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説教日:2008年8月17日 |
律法が人の心に記されているということは、私たちにはなじみのない言い方ですが、聖書の御言葉にある言い方です。律法が人の心に記されていることを示している御言葉を見てみましょう。人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後の状態を記しているローマ人への手紙2章14節、15節には、 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 と記されています。 まず、 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは と言われていますが、「律法を持たない異邦人」の「律法」はモーセ律法を意味しています。この場合には、冠詞がついていませんので、他のさまざまな法律と区別されるモーセ律法ということよりは、モーセ律法の律法としての質を念頭においてのことであると考えられます。造り主にして契約の神である主が、特別な啓示によって与えてくださった律法としてのモーセ律法ということです。 また、ここでは「異邦人」にも冠詞がついていませんので、異邦人としての質のことが念頭に置かれています。その異邦人としての質というのは、この場合には、「律法を持たない」という言葉で表わされています。それで、この場合の「異邦人」は、異邦人のうちでも、契約の神である主が特別な啓示によって示してくださった律法としてのモーセ律法をもっていない人々のことを指しています。異邦人であれば「律法を持たない」ことは当たり前のことではないかという気がしますが、そうではありません。私たちはユダヤ人とは区別されるという意味では異邦人ですが、聖書に記されているモーセ律法を示されてもっています。その意味では、「律法を持たない異邦人」ではありません。 「生まれつきのままで」ということは、文字通りには、「本性のままに」ということで、外側からの強制的な力によらないで、自らのうちから自発的に生み出されることを指しています。新改訳は、この「本性」が「生来の本性」であることを示すために「生まれつきのままで」と訳しているのであると思われます。 「律法の命じる行ない」と訳された言葉(タ・トゥー・ノムー)は、直訳では「律法の事柄」というような感じになります。これは、15節に出てくる「律法の命じる行ない」(直訳「律法の行い」)と同じものであると考えられますので、新改訳はそれに合わせて「律法の命じる行ない」と訳していると考えられます。 このようにして、 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは と言われているのは、「律法を持たない異邦人」が、自らの自発的な思いにしたがって、モーセ律法に規定されていることを行うことがあるということを示しています。そして、そのような場合には、 律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。 と言われています。 ここには「律法」が2回出てきます。言うまでもなく、「律法を持たなくても」と言われているときの「律法」はモーセ律法のことです。しかし、「自分自身が自分に対する律法なのです」と言われているときの「律法」はモーセ律法のことではありません。 「自分自身が自分に対する律法なのです」ということは、取りようによっては、自分を規制する法律はないということ、すなわち、「自分の思うがまま、気の向くままに振る舞う」ことのようにも取れます。しかし、ここではそのようなことを示しているのではありません。 このことを理解する鍵は、この、 律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。 という言葉に出てくる2つの「律法」は、どちらも、先ほどお話ししました「律法を持たない異邦人が」と言われているときの「律法」と同じように冠詞がついていないので、律法としての質を念頭に置いているということです。 先ほどお話ししましたように、「律法を持たなくても」と言われているときの「律法」はモーセ律法のことです。そして、この場合には、神さまが特別な啓示によって示してくださった律法としてのモーセ律法のことです。その意味において、モーセ律法は神さまが人に与えてくださった律法です。 これに対して、「自分自身が自分に対する律法なのです」と言われているときの「律法」はモーセ律法のことではありませんが、確かな律法としての質をもっている「律法」、すなわち、造り主である神さまが神のかたちに造られた人にお与えになった律法であるということを意味しています。 自然法則も含めて、この世界に「法」というものがあるのは、神さまがこの世界を調和のある世界としてお造りになったからです。その意味で、すべての「法」は神さまから与えられたものです。ですから、律法がもっている律法としての質は、それが神さまから与えられたものであるということにあります。 このことを受けて、続く15節においては、 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。 と記されています。これは、天地創造の御業において人を神のかたちにお造りになった神さまが、人の心にご自身の律法を書き記してくださったことを示しています。 確かに、ここでは「律法の命じる行ないが彼らの心に書かれている」と言われているのであって、「律法が彼らの心に書かれている」とは言われていません。しかし、これには、理由があります。というのは、聖書の示すところでは、「律法が心に書かれている」ということは、神のかたちに造られた人の本来の在り方を示しています。神さまの律法がそのまま自分自身の本性となっている状態を意味しています。そして、その人が考えることが自然と神さまの律法にかなっており、行うことが自然と神さまの律法にかなっている状態を意味しています。それは、神さまの創造の御業によって神のかたちに造られたときの最初の人アダムの状態です。 その最初の人アダムが造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまってから、アダムにあって生まれてくる人は、すべて、その本性が罪によって腐敗したものとして生まれてきます。そのために、心すなわち本性に記されている律法も罪によって根本的に腐敗したものとなってしまっています。すべての人はそのような状態で生まれてきます。 このようなことを踏まえて、14節では、 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする と言われています。「異邦人」は、神さまが特別な啓示によって示してくださった律法としてのモーセ律法をもっていなくても、そのモーセ律法の「規定していること」を行うことがある、15節の言葉で言いますと、「律法の命じる行ない」を行うことがあるというのです。 しかし、それは、神さまの律法の根本精神から始まって、真の意味で、神さまの律法を守っているということではありません。その「行ない」だけを見た場合に、神さまの律法の命じていることに当たることをしているということです。これが、 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。 と記されていることの意味です。 念のためにお話ししますと、そこには、罪が生み出している根本的な欠けがあります。 これまで繰り返しお話ししてきましたように、神さまの律法は、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に集約され、まとめられます。 これはマタイの福音書22章37節〜40節に記されています、 「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。 というイエス・キリストの教えに基づくものです。 これを、今お話ししているモーセ律法とかかわらせて言いますと、モーセ律法の全体は、神さまがシナイにおいてイスラエルの民と契約を結んでくださった時に与えてくださった「十戒」に集約され、まとめられます。 その十戒は、出エジプト記20章3節〜17節に記されています。その区分には理解の仕方による違いがありますが、私たちが受け入れている理解の仕方で、それぞれの戒めをまとめてみますと次のようになります。 (第1戒)あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。 (第2戒)あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。 (第3戒)あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。 (第4戒)安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。 (第5戒)あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。 (第6戒)殺してはならない。 (第7戒)姦淫してはならない。 (第8戒)盗んではならない。 (第9戒)あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。 (第10戒)あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。 この十戒の十の戒めのうち、第1戒から第4戒までは、契約の神である主との関係に関する戒めです。それは、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」によって集約され、まとめられます。そして、第5戒から第10戒までは、契約共同体の隣人との関係に関する戒めです。それは、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」によって集約され、まとめられます。 これもいろいろな機会にお話ししたことですが、十戒の十の戒めのうち、第4戒の、 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 という戒めと、第5戒の、 あなたの父と母を敬え。 という戒め以外の戒めは、「何々してはならない」という形の戒めです。 これは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった結果、造り主である神さまを神としないばかりか、自らを神の位置に据えようとするほどの罪の自己中心性に捉えられてしまったことを反映しています。 たとえば、第6戒では、 殺してはならない。 と戒められています。このように戒められているのは、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった人が「殺す」ことがあるからです。 この戒めをめぐっては、いろいろな議論がなされています。それはここで用いられている「殺す」と訳されている言葉の形(カル語幹)と用例に基づいてなされています。その議論に踏み込むことはできませんが、結論的には、新改訳の、 殺してはならない。 という理解が妥当であると考えられます。この戒めをめぐる議論から言えることは、この戒めが取り上げているのは「殺人」に限らないということです。この戒めが「殺人」のことだけを取り上げているのであれば、強調の形(ピエル語幹)で表されたはずです。 このこととの関連で見てみたいのは、マタイの福音書5章21節、22節に記されているイエス・キリストの教えです。そこには、 昔の人々に、「人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって「能なし。」と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、「ばか者。」と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 と記されています。 これは、イエス・キリストがモーセ律法を変更しておられるのではなく、モーセ律法に対する「昔の人々」の解釈と理解に対して、本来の解釈と理解を示しておられるのです。 このイエス・キリストの教えに示されていることは、十戒の第6戒の、 殺してはならない。 という戒めは、契約共同体の兄弟姉妹たちに対する私たちの心の在り方にまでさかのぼって適用されるものであるということです。 ここで、 兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。 と言われているときの「さばき」は、神の御前におけるさばきのことである可能性があります。というのは、この世の裁判においては「兄弟に向かって腹を立てる者」という、いわば心の在り方のことで、そのことが立証され、さばかれることはないからです。いずれにしましても、神さまの御前においては、このような私たちの心の在り方のことから問われていることは確かです。 このように、十戒の戒めは、契約の神である主と、契約共同体の兄弟姉妹たちへの、心の在り方の次元にまでさかのぼって適用されるものです。このことを考えますと、十戒の戒めが、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に集約され、まとめられるということが了解されます。「第一の戒め」も「第二の戒め」も、神さまと隣人に対する私たちの愛を取り上げています。それで、この2つの戒めは、私たちの心の在り方にまでさかのぼって適用されるものです。そして、神さまの律法は、基本的に、私たちの心の在り方にまでさかのぼって適用されるものであるのです。 このようなことを踏まえて、先ほどの、ローマ人への手紙2章14節に記されています、 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする ということを見てみますと、それは、「律法を持たない異邦人」が、 殺してはならない。 という戒めの命じる「行ない」をする、この場合には「人を殺さない」としても、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に集約され、まとめられる、神さまの律法の根本精神をも含めて、神さまの律法を守っているわけではないということが分かります。 ヘブル人への手紙10章14節〜16節には、 キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。 「それらの日の後、わたしが、 彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、 主は言われる。 わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、 彼らの思いに書きつける。」 と記されています。これは、イエス・キリストがご自身の十字架の死によって私たちの罪を完全に贖ってくださり、私たちを神さまの御前において聖なるものとして立たせてくださるようになったことをあかしする御言葉です。そのことにかかわる祝福として、エレミヤ書31章33節の御言葉を引用して、神さまがご自身の律法を私たちの心に書き記してくださると言われています。これは、すでにお話ししましたように、神さまの律法が外からの規制として与えられるということではなく、私たちの考えること、願うこと、行うことが自然と神さまの律法に沿ったものとなるということを意味しています。 このことは、すでに、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づいてお働きになる御霊によって、私たちの間で始まっています。 それでと言いましょうか、その証拠にと言いましょうか、私たちはイエス・キリストの御名によって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしていただいていますし、契約共同体としての教会における、兄弟姉妹たちとの愛にある交わりのうちに生きるものとしていただいています。ただし、その完成は、終りの日に再臨される栄光のキリストによる新しい創造の御業によって、私たちが栄光あるものによみがえることを待たなければなりません。 そうであればこそ、私たちは私たちの心の在り方、すなわち、父なる神さまへの愛と兄弟姉妹たちへの愛を問われています。その点において、私たちのうちには、なおも罪の自己中心性が根強く残っていることを痛感しないではいられません。 それが私たちの現実であることをご存知であられるイエス・キリストは、 私たちの負いめをお赦しください。 と祈るようにと、招いてくださっています。 |
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