![]() |
説教日:2008年8月31日 |
人は神のかたちに造られています。その神のかたちの本質は、自由な意志をもつ人格的な存在であることにあります。自由な意志というときの意志の自由は外側からの規制に拘束されることなく、自らが自らの在り方を選び取ることにあります。しかし、そこに何の規制もないのではありません。外からの規制に拘束されることはないとしても、自らの内側からの規制があるのです。神のかたちに造られた人の本質的な特性は愛です。それは、神さまの本質的な特性が愛であるからです。神のかたちに造られた人は、自らの本質的な特性である愛を表現するように自由な意志を働かせます。その自由な意志の働きを導いているのが、心に記されている神である主の律法、愛の律法です。 そのように、神である主の律法に導かれて、契約の神である主を愛し、契約共同体の隣人を愛するとき、人は真の意味において自由であることができます。そして、実際に、これが、天地創造の初めに、人が神のかたちに造られたときの状態でした。 何度か繰り返してきたたとえですが、魚は水の中で自由であることができます。水から出てしまいますと自由を失ってしまいます。それは、魚は水の中で生きるものとして造られており、魚の本質が水の中で生きることにあるからです。神のかたちに造られた人の本質は、契約の神である主との愛にある交わりのうちに生きることにあります。それで、人は契約の神である主を愛し、契約共同体の隣人を愛するときに、自由であることができます。 事実、契約の神である主との愛にある交わりに生きることが神のかたちに造られた人のいのちの本質です。ヨハネの福音書17章3節には、 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 というイエス・キリストの祈りの御言葉が記されています。 いろいろな機会にお話ししてきましたが、ここでイエス・キリストが言っておられる「知ること」というのは、人格的な交わりのうちにあって知ることであり、「愛すること」に近いものです。ここでイエス・キリストが言っておられる「唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ること」とは、イエス・キリストをとおしてご自身を示してくださった父なる神さまを、イエス・キリストをとおして親しく知り、愛し、信頼し、あがめるようになることです。このように、神のかたちに造られた人は契約の神である主との愛にある交わりのうちに生きるときに、いのちをもち、真の意味で自由であるのです。 このことを、神である主の律法とのかかわりで言いますと、神のかたちに造られた人の自由な意志を導いているのが、その人の心に記されている神である主の律法であるということです。ですから、神のかたちに造られた人にとって契約の神である主を愛することと契約共同体の隣人を愛することは義務ではありますが、外から押し付けられた義務ではありません。確かに、その心に記されているのは神である主の律法です。また、それは天地創造の御業を遂行された神である主ご自身が記してくださったものです。その意味では、神である主の律法は主から与えられたもの、外から与えられたものです。けれども、それは無理なことを押し付けられたというようなものではありません。 主の祈りの第5の祈りにおいて、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈るときの「負いめ」はこのことにかかわっています。 私たちは神である主との契約関係にあって生きるものとして、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られ、その心に「愛の律法」を記されています。私たちは契約の神である主を愛し、契約共同体の隣人を愛するものとして造られているのです。それで、私たちは契約の神である主を愛し、契約共同体の隣人を愛する義務を、造り主にして契約の神である主に負っています。 もちろん、私たちが、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈るのは、私たちを契約の神である主を愛さなくてもよいもの、契約共同体の隣人を愛さなくてもよいものとしてくださいということを祈るのではありません。 私たちが契約の神である主も、契約共同体の隣人も愛さないものとなるということは、いったいどういうことでしょうか。それは、誰をも愛さないものとなってしまうということです。私たちが神のかたちとしての栄光も尊厳ももたないものとなってしまうことですし、それ以上に、サタンの本質的な特性を現わすものとなってしまうことを意味しています。神である主は、神のかたちに造られた人がそのようなものになることを、決してお許しになりません。 このことから、最初の人アダムにあって、主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人類がなおも契約の神である主を愛し、契約共同体の隣人を愛する義務を、造り主にして契約の神である主に負っているということには意味があることが分かります。それは、神さまが神のかたちに造られた人の本質的な特性を変えてしまうことはなさらないということを意味しています。神のかたちに造られた人の本質的な特性はあくまでも愛であり、神のかたちに造られた人は、契約の神である主を愛し、契約共同体の隣人を愛するものとしての義務を、造り主である神さまに対して負っているのです。 このことを変えることなく、神である主は、神のかたちに造られた人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった直後に、贖い主にかかわる契約を与えてくださいました。一般に「恵みの契約」と呼ばれる契約です。(私たちはこれを「救済の契約」と呼んでいます。) 神である主はその贖い主によってご自身の契約の民を、愛を本質的な特性とする神のかたちの本来の姿に回復してくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとして回復してくださる道を示してくださいました。そして、実際に、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださり、そのことを実現してくださいました。 しかし、私たちは今もなお自らのうちに罪を宿していますので、契約の神である主を愛することと契約共同体の隣人を愛することにおいて、欠けのあるものです。それが私たちの赦していただかなければならない「負いめ」として残ってしまうのです。それで、私たちは、主の祈りの第5の祈りにおいて、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈ります。 これまでお話ししてきたことから分かりますように、この祈りは、私たちが神のかたちの本来の姿を回復していただき、愛の律法に導かれて、契約の神である主を愛し、契約共同体の隣人を愛するものとして回復していただいているからこそ祈るものです。 このように、私たちが神のかたちに造られており、契約の神である主を愛し、契約共同体の隣人を愛するものであると言いますと、一方的な義務を負わされているような感じになってしまいます。しかし、言うまでもなく、契約の神である主との愛にあるいのちの交わりは一方的なことではありません。確かに、神のかたちに造られた人の心に記された主の律法は、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に集約され、まとめられます。そして、その意味で、神である主の律法は、主への愛と、同じく主との契約関係にある契約共同体の兄弟姉妹たちへの愛を現すように神のかたちに造られた人を導くものです。これだけであれば、その愛は一方通行であるということになってしまいます。 けれども、実際は、そうではありません。まず神さまの愛があるのです。まず、神さまが人を愛してくださり、その愛のうちに人を神のかたちにお造りになり、ご自身との交わりに生きるものとしてくださいました。そして、ご自身の契約において、ご自身が人の間にご臨在してくださることを約束し、保証してくださいました。これによって、神のかたちに造られた人が契約の神である主との愛の交わりのうちに生きることができるようになりました。このような神である主の愛に基づく契約の備えがあって初めて、人は主との愛にある交わりに生きることができます。神のかたちに造られた人は、まず、契約の神である主の愛を受け止め、その愛に対して応答して、主を愛し、契約共同体の隣人を愛するのです。 このことは、天地創造の初めからそうでしたが、神のかたちに造られた人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後には、その神さまの愛がより鮮明に示されることになりました。ヨハネの手紙第1・4章7節〜10節には、 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 と記されています。 神である主のご自身の契約の民に対する愛は永遠に変わりません。ただ、その愛の現れ方は、さまざまな状況によって異なっています。ここに記されていることは、人が主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後に神さまの私たちご自身の民に対する愛が豊かになったということではなく、より豊かに示されるようになったということです。 私たち人間の愛であれば、愛が豊かに表現されたということは、それだけ愛が豊かになったということを意味しています。けれども、神さまの愛をそのように考えることはできないのではないかと思います。というのは、神さまは天地創造の御業の前から、私たちを愛してくださっており、その愛は変わることがないという面があるからです。エペソ人への手紙1章3節〜5節に、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されているとおりです。 ここに記されている永遠の聖定において、神さまは、先ほど引用しましたヨハネの手紙第1・4章7節〜10節に記されている、父なる神さまが御子を「私たちの罪のために、なだめの供え物として」お遣わしになったことをも定めてくださっています。そのことに表されている父なる神さまの愛は、実際に、父なる神さまが御子を「私たちの罪のために、なだめの供え物として」お遣わしになったことにおいて現されている愛と同じであると考えられます。それで、父なる神さまが御子を「私たちの罪のために、なだめの供え物として」お遣わしになったことにおいては、神さまの変わらない愛がより豊かに示されるようになったことだと考えた方がいいのではないかと思われます。 このことは、また、ローマ人への手紙5章8節に、 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 と記されていることからもうかがわれます。ここに記されていることの時制に注目しますと、 私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった ということは、今から2千年前に起こった歴史的な出来事です。その意味で、これは過去の出来事です。そのイエス・キリストの十字架の死によって、父なる神さまの私たちに対する愛はこの上なく豊かに示されました。それ以後、このことは繰り返されることはありませんでしたし、これからもありません。なぜなら、イエス・キリストの十字架の死は、私たちのすべての罪を完全に贖ってあまりあるものですから、繰り返される必要はありませんし、あたかも、その十字架の死に欠けがあるかのように繰り返されてはならないことです。その意味で、父なる神さまの私たちに対する愛は、今から2千年前に最も豊かに示されました。 しかし、このローマ人への手紙5章8節では、 神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 というように、現在形で表されています。イエス・キリストの十字架の死によって現されているのは、2千年前の父なる神さまの私たちに対する愛ではなく、いつの時代にも変わることがない私たちへの愛であるというのです。父なる神さまは、初めから、必要とあればご自身の御子をも「私たちの罪のために、なだめの供え物として」お遣わしになる愛をもって、私たちを愛してくださっておられましたし、今も愛してくださっているのです。そうであるからこそ、同じローマ人への手紙8章32節において、 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 と述べているのです。 私たちはこのような神さまの愛によって愛されているものです。これまでお話ししたことの繰り返しになりますが、天地創造の御業においては、このような神さまの愛にあって、神のかたちに造られ、神である主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしていただきました。そして、最初の人アダムにあって、アダムとの一体において、罪を犯し、御前に堕落してしまった後には、その愛に基づく一方的な恵みによって、贖い主にかかわる契約を与えていただきました。 父なる神さまはその契約に基づいてご自身の御子を、「私たちの罪のために、なだめの供え物として」お遣わしになり、その十字架の死によって、私たちの罪をすべて完全に贖ってくださいました。そして、私たちを御子の復活のいのちによって新しく生まれさせてくださり、再び、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。 私たちは、そのように、父なる神さまの愛に基づく一方的な恵みによって遣わされた御子イエス・キリストの十字架の死による贖いの御業にあずかって罪を赦されています。そればかりでなく、栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストのよみがえりにあずかって新しく生まれています。これによって、私たちは父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとされています。 この父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりは、御子イエス・キリストの血によって確立された新しい契約に基づいています。そして、このイエス・キリストの血による契約において、私たちは父なる神さまの子としての身分を与えていただくほどに、父なる神さまの御前に近づくものとしていただいています。契約の主に対するしもべとしての関係を越えて、父なる神さまの子としての身分において、その御前に近づくことができるようにしていただいているのです。ガラテヤ人への手紙4章4節〜6節に、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されているとおりです。 私たちの祈りは、御霊によって「アバ、父。」と呼ぶ近さにまで父なる神さまの御前に近づけられた神の子どもとしての祈りです。それで、主の祈りにおいても、父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけます。 このような、御子イエス・キリストの血による新しい契約の祝福の新しさにもかかわらず、私たちが愛の律法に導かれて、契約の神である主を愛し、契約共同体の兄弟姉妹たちを愛するものであるということは変わっていません。このことに基づいて、これまで、この愛の律法について詳しくお話ししてきましたが、それは、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈るときの「負いめ」について理解するためでした。 しかし、この愛の律法について詳しくお話ししてきたことにはもう1つの意味があります。 もしかすると、私たちは、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈るときに、自分の「負いめ」だけを考えて、それが赦されるように祈っているかもしれません。その場合には、他の人の罪のことを考えるのは失礼なことであると言ったらいいでしょうか、高慢なことであると言ったらいいでしょうか、そのような思いもあって、自分の「負いめ」だけを考えて祈るということでしょう。主の祈りに関するさまざまな注解書や解説書に当たってみましたが、このような個人的な意味合いを越えて共同体的な意味合いについて述べるものはあまりありませんでした。 しかし、この祈りは、契約共同体の兄弟姉妹たちと心を合わせて、 「私たちの」負いめをお赦しください。 と祈るものです。このことの意味を理解するためにも、愛の律法を理解する必要があると考えています。また、そのことが、主の祈りの第5の祈りの後半の、 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 という祈りにかかわる問題を理解する鍵ではないかとも考えています。 この点につきましては、改めてお話しします。 |
![]() |
||