![]() |
説教日:2008年7月27日 |
私たちに関する神さまの聖定的なみこころを啓示しているエペソ人への手紙1章3節〜6節には、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 と記されています。 いろいろな機会にお話しした個所ですが、改めて、いくつかのことを確かめておきたいと思います。これは、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。 という讃美の言葉から始まっています。これに続いて、 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と記されているのは、父なる神さまについて説明する言葉です。全体を直訳調に訳せば、 キリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった、私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。 となります。エペソ人への手紙1章では、この3節〜14節が長い1つの文です。そして、この3節の讃美の言葉が、その中心となっています。4節以下は、その讃美の理由としての祝福を、いわば、積み上げる形で説明しています。 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。 と言われているときの「ほめたたえられますように」という言葉(エウロゲートス)は、常に神さまに対して用いられる言葉です。この言葉は、これに続いて、 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と言われているときの「祝福」という言葉(エウロギア)と「祝福してくださいました」という言葉[エウロゲオー(ここでは不定過去分詞)]の同族語です。ですから、これら3つの同族語によって、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。 という言葉は、 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 という言葉と深く結び合っています。 この、 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 という言葉は、先程もお話ししましたが、父なる神さまを説明する言葉です。この言葉は、父なる神さまが「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったということを示していますが、それだけではありません。父なる神さまが私たちの「天にあるすべての霊的祝福」の源であられるということをも示しています。このようにして、この3節では、私たちのすべての祝福の源であられ、実際に、「キリストにあって」、「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださった父なる神さまが「ほめたたえられますように」と言われているわけです。 ここで「霊的祝福」と言われているのは、その祝福が御霊に属するものであり、御霊によるものであることを意味しています。 ここではさらに、この「霊的祝福」は「天にある」(エン・トイス・エプウーラニオイス)ものであると言われています。この「天にある」(エン・トイス・エプウーラニオイス)という言葉は、同じ1章の20節、21節で、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と言われているときの「天上において」と訳されている言葉と同じです。さらに、2章4節〜6節において、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されている中の「天の所に」と訳されている言葉とも同じ言葉です。それで、1章3節の「天にあるすべての霊的祝福」とは、ご自身の民の贖いのために、十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストが、天に上って父なる神さまの右の座に着座されたことに深くかかわっていることが分かります。 主の祈りにおける父なる神さまへの呼びかけは、 天にいます私たちの父よ。 という言葉で表されています。この「天にいます」という言葉(エン・トイス・ウーラノイス)は、エペソ人への手紙1章3節で「天にあるすべての霊的祝福をもって」と言われているときの「天にある」という言葉(エン・トイス・エプウーラニオイス)と同じではありませんが、深く関係していると考えられています。 天にいます私たちの父よ。 と言われているときの「天にいます」という言葉は、父なる神さまが、ご自身がお造りになった世界に充満な栄光においてご臨在しておられることを踏まえています。その意味において、これは、父なる神さまが最も高い「天」にご臨在しておられることを意味しています。そして、十字架にかかってご自身の民のための罪の贖いを成し遂げ、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられて、天に上られた御子イエス・キリストは、その最も高い「天」において、父なる神さまの右の座に着座されました。また、私たちも父なる神さまの愛と恵みによって、ともにその「天の所に」座を持つものとしていただいていると言われています。それで、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっている私たちは、イエス・キリストの御名によって、父なる神さまに、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけることができるのです。 さらに、エペソ人への手紙1章3節においては「キリストにあって」という言葉が出てきます。父なる神さまは、「キリストにあって」、「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。「天にあるすべての霊的祝福」は、御霊によって栄光のキリストと1つに結ばれることによって、私たちにもたらされるものであるのです。父なる神さまが「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったということと、御霊によって私たちを栄光のキリストと1つに結び合わせてくださったということを切り離すことはできません。「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったということは、父なる神さまの永遠にわたる祝福のことであり、御霊によって私たちを栄光のキリストと1つに結び合わせてくださったということは、その祝福が歴史において私たちの現実になっていることを意味しています。父なる神さまは、御霊によって私たちを栄光のキリストと1つに結び合わせてくださることによって、「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったことを実現してくださっているのです。 この父なる神さまの祝福がどのようなものであるかは、4節〜14節において説明されています。そして、4節、5節では、父なる神さまの祝福が、永遠の聖定におけるみこころから始まっていることが示されています。そこには、 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されていました。 「世界の基の置かれる前から」ということは、天地創造の御業の前からということです。これは、私たち人間の思考力の限界に合わせた言い方です。実際には、時間はこの世界の時間ですから、この世界がなければ時間もありません。この世界がないのに時間だけが流れていて、その時間の流れの中のある時に、神さまが天地創造の御業を遂行されたということではありません。あらゆる点において無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまは、その存在においても、無限、永遠、不変の方です。その神さまが天地創造の御業を始められたことによってこの世界の時間が始まりました。この4節では、「世界の基の置かれる前から」ということは、時間を越えた神さまの永遠の聖定においてということを意味しています。 神さまは永遠の聖定において、私たちをお選びになったと言われています。このことは、父なる神さまが私たちを選んでくださったのは、父なる神さまの一方的で主権的な愛と恵みによっているということを意味しています。言い換えますと、父なる神さまが、私たちの資質や行いなどに基づいて、私たちに何か良いところがあるからということで、私たちをお選びになったのではないということです。むしろ、これに続く言葉が示しているように、わが罪を宿すものであり、実際に罪を犯すものであることをご存知であられて、なおも、その一方的な愛と恵みによってお選びくださったことを示しています。 また、この父なる神さまの一方的な愛と恵みによる選びは「キリストにあって」(直訳「彼にあって」)のことであると言われています。これは、3節において、父なる神さまが「天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったのが「キリストにあって」のことであったと言われていることと対応しています。この場合も、新改訳第2版が「キリストのうちに選び」と訳していますように、私たちがキリストと1つに結び合わされ、キリストのうちにあるものとなることを意味していると考えられます。それによって、私たちは父なる神さまのものとなるのです。 そのことが、4節では「御前で聖く、傷のない者にしようとされました」と言われています。また、5節では、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと・・・あらかじめ定めておられた」と言われています。私たちが「御前で聖く、傷のない者」となることと「ご自分の子」となることが、御子イエス・キリストにあって、私たちをお選びになった父なる神さまの目的です。 このように、私たちは、父なる神さまが「キリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して」くださったことにあずかっています。そして、そのゆえに、私たちは、神さまの永遠の聖定において、キリストにあって、御霊によって栄光のキリストと1つに結び合わされることによって、「御前で聖く、傷のない者」となり「ご自分の子」となるように定められています。ですから、私たちがキリストにあって「御前で聖く、傷のない者」となり「ご自分の子」となることは、父なる神さまのみこころであると同時に、私たちの存在の目的でもあります。 私たちがキリストにあって「御前で聖く、傷のない者」となり「ご自分の子」となるということは、私たちが御霊によって栄光のキリストと1つに結び合わされて、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるということを意味しています。 そして、6節においては、 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 という言葉で終っています。ここでは「恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」と言われています。これは、神さまの恵みがほめたたえられることを目的としていることを示しています。言うまでもなく、この父なる神さまの恵みは、その前の4節、5節で、 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と言われていることに表されている恵みです。そして、「恵みの栄光」という言葉は、その恵みが栄光に満ちていることを示しています。 すべては、3節において、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 と言われていることに示されている、父なる神さまの祝福に示されている一方的な愛と恵みに対する讃美から始まっています。そして、これは、永遠の聖定において示されている一方的な愛と恵みに対する讃美へとつながっていきます。これは、さらに、歴史において成し遂げられた贖いの御業に示されている父なる神さまの愛と恵みを説明する7節〜11節に記されていることを受けている12節に、 それは、前からキリストに望みをおいていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。 と記されている讃美へとつながっていきます。それはさらに、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊のお働きのことを述べている13節と14節前半を受けている14節後半において、 これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。 と言われている讃美へと至ります。 父なる神さまは、このような永遠の聖定におけるご自身のみこころを実現してくださるために、創造の御業において、人をご自身のかたちにお造りになり、その心にご自身の律法を記してくださいました。このようにして、神のかたちに造られた人をご自身との契約関係において生きるものとしてくださいました。そして、実際に、神さまはご自身の契約に基づいて、エデンの園にご臨在され、神のかたちに造られた人をご自身のご臨在の御前に生きるもの、ご自身との愛にある交わりのうちに生きるものとしてくださいました。 このことから、神のかたちに造られた人に対する神さまのいちばん大切なみこころが、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」に要約されて示されているということが理解できます。 しかし、繰り返しお話ししていますように、実際には、神のかたちに造られた人は造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。これによって、人は神さまの契約に違反したものとなり、神さまとの愛にあるいのちの交わりを失ってしまいました。そして、その罪がもたらす死と滅びへの道を歩むものとなってしまいました。 これに対して、父なる神さまはご自身の御子を贖い主として立ててくださり、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださいました。そして、御霊によって、私たちを栄光のキリストと1つに結び合わせてくださり、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。 ただし、現実の私たちは、いまだ、自らのうちに罪を宿しています。そのために、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」と、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」を完全に守ることはできていません。私たちは父なる神さまのみこころを知ろうとすることにも、それを行うことにも熱心ではありません。むしろ、父なる神さまのみこころに背くこともしばしばです。また、契約共同体の兄弟姉妹たちへの愛においても冷たいものです。そのために、私たちは、主の祈りにおけるイエス・キリストの教えに励まされながら、地上にある間は、絶えず、 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 と祈り続けなければなりません。 |
![]() |
||