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説教日:2008年9月7日 |
繰り返しになりますが、この17節に記されている、 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。 という言葉には「こういうわけで」という接続詞があって、これが前の部分を受けていることを示しています。それで、この17節の言葉は、その前の13節〜16節に記されていることを受けて記されたものであると考えられます。 そうしますと、そのつながりは何を示しているのでしょうか。もう1度、13節〜16節に記されていることを見てみましょう。それは、 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。 というものでした。 一見すると、これは金持ちの問題を取り上げているように見えます。確かに、これは、 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。 という呼びかけから始まっています。この言葉は商売をしようとしている人々に対して語られた言葉です。また、16節には、 ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。 と記されています。この言葉が示すように「むなしい誇りをもって高ぶって」いるのは金持ちたちのことではないかと思いたくなります。けれども、ここでは、この人々が金持ちであるかどうかは示されてはいません。また、金持ちたちにかかわる問題は、このすぐ後の5章1節〜6節において取り上げられています。それで、金持ちたちは、ここに警告されている問題に陥りやすいけれども、それは金持ちだけの問題ではないと考えたほうがいいと思います。このことは、後ほどお話ししますことからも明らかになります。 また、これは、どこかよその町に行くこと自体や、よその町に行って儲けること自体がよくないと言っているのでもありません。その当時、ユダヤ人で地中海世界のあちこちに行って商売をしている人はかなりの数に上っていたと言われています。使徒の働き18章などに出てくるアクラとその妻プリスキラもそのような人々でした。 ここでヤコブが問題としているのは、14節〜16節に、 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。 と記されていることにあります。 人は「しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧」に過ぎません。そのような人がなおも生きていくことができるのは、そしてさまざまな活動ができるのは、ひとえに主のあわれみの御手によって支えていただいているからです。御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いにあずかって罪を赦され、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれている神の子どもたちはこのことを知っています。それで、本来、神の子どもたちは何をなすにしても、 主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。 と言います。これは、自らの存在のはかなさを告白するだけでなく、主の恵みとあわれみの御手の支えを信じて生きる姿勢を表明するものです。 ところが、 きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。 という人々は、このような計画を主と無関係に立てています。自分が生きていくことができるのも、自分に何かができるのも、ひとえに主の恵みとあわれみの御手のお支えによっているということを考えることもありません。 このような人々に対して、ヤコブは、 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」 と述べています。主を信じていない人々に対してはこのような言い方はなされません。それで、ここでヤコブが警告しているのは、主を信じている人々に対してであると考えられます。主を信じて教会に集い、礼拝をしているのでしょうが、商売のこととなると主との関係を忘れてしまっているということです。それは、うっかり忘れてしまったというだけのことではありません。そのようなことであれば、ヤコブが問題として取り上げることもなかったことでしょう。その人々の基本的な姿勢が、そのようになってしまっているということです。 これは、商売のことに限ったことではありません。礼拝や祈りや讃美などは主との関係においてなされるけれども、仕事のこと、あるいは学びのことは主とは関係がない、せいぜい、まじめに仕事をする、あるいはまじめに勉強をするのがクリスチャンであるというようなことで終ってしまいます。そのようにして、主をいわば「宗教的な領域」に閉じこめてしまうのです。 もちろん、無限、永遠、不変の栄光の主をどこかに閉じこめるというようなことはできません。これは、あくまでも、その人の考え方の中で、主を「宗教的な領域」に閉じこめているということです。これは、「実際的な無神論」と呼ばれるものです。 神である主は天と地とその中のすべてのものをお造りになって、真実にこれを支えてくださっておられる方です。ですから、この世界に造り主である神さまとの関係を離れて存在しているものは1つもありません。また、すべてをお造りになった神さまが人を神のかたちにお造りになって、人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださり、その使命の遂行に必要なさまざまな能力を与えてくださいました。それで、人は、仕事や学びなど、さまざまな文化的な活動を行うことができるのです。ですから、人がなすどのような活動も造り主である神さまとの関係を離れてなすことはできません。 [このような意味での神さまとの関係を神学的な用語を使って言いますと、「形而上的・心理的関係」と呼びます。] 実際には、神のかたちに造られた人は、造り主にして契約の神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。けれども、神である主はその罪に対するさばきを直ちに執行されませんでした。それどころか、ご自身の民の救いのために贖い主を約束してくださいました。その贖い主をとおして、ご自身の民を罪の結果である死と滅びの中から贖い出してくださることを約束してくださったのです。 そして、このことを実現してくださるために、一般恩恵によって、また、一般恩恵に基づいてお働きになる御霊によって、この世界の歴史を保ってくださり、人類がさまざまな文化的な活動をすることができるように支えてくださっています。主の贖いの御業が実現し、完成するようになるまでに歴史が終わってしまえば、主の贖いの御業は実現し、完成することはなくなってしまいます。それで、主は贖いの御業を実現し、完成してくださるためにも、歴史を保ってくださっています。 使徒の働き14章16節、17節には、 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。 というパウロのあかしが記されています。これはルステラの人々へのあかしです。人が大地を耕し、種を蒔き、収穫することができるのは、神さまが日を注ぐ太陽、この豊かな大地、さまざまな実を結ぶ植物、雨を降らせる大気の循環のシステムなどをお造りになり、すべてを真実に保っていてくださるからです。 また、17章24節〜28節にも、 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。 という、、アテネの人々に対するパウロのあかしが記されています。ここでは、 神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。 と記されています。先ほど引用しましたヤコブの手紙4章14節においては、 あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。 と問われていました。それは「すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方」である神さまが与えてくださり、保ち続けてくださっているものです。 [先ほどの神学的な用語を用いて言いますと、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっても、形而上的・心理的関係は変わっていないということです。罪による堕落の後も、すべての人が神さまの御手によって神のかたちに造られたものであり、神さまの御手によって支えられて存在しています。その意味での神さまとの関係(形而上的・心理的関係)を離れて存在しているものは何1つありません。] もちろん、詩篇14篇1節に、 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。 と記されていますように、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人間は、造り主である神さまを認めようとしません。それで、神さまが人に「いのちと息と万物とをお与えになった」ことを認めません。けれども、その人々が認めないからといって、神さまが「すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった」ことと、すべてを真実に保っていてくださっているということ(形而上的・心理的関係)が事実でなくなるわけではありませんし、変わってしまうわけではありません。 ただ、その人の考え方において、造り主である神さまを認めようとしませんし、神さまが人に「いのちと息と万物とをお与えになった」ことを認めようとしていないだけです。その意味では、罪の下にある人と神さまの関係は壊れてしまっています。[このように、罪によって壊れてしまったのは、神学的な用語で言いますと、「認識論的・倫理的関係」です。]それは、神さまと人の間の、本来の、愛にある交わりの関係が壊れて、敵対関係となってしまったということであって、造り主である神さまと、神さまによって造られ、神さまの御手によって支えられている被造物としての人間の関係(形而上的・心理的関係)が壊れてしまったり、なくなってしまったわけではありません。 神である主が約束し、実際に遣わしてくださった贖い主であるイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって罪を赦され、新しく生まれ、イエス・キリストに対する信仰によって義と認められ、子としていただいている主の民は、その心の思いから、すなわち、ものの見方考えからから新しくされました。すべてのことを自分中心に考えて、造り主である神さまを神として認めることもあがめることもなかった状態から、神さまを中心としてすべてのことを考え、生きるようになりました。[これは、認識論的・倫理的関係が本来の姿に回復されたということです。] 残念ながら、そのようにイエス・キリストにあって神の子どもとされている主の民が、「実際的な無神論」に陥ってしまうことがあります。礼拝や祈りや讃美などは神さまとの関係で考えますし神さまを意識してなします。また、道徳的なことも、神さまを畏れて慎みをもって考えますし、振る舞います。けれども、それ以外の仕事や学びなどになると、神さまは背後に追いやられてしまうか、まったく視野の外に置かれてしまうわけです。せいぜい、それらがうまくいくようにと祈るだけであって、仕事や学びそのものを神さまを中心として考えないし、そのすべてが神さまの御手のお支えによるものと考えないということになってしまいます。これが、ヤコブが、 「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。 と述べている人々の姿です。その計画も実行もすべて自分でします。神さまは出番があるとしても、その自分を助ける「補助者」です。実質的には、自分が主人であり、神さまは自分を助ける「しもべ」とされています。 ヤコブは、4章16節において、 ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。 と述べています。ここで「むなしい誇り」と訳されている言葉(アラゾネイア)は「誇り」を表す言葉ですが、新改訳は「むなしい」を補って訳しています。この言葉は新約聖書では、こことヨハネの手紙第1・2章16節に出てくるだけです。そこには、 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。 と記されています。ここで「暮らし向きの自慢」の「自慢」と訳されている言葉がこれです。そして「暮らし向き」と訳されている言葉(ビオス)は、「暮らし向き」とともにそれを支える「財産」をも意味します。ですから、この「暮らし向きの自慢」は、神さまを知らないこの世の人々が頼みとして追い求めているものが豊かにあるということを誇ることです。そして、そのようなものを誇ることは、実際に、そのようなものを頼みとしているわけです。これに続く17節に、 世と世の欲は滅び去ります。 と記されていますように、やがて過ぎ去ってしまう空しいものを誇り、頼みとしているのです。 ヤコブの、 ところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。 という言葉も同じようなことを問題としていると考えられます。このようなことから、新改訳は(アラゾネイアを)「むなしい誇り」と訳していると思われます。 ここで「高ぶっている」と訳された言葉(カウカオマイ)は、コリント人への手紙第1・1章31節に、 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。 と記されている中で用いられている言葉ですから、必ずしも悪い意味ばかりを表すわけではありません。しかし、先ほどの「むなしい誇りをもって」(直訳「むなしい誇りにあって」)との結びつきによって、それが空しいものを誇りとし、頼みとしていることが分かります。そして、そのことが、商売をするうえで自分が中心になって主を主とはしていないことの現れであるのです。 すでにお話ししてきましたことから分かりますが、ここでは、商売をする人のことが取り上げられていますが、それは商売をする人に典型的に見られる問題であるからであって、そのほか何をすることにおいても忍び込んでくる「実際的な無神論」の問題です。 このことを受けて、ヤコブは、 こういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です。 と述べています。それで、これは確かに、「なすべきことをなさない罪」に触れるものです。普通、「なすべきことをなさない罪」というと、あれをしなかった、これをしなかったという形で考えてしまいます。しかし、ここでヤコブが取り上げているのは、神さまとの関係の在り方という根本的な信仰の姿勢にかかわる問題です。 コリント人への手紙第1・10章31節には、 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 と記されています。これは、私たちの生活のあらゆることが、神さまとのかかわりにおいて意味をもっていることを意味しています。食べること、飲むことから始まって、私たちがなすすべてのことは、神さまによって備えられたことであり、神さまとの関係を離れては根本的な意味が失われてしまいます。このことを信仰によって認め、私たちがなすあらゆることにおいて神さまを神として認め、愛し、信頼し、感謝し、あがめることをしないなら、それは、私たちの罪となります。 私たちはこのような点においても、欠けのあるものであり、日々、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈り続けなければならないものです。そして、私たちがなすあらゆることにおいて、ますます神さまを神として認め、愛し、信頼し、感謝し、あがめるものとしていただく必要があります。 |
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