きょうも、主の祈りの第5の祈りである、
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
という祈りについてのお話を続けます。これまで、この祈りに出てくる「負いめ」についてお話ししてきました。
先週は、この「負いめ」についてさらに考えるために、創世記1章26節〜28節に記されています、
神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(新改訳第3版)
という御言葉を取り上げました。ここには、神さまが創造の御業において人をご自身のかたちにお造になったこと、そして、人に歴史と文化を造る使命をお委ねになったことが記されています。
この神さまが神のかたちに造られた人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命は、一般に「文化命令」として知られています。けれども、これは、基本的には、文化というより、その文化的な活動を継承していき歴史を造る使命です。
この歴史と文化を造る使命につきましては、すでに、この主の祈りの第2の祈りである、
御国が来ますように。
という祈りとのかかわりで、(82回〜97回にわたって)かなり詳しくお話ししています。さらに、第3の祈りである、
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
という祈りとのかかわりでも、それなりに詳しくお話ししています。それで、いま取り上げています、
私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
という第5の祈りとのかかわりで、もう一度、歴史と文化を造る使命についてお話しすることには、ある種のためらいがあります。
そうではありましても、この第5の祈りとのかかわりで歴史と文化を造る使命についてお話しすることには意味があると考えています。というのは、私たちが主の祈りによって、
私たちの負いめをお赦しください。
と祈るときの「負いめ」は、何よりもまず、私たちをご自身のかたちにお造りになり、私たちに歴史と文化を造る使命を委ねてくださった神さまに対して負っている「負いめ」であるからです。
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私たちを含めて、この世界とその中のすべてのものは、それ自体何の意味もない素粒子の混ざり合いの中から、何らかの拍子に発生したものではありません。発生しなくてもよかったのに、たまたま発生してしまった存在ではありません。この世界とその中のすべてのものは造り主である神さまのみこころにしたがって造られたものです。それで、この世界に存在するすべてのものは、神さまの御前に意味と価値があるものとして造られています。もちろん、物質的なものは物質を構成する最小単位である素粒子のレベルから、さまざまな構成によって成り立っています。そのことを否定するのではありません。ここで言っているのは、神さまがそのようにして成り立っている物質的な世界を、ご自身のみこころにしたがって、お造りになったということです。
この世界とその中のすべてのものが発生しなくてもよかったのに、たまたま発生しただけのものであるというのであれば、この世界とその中のすべてのものは存在しなくてもよかったものであるということになります。必ずしも存在しなければならないものではない、あってもなくてもよいものであるということになります。言い換えますと、その意味と価値の根拠を突き詰めていくと、最後には「たまたま」、「偶然に」ということになってしまい、結局、その根拠はないということになります。存在するだけの意味も価値もないということになります。
けれども、聖書はそのような考え方を断固として退けています。この世界とその中のすべてのものは、生きておられるまことの神さま、それゆえにご自身の明確なみこころをもっておられる神さまが、そのみこころにしたがって造り出されたものであると教えています。この世界とその中のすべてのものは造り主である神さまによって、存在すべきものとして造られているのです。
この世界とその中のすべてのものには、このような意味と価値があります。それは、造り主である神さまが、ご自身がお造りになったこの世界とその中のすべてのものに与えてくださった意味と価値です。当然、神さまご自身はその意味と価値をご存知であられます。けれども、神さまがお造りになったこの世界の中にあるものでその意味と価値を汲み取ることができるのは、神のかたちに造られた人です。神のかたちに造られた人は、神さまがお造りになったこの世界とその中のすべてのものに与えてくださった意味と価値を汲み取り、それを明らかにしつつ、神さまを造り主として礼拝することを中心として、神さまの栄光を現す使命を負っているのです。これが神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命です。
その意味や価値は、この世界においては、すでに決まっていて変わらないのではありません。神さまは、この世界を歴史的な世界としてお造りになりました。このことは、神さまがこの世界をさまざまな可能性のあるもの、歴史的に発展し、神さまご自身が定められた目的に至る世界であるということを意味しています。
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その目的とは、造り主である神さまの栄光がより豊かに現されるようになるということです。神さまが創造の御業によって造り出された世界は、造り主である神さまの栄光を豊かに現す世界です。そのような状態から出発して、さらに豊かに神さまの栄光を現す世界に至るということです。そして、そのような状態となる世界は、聖書の中では、「新しい天と新しい地」として啓示されており、約束されています。
旧約聖書のイザヤ書65章17節〜25節には、
見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。
先の事は思い出されず、心に上ることもない。
だから、わたしの創造するものを、
いついつまでも楽しみ喜べ。
見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、
その民を楽しみとする。
わたしはエルサレムを喜び、
わたしの民を楽しむ。
そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、
寿命の満ちない老人もない。
百歳で死ぬ者は若かったとされ、
百歳にならないで死ぬ者は、
のろわれた者とされる。
彼らは家を建てて住み、
ぶどう畑を作って、その実を食べる。
彼らが建てて他人が住むことはなく、
彼らが植えて他人が食べることはない。
わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、
わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を
存分に用いることができるからだ。
彼らはむだに労することもなく、
子を産んで、突然その子が死ぬこともない。
彼らは主に祝福された者のすえであり、
その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、
彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
狼と子羊は共に草をはみ、
獅子は牛のように、わらを食べ、
蛇は、ちりをその食べ物とし、
わたしの聖なる山のどこにおいても、
そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」
と主は仰せられる。(新改訳第2版、以下同じ)
と記されています。
この個所についてはいろいろなことが考えられますが、今お話ししていることにかかわることに限ってお話しします。この65章17節〜25節に記されていることは、これに続く66章1節〜24節に記されていることと結びついて、イザヤ書の最後の部分をなしています。その65章17節〜66章24節の初めの部分である65章17節では、
見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。
先の事は思い出されず、心に上ることもない。
と言われており、終りの部分にある66章22節では、
わたしの造る新しい天と新しい地が、
わたしの前にいつまでも続くように、
―― 主の御告げ。――
あなたがたの子孫と、あなたがたの名も
いつまでも続く。
と言われています。この部分の初めと終わりに「新しい天と新しい地」のことが出てきます。これはインクルーシオという表現形式で、これによって、このイザヤ書の最後の部分である65章17節〜66章24節の主題が、契約の神である主が創造される「新しい天と新しい地」であることが示されています。
そして、この65章17節〜66章24節においては、救いとさばきについての預言が交互に記されています。具体的には、先ほど引用しました65章17節〜25節には救いの御業のことが記されています。続く66章1節〜6節には、時間の関係で引用することはいたしませんが、主のさばきのことが記されています。そして、66章7節〜14節には、主の救いの御業が記されています。続く、66章15節〜17節には主のさばきのことが記されています。最後に、66章18節〜24節には、主の救いの御業のことが記されています。このようにして、この個所には、歴史のクライマックスとしての終りの日になされる主の救いとさばきの御業が預言的に記されていますが、救いの御業についての御言葉から始まり、救いの御業についての御言葉をもって終っています。
このように、契約の神である主が、ご自身に対して罪を犯し、ご自身に敵対する者たちに対してさばきを執行されることと、ご自身の契約の民のために救いの御業を成し遂げてくださることを経て、「新しい天と新しい地」を創造してくださることが示されています。言うまでもなく、主が成し遂げてくださる救いの御業は、52章13節〜53節12節に記されています「苦難のしもべ」によって成し遂げられる、ご自身の民の罪の贖いに基づいてなされます。
そのような意味をもっている預言の言葉を導入するのが、先ほど引用しました65章17節〜25節です。ここには、イザヤ書においてこれまで語られてきたさまざまなことが取り上げられています。しかしここでは、ただ単に、それらのことをまとめているのではなく、それらのすでに取り上げられてきたことが結集されて、そのクライマックスとも言うべきことに至ることが記されています。それが、契約の神である主が「新しい天と新しい地」を創造されるということであるのです。
ここに記されていることは、古い契約の下にある「地上的なひな型」に接して、それになじんでいる人々に対して語られた預言の言葉としての限界があります。それで、ここでは「地上的なひな型」が表象として用いられています。そうではあっても、ここにおいては、主が創造される「新しい天と新しい地」が、最初に主が創造された天と地と深くかかわっていることが示されています。「地上的なひな型」が表象として用いられていることが、かえって、そのつながりを印象づけることになっています。
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新約聖書においては、この「新しい天と新しい地」のことがさまざまなかたちで啓示されていますが、その最も明白な啓示は黙示録21章、22章に記されています。21章1節〜5節には、
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」
と記されています。
ここに出てくる「新しいエルサレム」は、先に引用しましたイザヤ書65章17節〜25節にも出てきた「エルサレム」を思わせます。イザヤ書では地上的なひな型としての「エルサレム」ですが、黙示録ではその本体である「エルサレム」が黙示文学的に描かれています。また、
もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。
という言葉は、イザヤ書65章17節〜25節に記されていたこと、たとえば、せっかくの収穫や建築が侵略者によって略奪されてしまうこと、病や思いがけない死別による悲しみなどがなくなることなどが、より凝縮された形で、また、完全な回復として出てきているとも言えます。
この黙示録における「新しい天と新しい地」の描写にも、たとえば、21章7節、8節には、
勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である
と記されていますし、26節、27節には、
こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、はいることができる。
と記されています。黙示録においても、「新しい天と新しい地」は契約の神である主の救いとさばきの御業を経て創造されることが示されています。
言うまでもなく、「小羊のいのちの書に名が書いてある者」とは、「小羊」すなわち、御子イエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった贖い主として信じて受け入れている者たちのことです。御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずかり、罪を赦していただいたばかりか、栄光を受けて死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストの復活にあずかり、その復活のいのちによって新しく生まれている者たちのことです。
また、22章1節〜5節には、
御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
と記されています。この御言葉も「新しい天と新しい地」のことを記しているのですが、ここで用いられているのは「エデンの園」の表象です。しかも、エデンの園がより栄光に満ちた契約の神である主のご臨在の場であり、そのゆえに、豊かな祝福にあふれた状態にあることが示されています。エデンの園においては「いのちの木」は園の中央にある1本でしたが、「新しいエルサレム」においては「いのちの水の川」の両岸にありました。これによって、「新しい天と新しい地」が、最初の創造の御業によって造られた「天と地」と無関係のものではなく、むしろその完成したものであることが示されています。
*
このように、聖書の最初の書である創世記1章1節に、
初めに、神が天と地を創造した。
と記されています、神さまの天地創造の御業と、最後の書である黙示録21章1節に、
また私は、新しい天と新しい地とを見た。
と記されています、神さまの再創造の御業の間には一貫性があります。これは、神さまが最初の創造の御業において、この世界を歴史的な世界としてお造りになったことから来ています。神さまがこの世界をご自身の栄光を現す世界、そのゆえに意味と価値のある世界としてお造りになりました。それで、詩篇19篇1節に、
天は神の栄光を語り告げ、
大空は御手のわざを告げ知らせる。
と記されていますように、また、ローマ人への手紙1章20節に、
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められる
と記されていますように、最初の創造の御業によって造られた世界は、造り主である神さまのご栄光を明確に映し出す世界です。そうではあっても、神さまは、この世界を、最初に造られた状態のままであり続ける世界としてお造りになったのではなく、ご自身の栄光をより豊かに現す世界となるものとしてお造りになったのです。
そのことは、先ほど引用しましたイザヤ書65章17節〜25節、さらにはそれに続く66章1節〜24節や、黙示録21章1節〜22章21節に記されている御言葉によって示されています。これらの御言葉は、また、その神さまのより豊かな栄光に満ちた世界、すなわち、「新しい天と新しい地」が、神さまの救いとさばきの御業をとおして、必ず実現することが示されています。
天地創造の御業において神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられた人は、このような神さまのより豊かな栄光に満ちた世界に至る歴史を造る使命を委ねられていたのです。
ただ、実際には、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったために、そのような歴史が造られる可能性がなくなってしまいました。それに対して、神さまはご自身の御子を贖い主として立ててくださり、福音の御言葉のうちにその約束を与えてくださいました。これが旧約聖書の中心主題です。ヨハネの福音書5章39節に記されています、
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
というイエス・キリストの教えに示されているとおりです。
そして、父なる神さまは、今から2千年前に、御子イエス・キリストを、私たちと同じ姿において、この世に遣わしてくださり、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、ご自身の民を死と滅びの中から贖い出してくださいました。
そればかりではありません。栄光を受けて死者の中からよみがえられた御子イエス・キリスト、すなわち、栄光のキリストは、その成し遂げられた贖いの御業によって、「新しい天と新しい地」が造り出されるために必要な土台を築いてくださいました。実際に、いま、栄光のキリストは父なる神さまの右の座に着座しておられます。そして、「新しい天と新しい地」として完成するに至る歴史を、私たち主の契約の民を通して、造り出してくださっています。これを、「新しい時代」の歴史と呼ぶことができます。
それで、私たちは、父なる神さまが栄光のキリストにより、私たちをとおして「新しい時代」の歴史をお造りにくださることを信じて、
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
と祈るのです。
それと同時に、私たちは父なる神さまによって「新しい時代」の歴史を造る使命を委ねられているのですが、罪の自己中心性のために、そのような使命に対して無関心であったり、かえって、この世の歴史に加担するような生き方をしてしまうこともしばしばです。そのような現実を覚えて、
私たちの負いめをお赦しください。
と祈らないではいられません。そして、その「負いめ」を赦していただいた者として、新たな思いにおいて、また、切なる願いとして、再び、
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
と祈ることへと帰っていきます。このように、主の祈りの前半の祈りと後半の祈りには、ある種の循環があります。
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