべき世界」、「後の世」のことが取り上げられて、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 と言われたことを受けて、そのことの根拠となる御言葉として、詩篇8篇4節〜6節が引用されています。このことから、大切なことを汲み取ることができます。 1つは、このことから、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになったことと、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことは、栄光のキリストによって再創造される新しい天と新しい地にも継承されることである、ということが分かります。歴史と文化を造る使命を果たすことは、終りの日に栄光のキリストが再臨されてこの世の歴史をおさばきになり、すべてを清算されることによって終ってしまうのではないのです。 先ほど、先週お話ししたことの復習として詩篇8篇5節、6節を取り上げまして、人が神のかたちに造られていることと、人に歴史と文化を造る使命が委ねられていることは、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも変わっていないということをお話ししました。このヘブル人への手紙2章5節〜8節前半においては、そのことは、さらに、終りの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される新しい天と新しい地にも変わることなく引き継がれていくことであるということが示されています。まさに、人が人であるかぎり、神のかたちに造られていることと、歴史と文化を造る使命を委ねられているということは変わることがないのです。 もう1つ注目したいことがあります。それは、終りの日に再臨される栄光のキリストによって再創造される「後の世」すなわち「来たるべき世界」と、いま私たちが住んでいる「この世界」の関係です。 このヘブル人への手紙2章5節〜8節前半においては、「後の世」のことが取り上げられて、 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。 と言われています。そして、そのことの根拠となる御言葉として、詩篇8篇4節〜6節が引用されています。先ほど、このことに基づいて、「来たるべき世界」を治めることも、いま私たちが住んでいる「この世界」を治めることも、同じ歴史と文化を造る使命を遂行することであるということをお話ししました。このことから、さらに、「この世界」における歴史が、「来たるべき世界」につながっていることを汲み取ることができます。 このことは、ヘブル人への手紙2章5節〜8節前半に記されていることだけでははっきりしませんが、それに続く部分で、よりはっきりとしてきます。8節前半において、詩篇8篇6節の、 万物をその足の下に従わせられました。 という御言葉が引用されています。8節ではこれに続いて、 万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。 と言われています。これは、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねられたけれども、その使命が完全には果たされていないということを示しています。 このことを受けて、9節、10節には、 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。 と記されています。9節の、 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。 という御言葉は、7節に引用されています、 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 という詩篇8篇5節前半の御言葉を受けています。 さらに、9節の続きには、 イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。 と記されています。これは、7節、8節に引用されています、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。 という詩篇8篇5節後半と6節後半の御言葉を受けています。 このように、 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。 という御言葉は、まことの人となって来られたイエス・キリストが、詩篇8篇5節、6節に記されている、創造の御業において神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられた人として来られて、歴史と文化を造る使命を成就されたということが示されています。 ここでは、イエス・キリストが「栄光と誉れの冠をお受けになりました」と言われていることは、「死の苦しみのゆえ」のことであると言われています。そうしますと、これは、イエス・キリストが私たちご自身の民の罪を贖ってくださるために、十字架につけられて死なれたことと、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことを指しています。これは、ピリピ人への手紙2章8節、9節に、 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 と記されていることに当たります。 これには1つの問題があります。すでにお話ししましたように、ヘブル人への手紙2章7節に引用されています、 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 という詩篇8篇5節の御言葉は、神さまが創造の御業において、人を神のかたちにお造りになったことを述べているのであって、イエス・キリストが栄光を受けて死者の中からよみがえられたことに当たることを述べているのではありません。 けれども、これは引用が間違っているのではなく、大切なことを示しています。 イエス・キリストは、罪のない方であられました。私たちは自らのうちに罪を宿している者として、神のかたちが損なわれている者です。しかし、イエス・キリストは真の意味で神のかたちであられる方、その意味で「第2のアダム」として来てくださいました。それで、イエス・キリストはすでに「栄光と誉れの冠」を受けた方でした。 そのイエス・キリストが、十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして、「栄光と誉れの冠」をお受けになったのです。これは、最初の人アダムが神である主のみこころに完全にしたがっていたなら受けていたであろう、より充満な「栄光と誉れの冠」をお受けになったということを意味しています。これは、先ほど引用しましたサンヘドリンでのあかしの中でイエス・キリストが、 今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き とあかしされたことに当たります。 このように、十字架にかかられて私たちご自身の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストは、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことを、真の意味で成就し、完成してくださいました。 このことについてはさらにお話ししなければなりませんが、私たちはこのようにして歴史と文化を造る使命を成就してくださった栄光のキリストにあって、新しい時代の歴史と文化を造る使命を委ねられています。 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの最初の3つの祈りは、そのような新しい時代の歴史と文化を造る使命の自覚とともに祈るものです。このような歴史的な使命について、私たちは十分な自覚をもって歩んできたとは言い難いところがあります。その意味で私たちは主の御前に「負いめ」を負っているものです。それで、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈るとともに、その新しい時代の歴史と文化を造る使命の実現のために祈り続けたいと思います。 |
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