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説教日:2008年6月29日 |
また、主の祈りの第4の祈りの背景となっていると考えられる、出エジプトの時代に、神である主が荒野を旅するイスラエルの民を養ってくださるために、40年の間「マナ」を与えてくださったことからも、この問題を考えました。 イスラエルの民の第2世代が約束の地に入るにあったって、神である主はこのことの意味を明らかにしてくださいました。申命記8章2節〜4節には、 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 と記されています。 マナはそれまで人類が手にしたことがない食べ物でしたし、その後も、マナを手にした者はいません。主は荒野で、成人男子だけで60万人と言われているイスラエルの民を養ってくださるために、そのような食べ物を40年の間、欠かすことなく与えてくださいました。そのことをとおして、主は、 それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる ということを教えてくださったと言われています。 人は主の口から出るすべてのもので生きる というときの「主の口から出る・・・もの」とは、ヘブル語聖書のギリシャ語訳である70人訳が示しているとおり、主の御言葉のことです。そして、「主の口から出るすべてのもの」の「すべてのもの」は単数です。それで、「主の口から出るすべてのもの」とは、具体的な状況において語られる主の御言葉を意味しています。 私たちは、聖書は神の御言葉であると信じています。それで、「神の言葉とは何ですか」という問いかけに対して、「神の言葉とは聖書である」と答えたくなります。しかし、それは答えとしては間違っています。それは、「ライオンは動物である」ということから、「動物はライオンである」と言うことができないのと同じです。 どういうことかと言いますと、たとえば、詩篇33篇6節には、 主のことばによって、天は造られた。 天の万象もすべて、御口のいぶきによって。 と記されています。ここに出てくる「主のことば」は聖書のことではありません。これに対して、ここに出てくるのは創造の御業において、神さまが語られた御言葉であって、今日ではもう語られることはないのではないかという疑問が出されるかもしれません。確かに、創造の御業は終っていますので、創造の御業において語られた言葉が今日も語られるということはありません。けれども、たとえば、詩篇147篇15節〜18節には、 主は地に命令を送られる。 そのことばはすみやかに走る。 主は羊毛のように雪を降らせ、 灰のように霜をまかれる。 主は氷をパンくずのように投げつける。 だれがその寒さに耐ええようか。 主が、みことばを送って、これらを溶かし、 ご自分の風を吹かせると、水は流れる。 と記されています。ここには、今、私たちが目にしている自然界の変化のことが語られています。そして、それは、神である主が御言葉によって導いておられることであると告白されています。創造の御業において、御言葉によってこの世界のすべてのものを造り出された神さまは、お造りになったこの世界を放置しておられるのではありません。今も、その御言葉によってすべてのもの、すべてのことを支えてくださり、導いてくださっているのです。それで、この世界は秩序ある世界として保たれています。このことをより包括的に述べているのが、ヘブル人への手紙1章3節です。そこには、 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。 と記されています。 この詩篇147篇15節や18節に出てくる神である主の御言葉は、主が今日においても語られる御言葉ですが、聖書の御言葉とは違います。ですから、聖書は神の御言葉ですが、聖書だけが神の御言葉ではないのです。 もちろん、私たちは、 主は地に命令を送られる。 そのことばはすみやかに走る。 と言われているときの、主の命令の言葉を聞くことはできません。主は創造者であられて、物質的な方ではありません。物質は神さまによって造られたものだけに当てはまるものです。私たちが誰かの声を聞くことができるのは、その声が空気を振動させて、私たちの鼓膜にその振動が伝わることによっています。通常、神さまはそのような形では語られません。 もちろん、神さまは、人の内側に語りかけるだけでなく、空気を振動させる形で人に語りかけることもおできになります。実際に、そのようになさったことが、いくつか聖書に記されています。たとえば、申命記5章22節には、 これらのことばを、主はあの山で、火と雲と暗やみの中から、あなたがたの全集会に、大きな声で告げられた。このほかのことは言われなかった。主はそれを二枚の石の板に書いて、私に授けられた。 と記されています。「これらのことば」とは、十戒の戒めの言葉のことです。イスラエルの民は実際に主の御声を聞いて、そのまま御声を聞き続ければ、自分たちは滅ぼされてしまうと感じたほどです。 しかし、その人の内側においてであれ、外側からであれ、神さまが直接に的に語られたのは、神さまの贖いの御業の歴史の中でのことですし、それも、贖いの御業の遂行にとってきわめて重大なことに限られています。いつでも、誰でも主の御声を直接的に聞いたわけではありません。イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業が成し遂げられ、そのことに基づいて、御霊が遣わされ、贖いの御業をあかしする啓示の御言葉としての聖書が完成した後は、そのような形で、主が私たちに直接的に語りかけられることはなくなりました。 けれども、先ほどの詩篇147篇15節〜18節に記されている主の御言葉は、今日も語られています。神さまがこの世界のすべてのものを造り出されたのが、ご自身のご意志の発動である、御言葉によっているように、造られたすべてのものを支え、導いておられるのも、ご自身のご意志の発動である、御言葉によっているのです。神さまがお造りになったすべてのものを支え、導いておられることを「摂理の御業」と呼びます。神さまは御言葉によって摂理の御業を遂行しておられます。先ほど引用しましたヘブル人への手紙1章3節では、それが、特別に、三位一体の神さまの御子のお働きであることが明らかにされています。 このように、神さまが御言葉によってこの世界を調和のうちに保ってくださり、導いてくださっていますので、この世界は安定しています。人はそれをさまざまな「法則」として捉えています。そして、この世界を律しているのはその法則であると考えています。しかし、この世界を律しているのは「法則」ではなく、神さまの御言葉です。神さまが御言葉によってこの世界を調和のある世界としてお造りになり、真実にすべてのものを保ってくださり、導いてくださっているので、人はこの世界に起こっていることに「規則性」を見出し、「法則」として捉えることができるのです。 出エジプトの時代に、主が荒野において、マナをもって、成人男子だけで60万人といわれているイスラエルの民を、40年の間養ってくださったことは、それ以前にも、それ以後にも、人間が経験したことがないことでした。その意味で、これは、奇跡的な出来事です。これは、神さまの特別な摂理の御業として分類されます。けれども、それも神である主の御言葉によってなされたことであるという点では、その他のことと同じです。 先ほど引用しました申命記8章6節に記されていますように、主が、イスラエルの民の第2世代に、 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。 と言われたことの背景には、このようなことがあってのことです。 主は、これに続いて、 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 と言われました。先週お話ししましたように、これは、マナのように特別な摂理のお働きである奇跡的な御業によっているのではなく、「着物」は、イスラエルの民がエジプトから連れ出した羊などの家畜から得られた衣料のことであると考えられます。また、「足」が守られたことも、マナによって養われた民が力を得て歩くことによって、足が鍛えられて強くなるというように、通常の主の支えによることであったと考えられます。けれども、これも、これまでお話ししてきましたような、主の御言葉によることでありました。 このような主の御言葉が、 人は主の口から出るすべてのもので生きる と言われているときの「主の口から出るすべてのもの」、すなわち、その時、その状況において、ふさわしく語られる主の御言葉のことであると考えられます。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という主の祈りの第4の祈りにおける「日ごとの糧」が意味するところは何かという問題とのかかわりでは、このマナをとおしての主の教えにおいても、マナという食べ物のことだけでなく、「着物」が備えられたことや、「足」が守られたこともともに語られています。それで、「日ごとの糧」という言葉は、私たちの生活においてなくてならないものを代表的に表していると考えることができます。 問題は、この「日ごとの糧」という言葉は、食べ物や着物のように物質的な必要のことだけを表しているのかということです。これについても、まず、結論的なことを言いますと、それは物質的な必要のことに限られていないと考えられるということです。 ある人は、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という第4の祈りにおいて物質的な必要のことを祈り、続く、 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 という第5の祈りにおいて霊的な必要のことを祈っていると述べています。けれども、御言葉の全体的な教えに照らして見たときに、主の民の霊的な必要を「負いめ」の「赦し」によって表すということには、後ほどお話しますように、まったく無理であるとは言えないでしょうが、首をかしげます。「負いめ」の「赦し」は、神さまの一方的な恵みによることですし、私たちにとって決して欠くことができないものです。けれども、それはいわば、消極的なことです。私たちは「負いめ」を「赦し」ていただくだけでなく、「負いめ」を「赦し」ていただいている者として、神である主のご臨在の御前に生きるべき者です。それで、たとえば、私たちには、ペテロの手紙第1・1章23節〜2章2節に、 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。 と記されていますような現実と必要があります。私たちは「生ける、いつまでも変わることのない、神のことば」によって生まれており、「純粋な、みことばの乳」によって養われるべきものです。 このような私たちの霊的な必要も、 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 という第5の祈りに含まれているということができるでしょうか。これに対しては、実際にこのように論じられているかどうかは分かりませんが、すべては、まず「負いめ」の「赦し」があってのことなので、「負いめ」の「赦し」をもって、霊的な必要を代表させていると論じることも可能ではないかと思われます。 しかし、さらに考えるべきことがあります。ヨハネの福音書6章1節〜14節に記されていますように、イエス・キリストは5つのパンと2匹の魚をもって成人男子だけで5千人の人々を養ってくださいました。先ほどお話ししたことに合わせて言いますと、これも、ご自身の御言葉によることです。 その際に、26節、27節に記されていますように、イエス・キリストは、後にご自身を探してやって来た人々に、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。 と教えられました。ここで、イエス・キリストは、ご自身が与えられるのは「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」であると言われました。 一連の教えを聞いた人々は出エジプトの時代のマナの事例を引き合いに出して、イエス・キリストに、しるしを見せてくれるように迫りました。それに対して、イエス・キリストは、マナではなく、ご自身がまことの食物であられることをお示しになりました。35節には、 わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 と記されています。また、48節〜51節には、マナのことにも触れて、 わたしはいのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。 と記されています。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と祈るようにと教えられたイエス・キリストが、 なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。 と教えておられます。そうであれば、その「日ごとの糧」を求めることには、イエス・キリストご自身が与えようとしておられる「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」を求めることも含まれていると考えることができます。 さらに注目すべきことがあります。イエス・キリストは、ご自身がまことの食物であられることを教えられたとき、それと関連して、39節、40節に記されていますように、 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 と教えておられます。 これは、「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」であられるイエス・キリストにあずかること、すなわち、イエス・キリストを信じて受け入れることには、終りの日における完成があることを示しています。「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」であられるイエス・キリストにあずかって生きることは、すでに私たちの現実となっていますが、終りの日には完全な形で実現します。 このことは、 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように 地でも行なわれますように。 という主の祈りの最初の3つの祈りが、終りの日における完成を視野に入れて、それに力点を置いているということと符合しています。この最初の3つの祈りで、私たちが祈り求めていることは、すでにイエス・キリストにあって私たちの現実となっています。けれども、それは終りの日においてまったき形において実現します。 このような終りの日を見据えてその完成を待ち望むという視点は、これに続く、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という第4の祈りにおける「日ごとの糧」を求めることにも当てはまると考えられます。このことからも、第4の祈りには、霊的な糧を求めることも含まれていると考えられます。 私たちは、父なる神さまが、イエス・キリストにあって、また、御言葉をもって、私たちのからだを支えてくださるだけでなく、私たちの霊的な必要も満たしてくださっていることを信じて、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と祈りつつ、地上の旅路を続けます。 |
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