(第166回)


説教日:2008年10月5日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 きょうも、主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、この祈りに出てくる「負いめ」について考えるためにいくつかのことをお話ししてきました。そして、この数週間は、神さまが創造の御業において、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人にお委ねになった歴史と文化を造る使命のことをお話ししました。
 先週は、この歴史と文化を造る使命は、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人の心に記されている律法に従って、自分に委ねられたものたちに注ぐことを中心として果たされるものであるということをお話ししました。神のかたちに造られた人の心に記されている律法は、契約の神である主を愛し、契約共同体の隣人を愛することに集約され、まとめられます。そのようにして表されている愛が、さらに、神さまがお造りになって人に委ねてくださった、すべてのものに向けて注がれることによって歴史と文化を造る使命が果たされるということです。その意味で、歴史と文化を造る使命は、神のかたちに造られた人が自らの本質的な特性である愛を表現する機会、その愛を現す具体的な状況を生み出すものです。
 神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命が委ねられたことは、創世記1章28節に、

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(新改訳第3版)

と記されています。
 この歴史と文化を造る使命は、神さまの天地創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねられたものですので、神のかたちに造られた人にとって最も基本的な使命です。
 この使命について詩篇8篇5節、6節には、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されています。
 この「あなた」は1節において、

 私たちの主、主よ。
 あなたの御名は全地にわたり、
 なんと力強いことでしょう。

と讚えられている、契約の神である主、ヤハウェです。
 5節の、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

という御言葉は、契約の神である主が人を神のかたちにお造りになったことに触れるものです。
 ここでは、主が神のかたちに造られた人に「栄光と誉れの冠をかぶらせました」と言われています。この「栄光と誉れ」は、本来は造り主にして歴史を治めておられる主に帰せられるものです。
 詩篇29篇1節、2節には、

 力ある者の子らよ。主に帰せよ。
 栄光と力とを主に帰せよ。
 御名の栄光を、主に帰せよ。
 聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。

と記されています。ここに出てくる「」は契約の神である主、ヤハウェです。その主に「栄光」を帰せよと言われています。これに続く部分においては、主が創造の御業を遂行された方として、すべてのものを治めておられとともに、歴史の主として救いとさばきの御業を遂行され、ご自身の民を顧み祝福されることが告白されています。そのすべてにおいて、「栄光」が主に帰せられるというのです。
 また、同じように、主が創造の御業を遂行された方としてすべてのものを治めておられることを歌うとともに、歴史の主として救いとさばきの御業を遂行されることにも触れている詩篇104篇の1節には、

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。
 あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。

と記されています。この最後の、

 あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。

という御言葉の中に出てくる「威光」と訳された言葉(ハーダール)が、8篇5節において、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

と言われているときの「誉れ」と訳された言葉です。
 また、主がお立てになったメシヤ的な王とその支配のことを述べている詩篇21篇5節には、

 御救いによって彼の栄光は、大きい。
 あなたは、尊厳と威光を彼の上に置かれます。

と記されています。ここでは、主が王に「栄光」と「尊厳」と「威光」(8篇5節の「誉れ」)を与えられたと言われています。29篇1節と104篇1節において主に帰せられるべきものとされている「栄光」と「尊厳」と「威光」が、メシヤ的な王にも与えられています。
 これらのことから、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

という御言葉は、主が人を神のかたちにお造りになったということに触れるものですが、特に、人をすべてのものをお造りになって、すべてのものを治めておられる歴史の主としての神さまの「栄光と誉れ」にあずからせてくださっていることが告白されていることが分かります。
 このことは、6節において告白されていることへとつながっていきます。そこでは、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていて、神さまが神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが告白されています。
          *
 この詩篇8篇5節、6節に記されている、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

という御言葉について、さらに2つのことに注目したいと思います。
 第1のことは、この詩篇8篇5節、6節に記されている御言葉は、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになって、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねられたということだけを述べているのではないということです。
 どういうことかと言いますと、ここに記されていることは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後におけることを記しているということです。そのことは、2節において、

 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、
 力を打ち建てられました。
 それは、あなたに敵対する者のため、
 敵と復讐する者とをしずめるためでした。

と述べられているから分かります。
 ここには、「あなたに敵対する者」や「敵と復讐する者」が出てきます。ここに記されているような主に敵対する者たちは、神のかたちに造られた人が、契約の神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後に現れてきました。このことから、詩篇8篇は神のかたちに造られた人が、主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の状況を記していることが分かります。それで、5節、6節に記されている、人が神のかたちに造られたものであり、造り主である神さまから歴史と文化を造る使命を委ねられたものであるということも、人が主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後においても変わっていないということが分かります。
 人が主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後においても神のかたちであるということは、少し分かりにくいかもしれません。
 神さまは創造の御業において人を神のかたちにお造りになりました。それで、人がどのようなものであるかということの第1にして最も大切なことは、神さまが神のかたちにお造りになったものであるということです。このことは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったからといって、変わることはありません。
 「腐っても鯛」という言葉があります。この言葉の主旨は、優れたものは、いたんでも、それなりの価値をもっているということを表しています。この言葉は、鯛が腐ってしまっても、鯛であることには変わりがないということを踏まえています。これと同じように、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、人の本性が腐敗してしまい、神のかたちとしての栄光と尊厳性が損なわれてしまいました。しかし、人が神のかたちに造られているということと、そのゆえに人は神のかたちであるということには変わりがありません。
          *
 人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後にも、人は神のかたちである、ということを示す御言葉をいくつか見てみましょう。
 神さまはノアの時代に、大洪水によって、人を初めとして地に棲むすべての生き物たちをおさばきになりました。洪水後のことを記している創世記9章5節、6節には、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
 人の血を流す者は、
 人によって、血を流される。
 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

という、神さまの御言葉が記されています。ここでは、

 神は人を神のかたちに
 お造りになったから。

ということに基づいて、人のいのちを奪うことが禁止されています。これは、洪水によるさばきが執行された後のことですので、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落した後のことです。それで、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落した後にも、人が神のかたちに造られていること、そのゆえに、神のかたちであるということが変わっていないことを示しています。
 同じことは、ヤコブの手紙3章9節、10節に、

私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

と記されていることにも当てはまります。ここで「神にかたどって造られた人」と言われているのは、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人のことです。
 このように、聖書は、人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていても、神のかたちに造られたものであり、それゆえに、神のかたちであるということを示しています。(これは神学的には、人が神のかたちに造られているということは「形而上的・心理的なこと」であるので、人の罪による堕落によっても変わることがないということです。)
          *
 同じことは、神さまが神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことにも当てはまります。造り主である神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになったので、人が人であるかぎり、神のかたちであることは変わることがありません。同じように、神さまが創造の御業において神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねられたので、人が人であるかぎり、歴史と文化を造る使命を委ねられていることは変わることがありません。
 もう一度、ノアの時代の大洪水によるさばきを取り上げます。このさばきは、神さまに対して罪を犯して、その罪を徹底化させた人類だけでなく、地に棲むすべての生き物にも及んでいます。それは、神さまが神のかたちに造られた人にお委ねになった歴史と文化を造る使命によって、すべての生き物が神のかたちに造られた人と一体にあるものとされたからです。その意味で、ノアの時代の大洪水によるさばきは、歴史と文化を造る使命をめぐるさばきです。また、このさばきはそれまでの歴史全体をさばくものであり、その意味で終末的なさばきでした。
 とはいえ、それは、古い契約の下での地上的な「ひな型」としての意味をもっており、やがて来たるべき、真の終末におけるさばきをあかしするものでした。その終末的な意味をもったさばきが執行されたとき、そのさばきを通って救われたのがノアとその家族です。ノアだけがさばきを経験しなかったのではなく、さばきとしての洪水を経験したのですが、神さまが備えてくださった救いの手段である「箱舟」によって、そのさばきから救われたのです。
 このことは、神さまが備えてくださった救いについて大切なことを教えています。私たちの救いは、私たちの罪に対するさばきからの救いですけれども、私たちの罪に対するさばきが執行されなくなるということではありません。私たちの罪に対するさばきは執行されるのですが、神さまが備えてくださった贖い主、御子イエス・キリストが、十字架にかかってそのさばきを、私たちに代わって受けてくださったということです。それで、私たちは自分の罪に対するさばきを受けることはないということになります。
 話を大洪水によるさばきのことに戻しますと、ノアとその家族だけが大洪水を通って救われたのではありません。地に棲むあらゆる種類の生き物たちもノアとの一体において救われました。このことも、神さまが神のかたちに造られた人にお委ねになった歴史と文化を造る使命によって、すべての生き物が神のかたちに造られた人との一体にあるものとされたことに基づいています。
 このように、ノアの時代の大洪水によるさばきと救いは、創造の御業において神さまが神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命が、人類の堕落の後にも、人に委ねられた使命として残っていることを示しています。
          *
 先ほどは、神さまが神のかたちに造られた人のいのちを守ってくださることにかかわる戒めが記されている創世記9章5節、6節を引用しましたが、それは、9章1節〜7節に記されています神さまの御言葉の中に出てきます。
 1節、2節には、

それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、―― 地の上を動くすべてのもの―― それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。

と記されています。
 ここには、神さまが大洪水によるさばきの後、箱舟から出てきた「ノアと、その息子たちを祝福して」くださったことが記されています。
 この神さまの祝福の御言葉は、

 生めよ。ふえよ。地に満ちよ。

という言葉で始まり、7節の、

 あなたがたは生めよ。
 ふえよ。地に群がり、
 地にふえよ。

という言葉で結ばれています。これはインクルーシオという構成の仕方で、神のかたちに造られた人のいのちへの祝福を強調しています。
 この神さまの祝福の御言葉は、1章28節に、

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されている、神さまが神のかたちに造られた人を祝福して、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことを反映しています。
 先ほどお話ししましたように、ノアの時代の大洪水によるさばきは、地上的な「ひな型」ではありましても、終末的なさばきとしての意味をもっていました。それで、このさばきによって、それまでの人類の歴史の全体がさばかれたということができます。そして、洪水によるさばきを通って救われたノアとその家族、さらに、ノアとの一体において箱舟に入って救われた生き物たちによって、新しい歴史が始まることになりました。その新しい歴史の初めにおいて、神さまは歴史と文化を造る使命を更新してくださったのです。
 そして、詩篇8篇6節の、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

という御言葉は、そのようにして更新された歴史と文化を造る使命が、天地創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命と同じものであることを示しています。
 このようにして、神さまは、地上的な「ひな型」としてのノアの時代の大洪水によるさばきをとおして、終りの日に関して、いくつかのことを示してくださっています。具体的には、終りの日には人類の歴史全体がさばかれるようになること、また、そのさばきは歴史と文化を造る使命を巡るさばきであること、そして、そのさばきを通って救われた者たちによって、新しい時代の歴史が造られるようになるということです。ただ実際には、そこに地上的な「ひな型」としての限界がありましたので、さばきを通って救われた者たちの罪がまったくきよめられることはありませんでした。それで、彼らによって造られた「新しい歴史」は、人間の罪の結果がさまざまな形で現れてくることになりました。
          *
 詩篇8篇5節、6節に記されている御言葉について注目したい第2のことは、6節においては、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命が、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われているということです。
 ここで、

 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていることは、その当時の発想による表現ですが、私たちには少し分かりにくい言い方です。けれども、これは、ヘブル詩の特徴である並行法による表現で、この場合には、その前で、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、

と言われていることと同じことを、別の言い方で述べたものです。それで、ここでは、「足の下に置く」ということと「治める」ということは同じことを意味しています。
 この場合、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、

という御言葉で言われていることと、

 万物を彼の足の下に置かれました。

という御言葉で言われていることには違いがあるのではないかという疑問が出されるかもしれません。一方では「あなたの御手の多くのわざを」と言われているのに、もう一方では「万物を」と言われているからです。
 実は、これは新改訳の翻訳の問題です。「あなたの御手の多くのわざを」の「多くの」という言葉はヘブル語の原文にはありません。それは「あなたの御手のわざ」が複数形であることを示すために加えられた補足です。
 実際には、これに続いて、

 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていることから分かりますように、神さまはご自身の「御手のわざ」のすべてを、神のかたちに造られた人に委ねられたのです。それで、ここでは「多くの」という言葉を補う必要はない、というより補わないほうがいい思われます。(もっとも、ヘブル語においては「多くの」という言葉が、文脈からの判断によって「すべての」という意味を伝えることがあります。とはいえ、日本語の「多くの」という言葉には、そのような意味合いはありませんので、原文にない「多くの」という言葉を補わないほうがいいのではないかと思われます。)
 いずれにしましても、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

という御言葉は、神さまが創造の御業において、神のかたちに造られた人に、ご自身の「御手のわざ」のすべてをお委ねになったということを示しています。つまり、歴史と文化を造る使命は、神さまがお造りになった「すべてのもの」を治める使命であるということです。
          *
 これら2つのことから、神さまが創造の御業において、人を神のかたちにお造りになったこと、そして、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことは、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後においても変わることがないことが分かります。また、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命は、神さまご自身の「御手のわざ」のすべてを治める使命であったということが分かります。
 人はすべて、神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられたものです。そのようなものとして、造り主である神さまに対して、歴史と文化を造る使命を果たす責任を負っています。そのことは今日においても変わっていません。ノアの時代の大洪水による終末的なさばきが、地上的な「ひな型」としてあかししていますように、終りの日における、栄光のキリストによるさばきは、この歴史と文化を造る使命をめぐるさばきです。
 このことに関しては、さらに、御言葉に基づいていろいろなことを考えなければなりませんが、ここでいったんお話を閉じることにします。
 私たちは、神さまから歴史と文化を造る使命を委ねられている者として、それに十分に応ええていない「負いめ」を負っていることを告白しないではいられません。歴史と文化を造る使命に対してはほとんど関心を払わないできたという現実があります。それ以上に、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、救われている者として新しい時代の歴史を造る使命を負っているのに、この世、この時代の歴史を造ってしまっているという現実もあります。このような私たち自身の悲しむべき現実を前にしたときに、栄光のキリストご自身が、私たちを導いてくださって、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈らせてくださることの恵みを覚えます。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第165回)へ戻る

「主の祈り」
(第167回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church