(第155回)


説教日:2008年7月6日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第5の祈りは、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

という祈りです。
 ある方々は、今も広く祈られている文語体の主の祈りで、

我らの罪をもゆるしたまえ。

となってることに慣れているために、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈ることに、違和感を感じるかもしれません。
 けれども、この主の祈りの第5の祈りに用いられている言葉、オフェイレーマ(ここでは複数形オフェイレーマタ)は、基本的に「負いめ」を表わす言葉です。これは、経済的な「負債」や「支払うべきもの」を表します。ローマ人への手紙4章4節には、

働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。

と記されています。ここで「当然支払うべきもの」と訳されている言葉がこの言葉、オフェイレーマです。
 その当時のユダヤ教のラビたちの思想には、罪は神さまの御前に負債を積み上げるものであるという考え方があったようです。それで、「負債」を表すアラム語のホーバーは、また、「罪」をも表すものでもありました。おそらく、この山上の説教において、イエス・キリストはアラム語によって語られたと考えられます。そして、この主の祈りの第5の祈りで、このホーバーという言葉を用いられたと考えられます。
 同じ祈りを記しているルカの福音書11章4節では、

私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。

となっています。マタイの福音書で、

 私たちの負いめをお赦しください。

という部分が、ルカの福音書では、

 私たちの罪をお赦しください。

となっていて、「負いめ」に当たる言葉が「罪」、ハマルティア(ここではその複数形)となっています。
 この違いは、それぞれの福音書が想定している読者の違いにあると考えられています。マタイの福音書はユダヤ人を念頭において記さたと考えられます。それで、ユダヤ人たちはホーバーという言葉を知っており、「負いめ」(オフェイレーマ)を、そのホーバーの意味で理解できたと考えられます。これに対して、異邦人の読者のために記されているルカの福音書においては、「負いめ」(オフェイレーマ)が経済的な「負債」のことであると誤解されかねませんので、最初の言葉を「罪」、ハマルティアで表したのであると考えられます。
 新改訳がマタイの福音書5章12節において「負債」と訳さないで「負いめ」と訳したのは同じようなことを考慮してのことでしょう。「負債」と訳したのでは、経済的な負債のことと受け取られかねません。


 それでは、主の祈りの第5の祈りを、新改訳のように「負いめ」という言葉を用いて訳しても、文語体のように「罪」という言葉を用いて訳しても、同じことであるということになるのでしょうか。これについては、その意味するところにほとんど違いはないけれども、そこには微妙な違いがあると考えられます。
 このことを理解するために、今日は、私たちが「負いめ」を負っているということについてお話ししたいと思います。
 私たちが

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るときには、自分の「負いめ」の赦しを願っているのですが、同時に、自分が「負いめ」を負っているということを自覚し告白しています。自分が「負いめ」を負っていることを自覚していないのに、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るとしたら、それは、意味のないことを祈っているということになるか、そうでなければ、自分は「負いめ」を負っていないけれども、他の人たちが「負いめ」を負っているから、このように祈るということになってしまいます。
 また、父なる神さまに、

 私たちの負いめをお赦しください。

と祈るのですから、この「負いめ」は私たちが父なる神さまに負っている「負いめ」です。
 この「負いめ」を負うことがどのようなことであるか、その最も基本的なことを考えるために、ローマ人への手紙13章8節を見てみましょう。そこには、

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

と記されています。ここに記されている、

 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。

という教えは、人から何かを借りることを禁止しているのではありません。もしこれが人から何かを借りることを禁止する教えであれば、たとえば、マタイの福音書5章42節に記されている、

求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。

というイエス・キリストの教えと矛盾することになってしまいます。
 新改訳で、

 だれに対しても、何の借りもあってはいけません。

と訳されている教えを直訳すれば、

 だれにも何も負ってはいけません。

となります。ここでは先ほどの「負いめ」、オフェイレーマの動詞(オフェイロー)が用いられています。これは現在形の命令法で表されています。それで、誰かに何かを負った状態であり続けてはいけないという意味合いを伝えています。つまり、負っているものを返しなさい、ということを教えていると考えられます。
 ここでは、このことに続いて、

 ただし、互いに愛し合うことについては別です。

と言われています。これは例外について述べています。この新改訳の理解と違う理解をしている人々もいますが、ここでは新改訳が示している理解の方がいいと考えられます。その場合には、

 ただし、互いに愛し合うことについては別です。

ということは、「負いめ」を負い続けることに対する例外を示しています。たとえば、人からお金を借りた場合には、そのお金、あるいは場合によってはお金と利子を返せば、その貸し借り、あるいは貸し借りの関係は終りとなります。けれども、私たちが「互いに愛し合うこと」は、そのように考えることはできません。これだけの愛を受けたから、それ相当の愛を返せば終りになるというように考えることはできないのです。ですから、私たちが「互いに愛し合うこと」の中で、もうこれ以上は愛さなくてもよい、というような状態になることは、決してありません。
 このローマ人への手紙8章13節の教えの最後では、

他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。

と言われています。そして、これを受けて続く9節には、

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。

と記されています。
 ここに触れられている、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という戒めは、律法の中でいちばん大切な2つの戒めのうちの「第2の戒め」です。マタイの福音書22章35節〜40節には、

そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

と記されています。
 このイエス・キリストの教えに示されていますように、「たいせつな第一の戒め」は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という、契約の神である主に対する愛にかかわる戒めです。そして「第二の戒め」が、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という、契約共同体の隣人に対する愛にかかわる戒めです。
 ここで「第一の戒め」と「第二の戒め」と言われているのは、これらが最初の2つで、その後に第3の戒め、第4の戒めなどが続いている、という意味ではありません。先ほどのローマ人への手紙13章9節には、

「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されている

と記されていました。つまり、人との関係にかかわるすべての戒めは、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という戒めに集約され、まとめられるというのです。ですから、この「第二の戒め」は、人との関係に関するその他の戒めと同列に並べられるものではありません。当然、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」も、神さまとの関係に関するその他のすべての戒めを集約し、まとめるものであり、その他の戒めと同列に並べることはできません。
 このように、「この二つの戒め」は、契約の神である主との関係に関するすべての戒めと、契約共同体の隣人に関するすべての戒めを集約し、まとめています。言い換えますと、「この二つの戒め」は主の律法の全体を集約し、まとめているということになります。
 そればかりではありません。イエス・キリストは、

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。

と教えておられます。ここで「律法全体と預言者」と言われているときの「預言者」は複数形です。それで、これは「律法全体と預言者たち」となります。「律法」と「預言者たち」の組み合わせは、マタイの福音書では、5章17節にも見られます。そこには、

わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。

と記されていてます。
 この「律法」と「預言者たち」の組み合わせは、ヘブル語旧約聖書の区分が、「律法」、「預言者たち」、「諸文書」となっていることを受けています。そして、「律法」と「預言者たち」の組み合わせによって旧約聖書全体を、代表的に表しています。それで、22章40節に記されている、

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。

というイエス・キリストの教えは、旧約聖書全体が、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という「第二の戒め」にかかっているということを示しています。言い換えますと、旧約聖書に記されていることの全体は、「この二つの戒め」に要約されるし、「この二つの戒め」を説明しているということです。
 それにしても、旧約聖書には律法だけが記されているわけではありません。天地創造の御業のこと、特に人が神のかたちに造られたことから始まって、神のかたちに造られている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して堕落したこと、そこからノアの時代に至るまで人類全体がその罪を徹底化していき、ついに大洪水による終末的なさばきを招くに至った歴史が記されています。
 また、その後の人類が同じ道をたどり始めたので、神さまは人の言葉を乱して、人類を全地に散らされたこと、そのような中から、アブラハムが召しを受け、主の契約にあずかったことから始まる、契約の民の族長たちの歩みが記されています。そして、主がエジプトの奴隷の状態にあったイスラエルの民を贖い出してくださり、イスラエルの民にご自身の契約を与えてくださったことが記されています。その時に、十戒を中心とするモーセ律法が与えられました。そして、旧約聖書の「律法」と呼ばれる最初の5つの書が記されました。
 その後も、イスラエルの民の歴史が記されました。それが「預言者たち」のうちの「前の預言者たち」という部分に収められているいくつかの書に記されています。また、「後の預言者たち」と呼ばれる部分には、いわゆる預言者たちによって記された書が含まれています。その他、旧約聖書には詩篇を初めとして、さまざまな知恵文学なども含まれています。
 このような旧約聖書全体が「この二つの戒め」にかかっており、「この二つの戒め」を説明しているというのは、一体どういう意味なのでしょうか。
 このことを解く鍵は、やはり、「この二つの戒め」そのものにあります。「この二つの戒め」とは、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という、契約の神である主との関係のあり方にかかわる「第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という、契約共同体の隣人との関係のあり方にかかわる「第二の戒め」です。
 神さまは天地創造の御業において人を「ご自身のかたち」にお造りになりました。「この二つの戒め」は、神のかたちに造られた人がどのようなものであるか、その本質的な特性を示しています。
 どういうことかと言いますと、ヨハネの手紙第1・4章16節に、

 神は愛です。

と記されていますように、神さまの本質的な特性は愛です。神さまは、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる主であられ、永遠からのご自身のみこころ、すなわち、聖定的なみこころにしたがって、この世界のすべてのものをお造りになった方です。そのように、神さまは無限、永遠、不変の栄光に満ちておられる人格的な方です。その人格的な神さまの本質的な特性が愛であるのです。もちろん、神さまの愛は無限、永遠、不変です。
 それで、神のかたちに造られた人も自らの意思をもち、自らのあり方を決めることができる人格的な存在として造られています。そして、その人格的であることの本質的な特性は愛です。それで、神のかたちに造られた人の自由な意志は、神のかたちの本質的な特性である愛によって導かれて働きます。そして、その愛は、自らの造り主である神さまを愛することと、ともに神のかたちに造られている隣人を愛することに現れてきます。ですから、神のかたちに造られた人にとって、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という「第二の戒め」は、神のかたちに造られた人の本来のあり方を示しているのです。
 これを別の面から見ますと、神さまは人をご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださるために、天地創造の御業において、人を、愛を本質的な特性とする神のかたちにお造りになったということです。その際に神さまは、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という「第二の戒め」を、神のかたちに造られた人の心に書き記してくださっていたのです。
 もちろん、「心に書き記す」ということは比喩的な言い方ですが、聖書の中に何度か出てくる言い方です。このことが何を意味しているかといいますと、本来、神のかたちに造られた人にとって、全身全霊を傾けて神さまを愛することと、隣人を自分自身のように愛することは、最も自然なことであったということです。それは、神のかたちの本質的な特性が愛であるからです。
 このように、聖書は、神さまが天地創造の御業において人を神のかたちにお造りになり、ご自身との愛の交わりのうちに生きるものとされたことを記しています。そして、実際に、神のかたちに造られた人が、契約の神である主のご臨在の御前において、神さまとの愛の交わりに生きる祝福にあずかっていたことを記しています。この神さまとの愛にある交わりが神のかたちに造られた人のいのちの本質です。
 このようにして、聖書は、神のかたちに造られた人の本来の姿を啓示しています。それとともに、神のかたちに造られた人が契約の神である主に対して罪を犯し、御前に堕落してしまったこと、それによって死の力に捕らえられ、滅びの道を歩むようになってしまったことを啓示しています。
 さらに、聖書は、人が罪を犯して堕落してしまった直後に、神である主が贖い主を約束してくださったことを啓示しています。その贖い主のお働きによって、主の契約の民が死と滅びの道から贖い出されるというのです。そればかりではありません。神である主がご自身の民を死と滅びの道から贖い出してくださるのは、ご自身の民を、再びご自身との愛にある交わりのうちに生きるものとしてくださるためであるということが示されています。
 そして、旧約聖書は全体として、この贖い主による贖いの御業を預言的に説明し、新約聖書は御子イエス・キリストによって贖いの御業が成し遂げられ、主の民が神である主の御臨在の御前に近づいて、ご自身との愛にある交わり、そして、契約共同体の隣人との愛にある交わりのうちに生きることができるようになったことを啓示しています。
 これらのことを踏まえますと、旧約聖書ばかりでなく、新約聖書も含めた聖書全体が、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という「第一の戒め」と、

 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という「第二の戒め」にかかっていることが分かります。
 繰り返しになりますが、「この二つの戒め」は、神のかたちに造られた人の本質的な特性が愛であること、そのゆえに全身全霊を尽くして神である主を愛することと、契約共同体の隣人を自分自身のように愛することが、神のかたちに造られた人にとって当然のことであるばかりでなく、最も自然なことであるということを示しています。
 このことを、主の祈りの第5の祈りに出てくる「負いめ」という言葉に合わせて言いますと、私たちは全身全霊を尽くして神である主を愛することを神さまに負っており、契約共同体の隣人を自分自身のように愛することを隣人に負っているということになります。
 そして、私たちが、

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。

と祈るのは、私たちが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、神である主のご臨在の御前で生きるものとしていただいているにもかかわらず、なおも、神である主への愛においても、隣人への愛においても、欠けていることを、痛切に感じるからに他なりません。

 


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