(第158回)


説教日:2008年8月3日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るときの「負いめ」がどのようなものであるかについてお話ししました。
 この「負いめ」という言葉(オフェイレーマ)は、基本的には、経済的な「負債」や「支払うべきもの」、「義務として負っているもの」などを表します。イエス・キリストがこの山上の説教を語られたときに用いておられたと思われるアラム語でこの言葉に当たるホーバーという言葉は、そのような経済的な「負債」だけでなく、「罪」をも表しました。それは、罪は神さまの御前に負債を積み上げるものであるという、その当時の発想を反映していると考えられます。
 また、これまで、私たちが負っている「負いめ」を理解するするために、最も基本的なこととして、神さまの律法の根本的な精神についてお話ししました。神さまの律法は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という「第二の戒め」に集約され、まとめられます。

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」においては、神さまのことは「あなたの神である主」と言われています。これは、契約の神である主を表しています。ですから、「第一の戒め」は、私たちが神さまとの契約関係にあることを踏まえています。もし私たちが神さまとの契約関係のうちにないのであれば、神さまのことが「あなたの神である主」と呼ばれることはなかったはずです。
 また、このことから、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という「第二の戒め」における「あなたの隣人」は、基本的に、神さまとの契約関係にある契約共同体の「隣人」のことであると考えられます。
 このように、この「第一の戒め」と「第二の戒め」は、私たちが、すでに、神である主との契約関係のうちにあり、主の契約の民となっているということ、そして、そのゆえに、神である主の契約の民である私たちがお互いに契約共同体の「隣人」となっているということことを踏まえ、その上に立っています。私たちは、神さまの契約の民であるので、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

と戒められていますし、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

と戒められているのです。


 ですから、「第一の戒め」と「第二の戒め」によって集約され、まとめられる神さまの律法は、神さまとの契約関係に入れていただくための条件を示しているのではありません。それを守ることによって、神さまとの契約関係のうちに入れていただけるというものではありません。言い換えますと、私たちは神さまの律法を守ることによって、救われて、神さまとの契約に基づくいのちの交わりのうちに入れていただくわけではないということです。
 人が神さまとの契約関係のうちに入れていただくこと、そして、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになることは、神さまの主権的で一方的な愛に基づく恵みによっています。神さまは天地創造の御業において、人をご自身との契約のうちにあるものとしてくださるために、神のかたちにお造りになりました。神さまが人をそのようなものにお造りになったのは、神さまの造り主としての、そのゆえに、主権的なみこころによることであって、一方的な愛に基づく恵みによっています。
 人が神さまとの契約関係のうちに入れていただくことが神さまの主権的で一方的な愛に基づく恵みによっているということは、神のかたちに造られた人が、造り主にして契約の神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後に、より鮮明に示されることとなりました。
 神さまは、その一方的な恵みによって、贖い主を約束してくださいました。そして、実際に、ご自身の御子を私たちのための贖い主として遣わしてくださいました。御子は私たちと同じ人の性質を取ってきてくださり、私たちと1つになってくださいました。この一体性が主の契約に基づく一体性です。そして、私たちの身代わりとなって十字架にかかり、私たちの罪に対するさばきを受けて死んでくださいました。このようにして、神さまは御子イエス・キリストによって、私たちの罪をまったく贖ってくださいました。
 そればかりではありません。イエス・キリストは、その十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されましたので、その完全な従順に対する報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられました。それによって、イエス・キリストと1つに結ばれている私たちは、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれ、神の子どもとされています。
 このように御子イエス・キリストが私たちと1つとなってくださったことは、主の契約によっています。今日も私たちは、そのことを覚えて聖餐式を行いますが、マタイの福音書26章26節〜28節には、

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

と記されています。イエス・キリストはご自身が十字架の上で流された血によって新しい契約を確立してくださり、ご自身がこの契約のかしらとなられ、私たちをご自身の契約の民としてくださいました。そして、契約の主であられる栄光のキリストは、私たちをご自身の死とよみがえりにあずからせてくださって、再び神さまとの契約に基づく、愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださっています。
 このように、人が神さまとの契約関係のうちにあるものとされるのは、神さまの主権的で一方的な愛に基づく恵みによっています。そして、そのように、神さまの一方的な愛に基づく恵みによって神さまとの契約関係のうちに入れていただいている者の在り方を示すものが、神さまの律法です。人が神さまとの契約関係のうちにあるということは、神さまとの愛にある交わりのうちに生きるものであるということを意味しています。それで、神さまの律法は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という「第二の戒め」に集約され、まとめられるのです。
 このことから、私たちは、神さまの律法について大切なことを理解することができます。それは、神さまの律法は、神さまの契約の枠の中に位置づけられるということです。そして、神さまの主権的で一方的な愛に基づく恵みによって、ご自身の契約民とされている私たちの在り方を示しているということです。言い換えますと、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という「第二の戒め」は、神さまと契約関係のうちにある者の義務を表しているのですが、それ以上に、そのような者の本来の姿を表しています。神さまの律法は、まさにそのようなものです。言葉の重複を承知で言いますと、神さまの主権的で一方的な愛に基づく恵みによって、神のかたちに造られて、神さまとの契約関係のうちに入れていただいている人は、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」契約の神である主を愛しますし、その「隣人を」自分自身のように愛します。それは、神のかたちに造られた人の本来の姿ですし、神のかたちに造られた人にとって最も自然な姿なのです。神さまの律法は、神のかたちに造られた人の本来の姿を示しつつ、神のかたちに造られた人がその本来の姿であるようにということを求めています。このことは、神さまが御子イエス・キリストの贖いの御業をとおして、私たちをご自身との契約関係のうちにあるものとしてくださったことによって実現してくださった私たちの在り方にも当てはまります。
 ローマ人への手紙6章3節〜11節には、イエス・キリストを、父なる神さまが遣わしてくださった贖い主として信じ、その信仰によってイエス・キリストを受け入れている人に関することが記されています。
 3節、4節には、

キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

と記されています。
 ここで、私たちは「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」と言われています。「バプテスマ」は、水による洗礼のことですが、「主の晩餐」とともに、イエス・キリストご自身が定めてくださった新しい契約の礼典です。この水による洗礼は、私たちが御霊を受けて、主の契約共同体に加えられていることを表示しています。
 使徒の働き2章には、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストが、天において父なる神さまの右の座に着座され、そこから聖霊を注いでくださったことが記されています。その使徒の働き2章33節には、

ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

と記されています。このことは、最初の「聖霊によるバプテスマ」、聖霊による洗礼とを記しています。これによって、栄光のキリストの御霊が宿ってくださる、新しい契約の共同体としての教会が生み出されました。水による洗礼は、このことが私たちの間に実現していることを表示しています。
 そのようにして栄光のキリストが遣わしてくださった御霊は、私たちのうちに宿ってくださいます。そして、私たちを栄光のキリストと1つに結び合わせてくださり、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずからせてくださいます。私たちをイエス・キリストの十字架の死にあずからせてくださって、罪から聖めてくださるとともに、栄光のキリストの復活のいのちによって私たちを新しく生まれさせてくださり、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてくださっています。
 このように、私たちは、御霊によってイエス・キリストと1つに結び合わされていることによって、イエス・キリストとともに死んで、イエス・キリストとともによみがえっています。それで、

キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

と言われています。
 さらに、ローマ人への手紙6章9節〜11節には、

キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ1度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。

と記されています。ここでは、御霊によってイエス・キリストと1つに結び合わされている私たちは「罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」であると言われています。神さまに対して「キリスト・イエスにあって」生きているということは、イエス・キリストの血による「新しい契約」のうちにあって、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きているということに他なりません。同じことは、先ほどの4節で、

それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

と言われていました。私たちが「いのちにあって新しい歩みをする」ということは、直訳調に訳しますと、「いのちの新しさにあって歩む」ということです。これは、御霊によってイエス・キリストと1つに結ばれて、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたことによって始まっているいのちの新しさです。それは、「心機一転して」とか、「新しく生まれたつもりになって」というような、私たちの心の持ち方のこととはまったく違います。イエス・キリストの血による「新しい契約」のうちにあって、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるいのちの新しさのことです。
 そのように、私たちは御霊によってイエス・キリストと1つに結び合わされています。そして、イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただき、罪を聖めていただいています。そして、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれたものとして、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとされています。
 その意味において、私たちは聖いものとされています。そして、これが、私たちの基本的な在り方です。しかし、私たちにはもう1つの現実があります。
 ヨハネの手紙第1・5章13節には、

私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

と記されています。ヨハネはすでにイエス・キリストを信じて「永遠のいのちを持っている」人々にこの手紙を書いています。そのヨハネは同じ手紙の1章8節で、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と述べています。
 この場合の「罪」は単数で罪の性質を表しており、「罪はない」ということは、罪の性質がないということを意味しています。「もし、罪はないと言うなら」と言われているのは、実際に、そのような主張をする人々がいるので、ヨハネはそれに対して警告しているのだと考えられます。そして、自分に罪がないと主張する者は「自分を欺いて」いると述べています。知らないうちに誰かに欺かれているのではなく、自分が自分を欺いているというのです。イエス・キリストを信じて、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きている者は、自らのうちにある罪の現実を痛いほどよく知るようになります。神さまを知れば知るほど、自らの罪の現実を思い知らされるようになります。それが、地上にある神の子どもたちの現実です。そのような状態にありながら、あえて「罪はない」と主張することは、自らを欺くことであるのです。
 そればかりではありません。そのような主張をする者のうちには「真理」はないと言われています。その人自身が自らのうちから「真理」を締め出してしまっているのです。この場合の「真理」は抽象的な真理ではなく、イエス・キリストをとおして啓示された福音の「真理」です。
 続く9節には、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と記されています。ここには「罪」という言葉が2回出てきますが、どちらも複数形です。それで、これは私たちが実際に犯した罪を指していると考えられます。
 私たちがその罪を言い表すなら、「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し」てくださると言われています。ここには、神さまの真実さと正しさが出てきます。この神さまの真実さは、聖書の中では、ご自身の契約における真実さです。神さまはご自身の契約において約束してくださったことを真実をもって守ってくださり、果たしてくださいます。神さまはご自身の契約において、贖い主を約束してくださり、その死によって罪を贖ってくださることを約束してくださっただけでなく、実際に、御子イエス・キリストを通して贖いの御業を遂行してくださいました。そして、福音の御言葉において、イエス・キリストを信じる者の罪を赦してくださることを約束してくださっています。それで、神さまは、私たちが自らの罪を告白して、贖いの御業を成し遂げてくださったイエス・キリストに信頼するときに、その罪を赦してくださいます。
 神さまはまた、そのことをとおして、ご自身が義であられること、正しいことを示しておられます。ローマ人への手紙3章25節には、

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。

と記されています。神さまは御子イエス・キリストの十字架において、私たちの罪をすべて完全に清算されました。それによって、ご自身が義であられることをお示しになりました。それで、神さまが、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて私たちの罪を赦してくださることは、神さまの愛を表すことであるとともに、神さまの義を表すことでもあります。
 ヨハネの手紙第1・1章9節では、さらに、私たちが自分の罪を言い表すなら、神さまは「すべての悪から私たちをきよめてくださいます」と言われています。神さまが罪を赦してくださることは、法的なことです。これは、その都度、神さまが私たちの罪の赦しを宣言してくださることです。これは法的なことですので、その都度、完全な赦しが与えられます。これに対して、「すべての悪から」聖めてくださることは、私たちの実質を変えてくださることです。このことを、私たちは「聖化」と呼んでいます。これは、1度に完成してしまうことではなく、私たちの地上の生涯を通して継続してなされていくことです。その完成は、終りの日に再臨される栄光のキリストのお働きによって、私たちが栄光あるものによみがえるときに実現します。
 ここでは「すべての悪」と言われていますが、この「悪」と訳された言葉(アディキア)は、その前に「神は真実で正しい方ですから」と言われているときの「正しい」という言葉(ディカイオス)と対比される形で用いられていると考えられます。つまり、「すべての悪から私たちをきよめてくださいます」ということは、私たちを御子イエス・キリストにあって示された神さまの義の属性にあずからせてくださるということです。これが、私たちの実質を造り変えてくださる「聖化」に当たります。もちろん、それはイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きによって私たちの現実となることです。
 私たちは、すでに、イエス・キリストを信じて、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いにあずかり、罪を赦されています。法的には、神さまの御前において「義である」と認めていただき、宣言していただいています。そして、イエス・キリストの血によって確立された「新しい契約」の民としていただいています。さらに、「新しい契約」の祝福として「子としての身分」を授けられています。これらのことは、法的なことですので、すでに、百パーセント私たちのものとなっています。それで、父なる神さまは私たちに御霊を注いでくださいました。私たちは御霊によって「アバ、父。」と呼ぶ近さにおいて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きています。それゆえに、主の祈りにおいても、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけることができます。
 それとともに、神の子どもとしての私たちの実質は、いまだ、完全なものとはなっていません。私たちのうちには罪の性質が残っており、私たちは実際に罪を犯します。それで、私たちは、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

という御言葉の約束の下に、また、その約束に基づいて、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈り続けます。

 


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