(第156回)


説教日:2008年7月13日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、先週に続いて、主の祈りの第5の祈りである、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りについてのお話をいたします。
 先週お話ししましたように、この祈りにおいて、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るとき、私たちは「負いめ」を負っていることを自覚しています。また、その「負いめ」を赦していただきたいと願っています。このことは、いわば、当然のことですが、私たちは、必ずしも自分がどのような「負いめ」を負っているかを十分に理解しているわけではありません。私たちそれぞれが自分なりの理解をもっていますが、それが私たちの「負いめ」のすべてであるかどうかも分かりません。それで、改めて、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るときの「負いめ」がどのようなものであるかを、御言葉に照らして考えておかなければならないと感じています。
 これも復習になりますが、この「負いめ」という言葉(オフェイレーマ)は、基本的には、経済的な「負債」や「支払うべきもの」、「義務として負っているもの」などを表します。そして、おそらくイエス・キリストがこの山上の説教を語られたときに用いておられたのはアラム語であったと考えられますが、この言葉に当たるアラム語(ホーバー)は、そのような「負債」だけでなく、「罪」すなわち「赦してもらわなければならない罪」をも表しました。このことの背景には、罪は神さまの御前に負債を積み上げるものであるという、その当時の発想があったことを反映していると考えられます。
 先週は、私たちが、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るときの「負いめ」が何であるかを理解するうえで最も基本的なことについてお話ししました。
 簡単に復習しておきますと、マタイの福音書22章35節〜40節には、

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

と記されています。
 このイエス・キリストの教えに示されていますように、神さまの律法において、「たいせつな第一の戒め」は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という、契約の神である主への愛にかかわる戒めです。そして「第二の戒め」は、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という、契約共同体の隣人への愛にかかわる戒めです。
 そして、

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。

というイエス・キリストの教えに示されていますように、神さまのみこころを表す「律法全体」が「この二つの戒め」にかかっています。神さまの律法はすべて「この二つの戒め」に集約され、まとめられます。同時に、神さまのさまざまな律法はすべて「この二つの戒め」を具体的な状況に適用したものでもあります。
 このことは、神のかたちに造られた人に対する神さまのいちばん大切なみこころが、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という「第二の戒め」に要約されて示されているということを意味しています。さらにこのことは、私たちは「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」私たちの契約の神である主を愛するものとして造られており、契約共同体の兄弟姉妹たちを自分自身のように愛するものとして造られているということを意味しています。
 このことを、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という、主の祈りの第5の祈りの言葉に合わせて言いますと、私たちは、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」愛することを私たちの契約の神である主に負っており、契約共同体の兄弟姉妹たちを自分自身のように愛することを、兄弟姉妹たちに負っているということを意味しています。
 ところが、現実の私たちは、そのように、全身全霊をもって私たちの契約の神である主を愛してはいませんし、契約の共同体の兄弟姉妹たちを自分自身のように愛してはいません。イエス・キリストは、そのような私たちの現実をご存知であられて、私たちに、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

と祈るようにと教えてくださっているのです。


 このことを別の角度から見てみましょう。
 神さまが創造の御業において、人をお造りになったことを記している創世記1章26節〜28節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 神さまの創造の御業において大切なことは、神さまが御言葉をもって創造の御業を遂行されたということです。その御言葉を「創造の御言葉」と呼ぶことにしますと、この人間の創造においては、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。

という神さまの御言葉が創造の御言葉に当たります。
 これは、それまでになされた創造の御業における御言葉とは少し違っています。それまでは、たとえば、3節に、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と記されているときの、

 光よ。あれ。

という御言葉のように、創造の御言葉は命令形で記されています。これは、24節に、

ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。

と記されていますように、人の前に動物たちが造られたことを記している記事においても変わりません。
 これに対して、人間の創造においては、いわば、神さまの決意が記されています。
 しかも、その決意は、

 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

というように、主語が「われわれ」となっています。これについてはさまざまな理解がありますが、それについての評価は、すでに別の機会にお話ししています。それで、ここでは結論的なことをお話ししますと、この「われわれ」は神さまご自身のうちに人格的な複数性があることの反映であると考えられます。
 特に、新約聖書の啓示が与えられたことによって明確になったことですが、無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまは、三位一体の神であられます。
 神さまが唯一の神であられることは、神さまの存在においては、分割することができない、ただ1つの本質あるいは実体がある、ということを意味しています。そして、三位ということは、その唯一の神さまは、御父、御子、御霊の3つの位格において存在し、御父、御子、御霊はそれぞれがまことの神であられるとともに、それぞれが位格的に区別されるということを意味しています。御父はまことの神であられますので、神の本質あるいは実体をもっておられます。御子はまことの神であられますので、神の本質あるいは実体をもっておられます。御霊はまことの神であられますので、神の本質あるいは実体をもっておられます。
 ここには存在において無限の神さまのことを、有限な人間の思考に合わせて理解しているために、私たちには完全に理解できない面があります。
 具体的には、「1つ」とか「3つ」ということは空間の中にあって、区切られたもの、「ひとかたまり」になっているものについて言われることです。何の区切りもないものを数えることはできません。ところが、存在において無限の神さまは、空間の中にあって広がっている方ではありません。まして、どこかで区切られて「1人」と言われるような方ではありません。しかし、私たちは「1つ」と言うと、どうしても「1つに区切られて、ひとかたまりとなっているもの」を考えてしまいます。そして「3つ」と言うと、そのように区切られて、ひとかたまりになったものが3つあると考えてしまいます。それは、私たちの思考と理解の限界によることです。そのような限界をもったものが、無限、永遠、不変の存在であられる神さまのことを考えているということをわきまえる必要があります。
 いずれにしましても、
 創世記1章26節において、神さまが、

 われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

と言われたことには、神さまが3つの位格において存在される方であることが反映していると考えられます。ただし、この創世記1章26節の御言葉から、神さまが三位一体の神であられることを論証することはできません。この御言葉から分かることは、神さまが位格的な複数性において存在しておられるということだけです。
 神さまが位格的な複数性において存在しておられることがより明確に示されているのは、ヨハネの福音書1章1節〜3節です。そこには、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。
 この御言葉につきましても、さまざまな機会にお話ししてきましたので、やはり結論的なことだけを確認しておきます。1節で、

 初めに、ことばがあった。

と言われているときの「初めに」は、創世記1章1節に記されている、

 初めに、神が天と地を創造した。

という御言葉の「初めに」に当たります。この、

 初めに、神が天と地を創造した。

という御言葉は、天地創造の御業の記事全体の見出しに当たるものです。そして、「天と地」という言葉は造られたこの世界の「すべてのもの」を指しています。そして、時間はこの世界の時間ですから、この世界が造られたときに時間が始まりました。

 初めに、神が天と地を創造した。

という御言葉は、基本的に、神さまがこの世界のすべてのものをお造りになったことを示しています。同時に、この御言葉から、この世界には「初め」があり、この世界は時間的な世界として造られており、時間とともに造られたことを知ることができます。ヨハネの福音書1章1節の、

 初めに、ことばがあった。

という御言葉は、神さまが創造の御業を始められたときに、「ことば」がすでに存在していたことを示しています。そして、3節に、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されていますように、天地創造の御業を遂行されたのは、「ことば」であったのです。1節の最後に、

 ことばは神であった。

と記されていますように、「ことば」は、まことの神であられます。
 そして、1節の真ん中に、

 ことばは神とともにあった。

と記されています。このことが大切なことであることは、同じことが2節で、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と言われて繰り返されていることに表されています。

 ことばは神とともにあった。

と言われていることは、父なる神さまと「ことば」と言われている御子の間に愛の交わりがあることを示しています。そして、2節に、

 この方は、初めに神とともにおられた。

と記されていることは、その父なる神さまと御子との愛の交わりが天地創造の御業に先立っていること、すなわち、永遠の交わりであることを意味しています。
 ヨハネの手紙第1・4章16節に、

 神は愛です。

と記されていますように、神さまの本質的な特性は愛です。そして、実際に、神さまの3つの位格の間には無限、永遠、不変の愛の通わしがあります。そのように、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにおられ、愛においてまったく充足しておられるる御子が、父なる神さまのみこころに従って、この世界とその中のすべてのものをお造りになりました。
 このことから、天地創造の御業は、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる神さまが、ご自身の愛をご自身の外に向けて表現されたことであると理解することができます。
 そのようにして、この世界は無限、永遠、不変の愛においてまったく充足しておられる神さまがお造りになった世界であり、神さまの愛といつくしみに満ちています。詩篇33篇5節、6節には、

 主は正義と公正を愛される。
 地は主の恵みに満ちている。
 主のことばによって、天は造られた。
 天の万象もすべて、御口のいぶきによって。

と記されています。
 このことに照らして見ますと、創世記1章26節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されていることは、無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにまったく充足しておられる神さまが、ご自身の愛をご自身の外に向けて、造られたものに向けて表現しておられることにかかわっていると考えられます。
 注意したいことは、このことも、創世記1章26節に記されていること、それ自体から引き出されることではありません。あくまでも、ヨハネの福音書1章1節〜3節に記されていることに照らして初めて見えてくることです。
 いずれにしましても、天地創造の御業は、無限、永遠、不変の愛においてまったく充足しておられる神さまが、ご自身の愛を、造られた世界に向けて表現されたこととしての意味をもっていると考えられます。
 そうであるとしますと、神さまが、ご自身の造られた世界に向けて現しておられる愛を受け止める存在が、造られた世界にもいるはずです。もちろん、神さまによって造られたすべてのものがその愛といつくしみを受けています。しかし、造られたものがすべて、自分たちが造り主である神さまの愛といつくしみを受けていることを知っているわけではありません。そのことを知っている存在、そして、実際に神さまの愛を身に受けて、自らの愛をもって応答できる存在が、確かにいます。それが、神のかたちに造られた人です。
 創世記1章1節〜2章3節に記されている創造の御業の記事を見てみますと、植物や動物の創造と、神のかたちに造られた人の創造には、いくつかの違いがあることが示されています。
 1つは、先ほどお話ししましたように、神のかたちに造られた人の創造についてだけ、創造の御言葉は神さまの決意のかたちで語られていて、それ以外のものを造り出した創造の御言葉は、命令の形で語られていることです。
 もう1つの重大な違いは、植物や生き物たちは、すべて、おのおの「その種類にしたがって」造られたと言われていますが、人だけは、「その種類にしたがって」造られたと言われないで、神のかたちに造られたと言われているということです。
 植物や生き物たちが、おのおの「その種類にしたがって」造られたと言われているのは、植物や生き物たちが、それぞれの「種類」において完結しているということを意味していると考えられます。つまり、植物たちは自らの「種類」の中で増え広がっていきます。また、生き物たちは自分たちで群れていればそれで十分であって、それ以上、別の「種類」の生き物たちとの交流がなければならないわけではありません。これに対して、人の場合には、神のかたちに造られたと言われています。神のかたちに造られた人は、自分たち人間だけの交わりで、交わりが完結するものではありません。もちろん、神のかたちに造られた人にとって、お互いに愛し合う愛のうちに生きることは、決して、欠くことができない大切なことです。しかし、神のかたちに造られた人は、それ以上に、神さまとの愛の交わりに生きるものとして造られています。それで、御言葉は、神のかたちに造られた人のいのちの本質は、造り主である神さまとの愛の交わりにあると教えています。
 このように、人は、愛を本質的な特性とされる神さまのかたちに造られています。それで、神のかたちに造られた人は愛を本質的な特性とする人格的な存在であるのです。そうであれば、神のかたちに造られた人が、神さまの愛を受け止め、自らの愛をもって神さまに応答することは、当然のことであるばかりか、最も自然なことであるのです。
 このことに照らしてみますと、神のかたちに造られた人に対する神さまのみこころを表している神さまの律法が、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という「第二の戒め」に要約されて示されているということの意味が理解できます。
 「この二つの戒め」に要約される神さまの律法は、神のかたちに造られた人の義務を表しているのですが、それ以前に、またそれ以上に、神のかたちに造られた人の本来のあり方、本来の姿を示しているのです。そして、それが義務であるということは、人は愛を本質的な特性とする神のかたちに造られたものとして、その本来の姿であること、その本来の姿において生きることが義務であるという意味です。実際には、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっていますので、そのようにして本来の姿を失ってしまっていますので、この義務が重荷と感じられるようになってしまっているのです。
 言うまでもなく、愛を本質的な特性とする神のかたちの本来の姿であるということは、全身全霊をもって契約の神である主を愛し、契約共同体の隣人である兄弟姉妹たちを自分自身のように愛することに生きることです。
 繰り返しになりますが、現実の私たちは、自らのうちにある罪のために、そのような愛において欠けのあるものです。それで、イエス・キリストの教えにしたがって、常に、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

と祈りつつ、イエス・キリストにある、父なる神さまの愛と恵みを仰ぎ続けなければなりません。

 


【メッセージ】のリストに戻る

「主の祈り」
(第155回)へ戻る

「主の祈り」
(第157回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church