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説教日:2008年8月24日 |
繰り返しになりますが、神のかたちに造られた人の心に書き記されている造り主である神さまの律法は、マタイの福音書22章37節〜40節に記されているイエス・キリストの教えに示されていますように、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に集約され、まとめられます。 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」では、神さまのことが「あなたの神である主」と言われています。これは、もともとこの「第一の戒め」を記しています申命記6章5節を見れば分かりますが、契約の神である主、ヤハウェを意味しています。それで、この「第一の戒め」では、私たちが神さまとの契約関係にあることが踏まえられています。またそれで、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に出てくる「あなたの隣人」とは、同じく神である主との契約関係にある契約共同体の兄弟姉妹たちのことであると考えられます。 ですから、「第一の戒め」と「第二の戒め」に集約され、まとめられる神さまの律法は、契約の神である主との契約関係にある民の在り方を示しています。主の契約の民である私たちが、その主との契約関係にあっていかに考え、いかに生きるかを示しているのです。その意味で、神さまの律法を守るためには、まず、神さまとの契約関係になければなりません。言い換えますと、神さまとの契約関係にない者には、神さまの律法を守ることはできません。 このことから、神さまの律法は、神さまとの契約関係にない者、すなわち、契約の神である主の民ではない者が、それを守ることによって、そのことへの報いとして、神さまとの契約関係に入れていただくために与えられたものではないということが分かります。つまり、神さまの律法を守ることによって救われて、神さまとの契約関係に入れていただくということは、神さまの律法の主旨からしても不可能なことであるのです。これがいわゆる「律法主義」の誤りの根本にあることです。 神さまは創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、その心にご自身の律法を書き記してくださいました。そして、その律法の全体は、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に集約され、まとめられ、契約の神である主との契約関係にある民の在り方を示しています。このことは、また、神のかたちに造られた人が初めから神さまとの契約関係にあるものとされていたことを意味しています。言い換えますと、神さまは人を、初めからご自身との契約関係にあるものとして、神のかたちにお造りになったということです。いったん人を神のかたちにお造りになってから、その人をご自身との契約関係に入れてくださったのではなく、初めから、ご自身との契約関係にあるものとして、神のかたちにお造りになったということです。 いろいろな機会にお話ししていますが、聖書が記された時代の文化においては、契約は主権者の契約でした。契約の主権者が一方的に、その主権の下にある者たちを自分との契約関係に入れてしまうのです。その点では、対等な立場にある者同士の合意に基づいて結ばれる、近代以降の市民社会の契約の発想とは違っています。 神さまは天地創造の御業を遂行された主権者です。神さまはご自身の主権の下にあるものをご自身との契約関係にあるものとしておられます。それは、神のかたちに造られた人に限られてはいません。たとえば、エレミヤ書33章20節、21節には、 主はこう仰せられる。もし、あなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約とを破ることができ、昼と夜とが定まった時に来ないようにすることができるなら、わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、彼には、その王座に着く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちとのわたしの契約も破られよう。 と記されています。また、同じ章の25節、26節には、 主はこう仰せられる。「もしわたしが昼と夜とに契約を結ばず、天と地との諸法則をわたしが定めなかったのなら、わたしは、ヤコブの子孫と、わたしのしもべダビデの子孫とを退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばないようなこともあろう。」 と記されています。 ここに引用しました御言葉は、神さまが与えてくださったいわゆる「ダビデ契約」の確かさを、ご自身があかししてくださっているものです。契約の神である主は預言者たちをお遣わしになってユダ王国の罪を糾弾し、悔い改めを迫られました。しかし、ユダ王国においては幾度か改革はなされましたが、最終的には主の御声に聞くことなく罪を重ねてしまいました。その結果、主のさばきを招くこととなり、バビロンの捕囚に至ってしまいます。そのような、人間の目から見たときに絶望的な事態になってしまっても、なお、ダビデの子がとこしえにダビデの王座に着座するという、主がダビデに与えてくださった契約は実現するということを示してくださっています。 その確かさは契約の主の真実さ、主の契約によって示された主の真実さによっています。そして、ここでは、その主の契約に示された真実さは、主が「天と地との諸法則」を定められたことに示されている真実さと同じであるとして示されています。今日私たちは「天と地との諸法則」の確かさをさまざまな自然法則として受け止めています。ここでは、その代表的な例として、「昼と夜とが定まった時に」来ることが取り上げられています。そして、それは、天地創造の御業を遂行された主が「昼と夜とに契約を」結ばれたことによっていると言われています。 私たちは、「昼と夜とが定まった時に」来ることは地球の自転によることであるということを知っています。だからといって、神である主が「昼と夜とに契約を」結ばれたことが否定されるわけではありません。というのは、神さまが天地創造の御業において、地球が自転するように、さらには太陽系の中で位置をもち、太陽の回りを公転するようにお造りになったからです。そして、そのことを今日に至るまでも変わることなく保ち続けてくださっておられるのも神さまです。その御業を摂理の御業と呼びます。このエレミヤ書33章に記されていることに沿って言いますと、その摂理の御業は神さまの契約に基づいて遂行されています。ですから、私たちは創造の御業と摂理の御業を遂行しておられる神さまの真実さの現れを観察して、それをさまざまな法則として捉えています。この世界を保っているのは法則ではなく、造り主である神さまです。父なる神さまが御子によってすべてのものを真実に保っていてくださるので、私たちはこの世界に法則があると受け止めています。神さまが御手を引かれるなら、この宇宙もたちまちのうちに崩壊してしまいます。 このように、神である主は天地創造の御業を遂行された主権者として、人格的な存在ではない「昼と夜とに契約を」結ばれました。それは、主の契約が創造者としての主権に基づく一方的なものであることによっています。神である主がご自身のかたちにお造りになった人をご自身の契約のうちに入れてくださったのも、主の主権性に基づく一方的なことでした。それは、主が神のかたちに造られた人に契約を結ぶことを提案し、人がそれに同意して結ばれたものではありません。人は神のかたちに造り出されたその時には、すでに主との契約関係にあり、神さまを契約の主として知っていました。そればかりでなく、人は造り出されたその時から、神さまを主として愛していました。それは、神のかたちに造られた人の心に神さまの律法、愛の律法が書き記されており、その律法が人の本性を導いていたからです。 ちょうど、生まれてくる子どもが親子関係の中に生まれてきて、生まれてきたその時から親子関係が始まっているように、神のかたちに造られた人は神さまとの契約関係の中に造り出され、造られたその時から、神さまとの契約関係にある交わりのうちに生きていました。その神さまとの交わりを導いていたのが、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に集約され、まとめられます神さまの律法でした。 このように、神さまの律法は神である主の契約のうちに位置づけられるものです。ただし、神さまの律法と主の契約は同一のものではありません。主の契約は、主がご自身の契約の民の神となってくださり、その民とともにいてくださることを約束し保証してくださっているものです。このように、主が私たちご自身の民の間にご臨在してくださるので、私たちは主との愛にある交わりのうちに生きることができるのです。そして、律法は私たちが主との契約関係にあってどのように考え、どのように生きるべきものであるかを示しています。 実際には、神のかたちに造られた人は、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。このことによって、その本性は罪によって腐敗してしまいまい、その心に書き記された神さまの律法も本質的に腐敗したものとなってしまいました。 神のかたちに造られた人の心に書き記された律法は、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に集約され、まとめられます。そして、そのように契約の神である主を愛し、契約共同体の隣人を愛することは、愛を本質的な特性とする神のかたちに造られた人の本性でもありました。 ところが、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人の本性は、自らを神の位置に据えるほどの自己中心性によって特徴づけられるものとなってしまいました。そこからわき出てくる根本的な思いは、詩篇14篇1節に、 愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。 と記されていますように、「神はいない。」という一語に尽きます。 これまでお話ししてきたことから考えられることですが、これは、神のかたちに造られた人が神である主の契約を破ってしまったということを意味しています。そのために、人は神さまがご自身の契約において約束してくださり、保証してくださっている、ご自身のご臨在の御前から退けられてしまいました。つまり、神さまとの契約に基づく愛にあるいのちの交わりを失ってしまったのです。 改めて確認しておきたいことですが、これはただ罪を犯して神さまの御前に堕落してしまった人間が、「神はいない。」という根本的な思いをもって、神さまを否定しているというだけのことではありません。それ以上に重大な問題があります。それは、神である主がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間を、聖なる御怒りとともに、ご臨在の御許から退け、契約ののろいとしての死と滅びのうちに置いておられるということです。 このような状況にあって、御子イエス・キリストは、私たちの契約のかしらとなってくださり、私たちを、最初の契約への違反ののろいの下から贖い出してくださるために、人となって来てくださいました。そして、私たちご自身の民の身代わりとなって十字架にかかり、私たちの罪へのさばきをお受けになりました。これによって、私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちをのろいの下から解放してくださいました。ガラテヤ人への手紙3章13節に、 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。 と記されているとおりです。 そればかりでなく、その十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして栄光をお受けになって、死者の中からよみがえってくださいました。これによって、私たちご自身の民を復活のいのちによって生かしてくださるためでした。 イエス・キリストは、さらに、父なる神さまの栄光のご臨在の場である天に上り、父なる神さまの右の座に着座されました。このすべては、私たちのためになされたことです。最初の契約の違反者となって、神である主のご臨在の御許から退けられていた私たちを、再び、神である主の栄光のご臨在の御許に住まうものとしてくださるためのことでした。とはいえ、それは、私たちが再び地上にあるエデンの園における神である主のご臨在の御前に立つものとされるということではありません。そうではなく、あのエデンの園における栄光のご臨在の完成というべき、それよりもはるかに栄光に満ちた神である主のご臨在の御前に住まうものとしてくださるものです。言い換えますと、私たちは、天における父なる神さまの充満な栄光のご臨在の御許に住まうものとしていただいているということです。エペソ人への手紙2章4節〜6節に、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されているとおりです。また、コロサイ人への手紙3章1節〜4節には、 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。 と記されています。 私たちは御霊によって、私たちの契約のかしらであられるイエス・キリストと1つに結び合わされて、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえっています。そのようにして、罪を贖っていただき、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれています。このことは、すでに私たちの現実となっています。けれども、このことの完全な実現、完成は、終りの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされます。その日には、栄光のキリストが私たちを栄光のからだをもつものとしてよみがえらせてくださいます。そのようにして、終りの日に栄光のキリストが私たちを栄光あるものとしてよみがえらせてくださるのは、私たちを、天において父なる神さまの充満な栄光のご臨在の御許に住まうのにふさわしい栄光をもつものとしてくださるためです。 いまだ、この完成の状態には至っていない私たちのうちには罪の性質があり、私たちは実際に罪を犯します。その罪そのものは、父なる神さまの聖なるご臨在の御前にふさわしくないものです。けれども、御子イエス・キリストがその十字架の死によって成し遂げてくださった贖いの御業は、私たちのすべての罪を贖い、私たちを聖めてくださるのに十分なものです。私たちは、私たちのために、このような完全な贖いを成し遂げてくださった主ご自身から、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈るようにと招かれています。それは、私たちの主イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づく赦しを祈り求めることです。そして、これは、私たちが父なる神さまのご臨在の御前に出でて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるために必要なことす。 |
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