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説教日:2008年9月28日 |
このことと関連して、先々週取り上げましたいくつかのことに触れてから、さらにお話を進めていきます。 創世記二章七節には、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 と記されています。ここに記されていますように、神のかたちに造られた人は、造られたその時から、神である主のご臨在の御前にあり、そこにご臨在される主の御顔を仰ぐものでありました。これが神のかたちに造られた人にとっての最初の事実であり、最も大切なことです。神のかたちに造られた人は神である主のご臨在の御前にあって、主の愛を受け止め、愛をもって主に応答する存在であるのです。それこそが、神のかたちに造られた人のいのちの本質です。神のかたちに造られた人はこのようなものとして、神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命を遂行するものでした。 また、二章一五節には、 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されています。ここには、神のかたちに造られた人が、 地を従えよ。 という使命を果たしている様子が記されています。神のかたちに造られた人は、神さまが豊かな可能性を秘めたものとしてお造りになった「地」を耕し、そこに生えているさまざまな植物の手入れをし、それらが豊かな実を結ぶことを助けたと考えられます。 そこでは、人がエデンの園を守ったと言われています。おそらく、それは次のようなことであったのでしょう。神さまのご臨在の豊かさに満ちているエデンの園には、豊かな緑があったと考えられます。しかし、そこに生えている植物は自らの意思をもっていないので、どんどん生えてきてしまって、放っておけばさまざまなものが入り交じってしまって大変なことになってしまったと考えられます。これに対して、神のかたちに造られた人が知恵を尽くして、それぞれの植物がその特性にしたがって、芽生え育つように、手入れをしたということだと考えられます。これも、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人が、その愛に基づくいつくしみを植物たちに注いでいくことに他なりません。 さらに、二章一八節〜二〇節には、 神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。 と記されています。 人が生き物たちに名をつけたということは、神さまから委ねられた使命を遂行するための権威を発揮し、生き物たちとの関係を築いたことを意味しています。 このこととのかかわりで大切なことは、生き物たちに名をつけることが「ふさわしい助け手」を探し求めることの中でなされているということです。「ふさわしい助け手」とは、文字通りには「対応する助けて」という感じの言葉です。〔別の理解もありますが、それには触れないでおきます。)後ほど詳しくお話ししますが、「ふさわしい助け手」とは、人の愛を受け止め、同じように愛をもって人に応答してくれる存在のことです。それで、この時、人はひとつひとつの生き物たちに、自分の愛を注いで、それぞれとの関係を築いたと考えられます。名をつけるということは、犬に「ポチ」という名をつけるというようなことではありません。聖書において「名」は、その名をもつものの本質を表すものです。それで、人が生き物たちに名をつけたことは、その生き物たちの本質的な特性を表示する名をつけたということを意味しています。今日で言う「生物学的な分類」に当たります。それが一つ一つの生き物たちに愛を注ぐことの中でなされたのですが、人が生き物たちの本質的な特性を知るようになるためには、生き物たちの生態を観察する必要があります。当然、そのために一定の時が必要であったと考えられます。 しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。 と記されていることは、人が注いだ愛に対応する愛をもって応答してくれる存在はいなかったということを意味しています。そうではあっても、このことは、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人が生き物たちの名をつけた時に、生き物たちとの関係を築き、生き物たちに自分の愛を注いだということを示しています。これも、神のかたちに造られた人が、 海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という歴史と文化を造る使命を遂行している様子を記しています。 やはり、歴史と文化を造る使命は神のかたちに造られた人が、その神のかたちの本質的な特性である愛を表現することによって遂行される使命です。 そればかりではありません。続く二一節〜二三節には、 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。 「これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。」 と記されています。 これは、神である主が「ふさわしい助け手」としての「女」をお造りになって「人のところに連れて来られた」ことを記しています。 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。 と記されていますように、「女」が人の「あばら骨」から取られたことは人から隠されています。 それは、「女」がどのように造られたかを、人が知ってはならないからではありません。人がそのことを知ってはならないのであれば、このこと自体が啓示されなかったはずです。しかし、私たちはそのことを御言葉の啓示をとおして知っています。 また、このことは人から隠されたのではなく、麻酔のように人から痛みを取るために人が眠らされたので、結果的に、人はそのことを知ることができなかったということでもありません。というのは、ここで御業をなさっておられるのは全能の神である主です。人でさえ「針麻酔」という形で、神さまがお造りになった人の体の仕組みを利用して、意識のあるままで痛みを取り除いて手術をすることができると言われています。神である主が直接的な御業をなさるに当たって、人の痛みをコントロールできないわけがありません。ですから、神である主が人を深い眠りに入れられたのは、「女」が人の「あばら骨」から取られたことを、人から隠すためであったと考えられます。 それにはどのような意味があるのでしょうか。これについては二つのことが考えられます。 一つは、人が最初に出会ったのは一個の人格的な存在としての「女」であるということです。それは、自分の「あばら骨」や肉の塊というようなことでは捉えきることができない、一個の独立した人格としての「女」であるということです。 もう一つのことは、人にとって「ふさわしい助け手」としての「女」に関するの最初の事実は、神である主が連れて来てくださった存在であるということです。 先ほど、二章七節に記されています、 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。 という御言葉から、神のかたちに造られた人にとっての最初の事実は、自分が造られたその時から、神である主のご臨在の御前にあり、そこにご臨在される主の御顔を仰ぐものであるということにあるということをお話ししました。同じように、神のかたちに造られた人にとって、「ふさわしい助け手」としての「女」に関する最初の事実は、神である主が連れて来てくださった一個の人格的な存在であるということでした。 二四節に、 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。 と記されていますように、このことから結婚が始まっています。マタイの福音書一九章四節〜六節には、 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」 と記されています。神である主が人のために「ふさわしい助け手」としての「女」をお造りになって、人のところに連れて来てくださったので、人は一個の人格としての「女」と出会うことができました。それで、結婚は「神が結び合わせたもの」としての意味をもっています。 これには、ひとつの問題があります。それは、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。 という人の言葉をどのように理解するかということです。 この言葉から、人は「ふさわしい助け手」としての「女」が自分から取られた「あばら骨」から造られたことを知っていたと考えられます。けれども、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 という言葉は、「女」の素材が自分の「骨」や「肉」であるということを言っているのではありません。 聖書の中にはこれと同じような表現が出てきます。たとえば、創世記二九章一四節には、 ラバンは彼[ヤコブ]に、「あなたはほんとうに私の骨肉です。」と言った。 と記されています。ラバンはヤコブの母であるリベカの兄ですから、ヤコブのおじに当たります。この、 あなたはほんとうに私の骨肉です。 と訳された言葉は、直訳調に訳せば、 確かに、あなたは私の骨であり私の肉です。 となります。これは新改訳が採用している日本語の「骨肉」と同じで「血縁関係」を表しています。同じような表現は、このほか士師記九章二節、サムエル記第二・五章一節、一九章一二節、一三節などに出てきます。 このことから、創世記二章二三節に記されている、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 という言葉は、「女」が造られた素材のことを言っているのではなく、一個の人格的な存在である「女」との一体感を表明していると考えられます。もちろん、その一体感の根底には、神である主が「人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ」られたという事実があります。けれども、人はその事実を知ったから「女」とひとつであると考えたのではなく、神である主が連れて来てくださった「女」と出会って、実際に、彼女が自分の愛を受け止めて、同じように愛をもって応答してくれたことにより、彼女との一体感を感じたのだと考えられます。 ですから、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 という言葉は、愛において彼女が自分とまったくひとつであるという、愛における一体感を、歌の形で告白しているものであると考えられます。 また、このことから、先ほど触れましたように、人にとって「ふさわしい助け手」とは、人の愛を受け止め、同じように愛をもって人に応答してくれる存在のことであると考えられるのです。 これらのことからさらに考えられることは、人は「女」を見た途端に、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 と言ったのではないということです。人が愛を彼女に注いだときに、彼女がその愛を受け止めてくれたばかりか、同じように愛をもって応答してくれたという事実があり、そのことを受けて、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 と言ったのであると考えられます。 このように、人と、神である主が連れて来て出会わせてくださった「女」との交わりが先にあります。その交わりは神である主を中心とした交わりです。そして、その神である主を中心とした愛の交わりの中で、人は「女」の本質を理解したのであると考えられます。それは、私たちの間でも変わっていません。私たちが誰かを真の意味で知ることができるのは、その人との神である主を中心とした愛にある交わりの中においてです。 そうであるとしますと、その神である主を中心とした愛の交わりの中で、神である主が「ふさわしい助け手」としての「女」をどのようにお造りになったかを啓示してくださった可能性があります。そのことは、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 という言葉の「私の骨からの」という言葉や「私の肉からの」という言葉、さらに、これに続く、 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。 という言葉からも察することができます。 そうではあっても、 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 という言葉は、彼女の素材を表明しているのではありません。この時ではないとしても、神である主が人の「あばら骨」から「女」をお造りになったということを、人に啓示してくださったことは確かです。私たちはそのことを啓示の御言葉から知っています。そのことを最初の人、人類のかしらとしての位置にある人自身に隠して、後の時代の人々にだけ啓示してくださったということは考えられません。そのことを知った最初の人にとっては、それは、すでに自分が深く感じている愛における一体感の根底にある、神である主の御業における事実を示していただいたということになったでしょう。「そのような事実があったのか。」というような、深い納得を伴うことであったのでしょう。 同じことは、二三節後半に記されています、 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。 という言葉にも当てはまります。これも、「女」が造られた素材が、「男」の「あばら骨」であったということを述べているのではありません。一個の人格としての「男」と、もう一個の人格としての「女」の関係を述べています。ここで素材のことが問題となっていれば、「人」という言葉(アーダーム)のほうが、その素材である「土」(アダーマー)を思い出させます。けれども、ここでは、素材との関連を暗示しない「男」あるいは「夫」を表す言葉(イーシュ)が用いられ、それと対応する、「女」あるいは「妻」を表す言葉(イッシャー)が用いられています。 「女」あるいは「妻」を表す言葉(イッシャー)は、「男」あるいは「夫」を表す言葉(イーシュ)から派生した言葉ではないと考えられますが、この二つの言葉の間には語呂合わせがあります。これによって、二つの存在の結びつきを感じさせています。 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。 という言葉は、名をつけるという行為で、やはり、歴史と文化を造る使命の遂行にかかわっています。しかも、それは神である主を中心とする愛の交わりの中で遂行されています。このことは、歴史と文化を造る使命の遂行が神のかたちの本質的な特性である愛を表現するものであるということを、この上なく明確に示しています。 そして、このこと、神である主を中心とする愛の交わりの中で歴史と文化を造る使命が遂行されるということから、歴史と文化を造る使命が、神のかたちに造られた人の心に記されている律法を踏まえていることが分かります。 神のかたちに造られた人の心に記されている律法は、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に集約され、まとめられます。これまでお話ししてきました「ふさわしい助け手」としての「女」は、人にとっての最初の「隣人」でした。 これこそ、今や、私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 これを女と名づけよう。 これは男から取られたのだから。 という、人の告白は、まさにその「隣人」を、 私の骨からの骨、 私の肉からの肉。 として、自分自身のように愛したことの表れです。 |
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