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説教日:2008年9月14日 |
1章26節には、神さまが人をお造りになるに当たって、 さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。 と言われたことが記されています。ここでは、主語が「われわれ」となっています。この場合の「われわれ」は、神さまご自身のうちに人格的な複数性があることの反映であると考えられます。そして、このことは、後の啓示、特に新約聖書の啓示が与えられたことによって明確になった、神さまは、三位一体の神であられるということと調和しています。 すでにお話ししたことの繰り返しになりますが、神さまが唯一の神であられることは、神さまの存在においては、分割することができない、ただ1つの本質あるいは実体がある、ということを意味しています。そして、三位ということは、その唯1の神さまは、御父、御子、御霊の3つの位格において存在し、御父、御子、御霊はそれぞれがまことの神であられるとともに、それぞれが位格的に区別されるということを意味しています。御父はまことの神であられますので、神の本質あるいは実体をもっておられます。御子はまことの神であられますので、神の本質あるいは実体をもっておられます。御霊はまことの神であられますので、神の本質あるいは実体をもっておられます。 26節に記されている、 さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。 という御言葉は、ただ、神さまご自身のうちに人格的な複数性があるということを示しているだけではありません。その複数の人格の間に、互いに語り合う交わりがあることが示されています。ヨハネの手紙第1・4章16節に、 神は愛です。 と記されていますように、神さまの本質的な特性は愛です。それで、この交わりは愛にある交わりです。そして、この愛は神さまの愛ですから、無限、永遠、不変の愛です。神さまは永遠に、完全な愛の交わりのうちにあられ、まったく充足しておられます。 これを三位一体の神さまにかかわらせて言いますと、御父、御子、御霊の間には無限、永遠、不変の愛の交わりがあるということです。キリスト教会は歴史の中で、大きく東方教会と西方教会に分かれました。そして、西方教会の中でローマ教会(カトリック教会)とプロテスタント教会に分かれました。私たちは西方教会の伝統の上に立っていますが、その基礎を築いた一人であるアウグスティヌス流に言いますと、御父と御子が御霊によって無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあるということになります。ただ単に、神さまに愛という本質的な特性があるというだけではなく、その無限、永遠、不変の愛が常にまた永遠に表現されているのです。神さまが一位一体で/あられたら、神さまには無限、永遠、不変の愛を現す相手がいなかったということになります。しかし、神さまは三位一体の神さまです。神さまは無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあられ、愛においてまったく充足しておられます。 このように、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにあられて、まったく充足しておられる神さまが、 さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。 と言われたのです。神さまの本質的な特性が愛であるように、神のかたちの本質的な特性も愛です。もちろん、その愛には違いがあります。神さまの愛は無限、永遠、不変の愛です。それに対して、被造物である人間の愛は、有限であり、時間的に経過しながら変わっていきます。人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後には、その愛は自己中心的に歪んでしまっており、しばしば憎しみに変わることさえあります。人が罪によって堕落する前であっても、その愛は有限なものであり、時間の経過とともに変わっていくものでした。そのような愛をいくら寄せ集めたとしても、決して無限の愛とはなりません。このような違いを踏まえたうえで言えることですが、神のかたちの本質的な特性は愛です。そして、人が神のかたちに造られたのは、造り主である神さまの本質的な特性である愛を映し出すためです。その中心、神さまの本質的な特性である愛を映し出すことの中心は、神さまの愛を受け止め、神さまとの愛にある交わりに生きることにあります。 このようなことから、 さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。 という神さまの御言葉は、神さまがご自身の愛を人にに向けて表現されたことであると理解することができます。それで、神のかたちに造られた人の存在の意味は、造り主である神さまの愛を受け止め、神さまとの愛にある交わりに生きることにあると言うことができます。先ほどは「神は愛です。」というヨハネの手紙第1・4章16節の一部を引用しましたが、その全体は、 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。 となっています。また、同じヨハネの手紙第1・4章8節においても「神は愛です。」と言われていますが、それを7節からのつながりで見てみますと、そこには、 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 と記されています。詳しい説明は省きますが、これら2つの個所では、神さまの本質的な特性が愛であるということと、私たちが神さまの愛を受け止め、神さまを愛すること、またその愛のうちにあって互いに愛し合うこと、神さまの愛をお互いの間で表現することが深く結びついていることが示されています。 このように、創世記1章26節に、 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」 と記されていることは、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる神さまが、ご自身の愛をご自身の外に向けて、特に、神のかたちに造られた人に向けて表現されたことであると考えられます。 この前にこのことについてお話ししたときには、ヨハネの福音書1章1節〜3節に記されている御言葉に基づいて、神さまの創造の御業自体が、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちに充足しておられる神さまがご自身の愛を外に向けて表現されたことであったということをお話ししました。 それで、 さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。 という神さまの御言葉だけでなく、これに続く、 彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。 という御言葉も、神さまの愛が表現されたことであると考えられます。 いろいろな機会にお話ししてきたことですが、これを、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間の現状を規準として理解してはなりません。そのような理解をしてしまいますと、神さまは神のかたちに造られた人を愛して、この地とすべての生き物を人の手に委ねてくださったので、人はこの地とすべての生き物を自分の思いのままにしてよい、というような理解が生まれてきてしまいます。これは、まったくの誤解です。 これまでお話ししてきましたことに基づいて言いますと、 彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。 という御言葉は、神さまが、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られて、ご自身の愛を受け止めて生きる人に、ご自身がお造りになったこの地とすべての生き物を委ねられたということを意味しています。 愛を本質的な特性とし、永遠に愛において充足しておられる神さまが、ご自身の愛をご自身の外に向けて表現されるために、創造の御業を遂行されました。そして、この造られた世界にあって神さまの愛を受け止める存在として、神さまは人を神のかたちにお造りになりました。神のかたちに造られた人は、その神さまの愛を受け止めて、神さまとの愛にある交わりのうちに生きる者であるのです。 しかし、それで終ってはいません。先ほどお話ししましたように、人は、同じく神のかたちに造られた者として、お互いの間の交わりに生きるものです。それによって、造り主である神さまの本質的な特性が愛であることがあかしされ、神さまのご栄光が現わされます。 しかし、これで終りであるのでもありません。愛を本質的な特性とする神のかたちに造られている人は、さらに、その愛を神さまから委ねられたすべての生き物たちに向けて注いでいくように召されています。ちょうど、神さまが自身の愛を外に向けて表現することによって創造の御業を遂行されたように、神のかたちに造られた人も自らの愛を自分たちの外に向けて表現する形で、神さまがお造りになったこの地とすべての生き物を治めるように召されているのです。 28節には、 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。これは、26節で神さまが、 彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。 と言われたみこころにしたがって、神のかたちに造られた人を祝福してくださったものです。これは一般に「文化命令」と呼ばれていますが、それ以上に歴史を造る使命であるということで、私たちは「歴史と文化を造る使命」と呼んでいます。 神のかたちに造られた人は「地を従えよ。」と命じられて使命を委ねられています。そのような使命を委ねられた人について、2章15節には、 神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 と記されています。地を従えるという使命を委ねられた人が実際に何をしていたかと言いますと、その地を耕していました。地の手入れをし、お世話をしていたのです。 また、2章18節〜20節には、 神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。 と記されています。 これもすでにいろいろな機会にお話ししていますので、結論だけを言いますと、人が生き物たちに名をつけたということは、神さまから委ねられた使命を遂行するための権威を発揮し、生き物たちとの関係を築いたことを意味しています。ここで大切なことは、それが「ふさわしい助け手」を探し求める文脈の中でなされているということです。「ふさわしい助け手」とは、自分の投げかける愛を受け止め、同じように愛をもって応答してくれる存在のことです。それで、この時、人は生き物たちに自分の愛を投げかけたと考えられます。 しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。 と言われていることは、それに対応する愛をもって応答してくれる存在はいなかったということを意味しています。そうではあっても、このことは、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人が生き物たちの名をつけた時に、生き物たちとの関係を築き、生き物たちに自分の愛を注いだということを示しています。これ以後、人はその生き物たちにその愛を注ぎ続けたと考えられます。先ほど触れましたように、人がエデンの園を耕したのも、生き物たちの食料をより豊かに備えるためであった可能性があります。 このように、神のかたちに造られた人には歴史と文化を造る使命が委ねられています。その使命の遂行の中心にあるのは、神のかたちの本質的な特性である愛を現すことです。契約の神である主の愛を受け止め、愛をもって主に応答すること、そして、同じく神のかたちに造られている者として、お互いに愛し合うこと、さらに、自分たちに委ねられている歴史と文化を造る使命にしたがって、この地を神である主のみこころにしたがって治め、すべての生き物に愛を注いでお世話をすることです。 この歴史と文化を造る使命によって、神のかたちに造られた人は、神さまがお造りになったこの被造物世界と1つに結ばれ、そのかしらとしての立場に置かれています。それで、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった時に、被造物世界も虚無に服してしまいました。神である主に対して罪を犯した最初の人アダムに対するさばきを記している3章17節に、 あなたが、妻の声に聞き従い、 食べてはならないと わたしが命じておいた木から食べたので、 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。 と記されていることは、このことを反映しています。 この罪による堕落の結果、人はおのれの罪の自己中心性に縛られ、罪のさばきとしての死と滅びへの道を歩むようになってしまっています。人自身が神のかたちとしての栄光と尊厳性を失ってしまっているのです。そして、その罪の自己中心性から生じた欲望追求のために、お互いに傷つけ合ってしまっているだけでなく、この地を荒廃させ、生き物たちを絶滅に追いやってきました。今日ほど、そのことによる被造物世界の「うめき」が大きくなっている時代はないと言えます。 改めてお話ししますが、これにはいくつかのことがかかわっています。もちろん、主にあっては望みもあります。きょうは、その1つのことに触れておきたいと思います。 私たちはこのような現実に対して、神さまの御言葉の啓示を通して眼を開かれています。私たちはそのような御言葉の啓示の光の下に、今日の世界を見据えます。その私たちが日々に飛び込んでくる悲しむべきニュースをどのように受け止めるでしょうか。私たちはそれに対して、自らの手を洗って、それは私たちには関係がないと言って済ますことができるでしょうか。それはこの世の人たちのしていることであると言って、被害者を装うことができるでしょうか。 私たち自身のうちにも、このような罪の自己中心性があって、被造物のうめきにを増し加えているのではないでしょうか。また、自分たちのことばかりに気を取られて、造り主である神さまから委ねられている被造物に対する使命に対して無関心であり、そのうめきを共にして、神さまの御前にとりなすことを忘れてしまっているのではないでしょうか。 このようなことを思うにつけ、私たちは神さまの御前に大きな「負いめ」を負っていることを感じないではいられません。それで、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈らないではいられません。これはただ、「負いめ」の赦しを願うだけのことではありません。このように祈るのは、私たちが被造物に対する使命を委ねられているということを自覚するからのことです。 |
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