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説教日:2008年6月22日 |
ウェストミンスター小教理問答には、主の祈りに関する問答が含まれています。問104では、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という主の祈りの第4の祈りに関して、 第四の祈願でわたしたちは、何を祈り求めるのですか。 と問いかけています。これに対する答えは、 第四の祈願、すなわち「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」でわたしたちは、神の、無償の賜物のなかから、わたしたちがこの世の良きものをふさわしい分だけ受け、それらをもって神の祝福を喜ぶことができるように、と祈ります。 となっています。(松谷好明訳) この答えでは、主の祈りの第4の祈りにおいて私たちが祈り求めているのは食べ物のことだけでなく、それをも含めた「この世の良きもの」であるという理解が示されています。このような理解は正当な理解であるのでしょうか。 結論から先に言いますと、このような理解はこの祈りの主旨に沿ったものであると思われます。それにはいくつかの理由があります。 まず、すでに取り上げてお話ししましたが、主の祈りが記されているマタイの福音書6章においては、その最後の部分に食べる物のことだけでなく、飲む物のことや着る物のことが語られています。31節〜33節には、 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 と記されています。 ここで、 あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 と言われているのは、すでにお話ししましたように、すべてのことをご存知であられる父なる神さまが、このことも知っておられるという一般的な意味で知っておられるという意味ではありません。父なる神さまがこのことを特別な意味で知っていてくださるということ、そして、そのように私たちをお心にかけてくださり、私たちのために配慮してくださっているということを意味しています。いまお話ししていることとのかかわりで言いますと、父なる神さまは私たちの食べる物のことだけでなく、飲む物や着る物のことをも、同じように覚えていてくださり、配慮し備えていてくださるということです。 そうであれば、主の祈りにおいては、少なくとも、これらのことを祈り求めるということは十分考えられます。 主の祈りはとても簡潔な言葉で祈る祈りです。すでに学んできました最初の3つの祈りから汲み取ることができますが、その簡潔な言葉は、思想の貧困を意味するのではありません。その簡潔な言葉には、実に豊かな意味合いが凝縮される形で詰まっています。そのことは、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という題4の祈りにも当てはまると考えられます。それで、この祈りでは、私たちの食べる物や飲む物や着る物という言葉の積み上げを避けて、全体を食べる物すなわち「糧」によって代表させていると考えられます。 また、パウロの教えでも、テモテへの手紙第1・6章7節〜9節には、 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。 と記されていました。ここでも、食べる物と着る物が一組となって出てきます。 さらに、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という主の祈りの第4の祈りの旧約聖書の背景の1つとして、出エジプトの時代に、荒野を旅するイスラエルの民を養ってくださるために契約の神である主が与えてくださったマナのことをお話ししました。 出エジプト記16章には、シンの荒野においてイスラエルの民は食べ物がないということで、モーセとアロンに対してつぶやきました。3節には、それが、 エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。 と記されています。これは実質的には主に対するつぶやきです。イスラエルの民は、出エジプトの出来事以来、主が自分たちになしてくださったすべての御業は、結局、この荒野で自分たちを飢え死にさせるためのものであったとまで言っています。 これに対して、主は、4節、5節に記されていますように、モーセに、 見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。六日目に、彼らが持って来た物をととのえる場合、日ごとに集める分の二倍とする。 と言われました。 そして、13節〜16節には、 それから、夕方になるとうずらが飛んで来て、宿営をおおい、朝になると、宿営の回りに露が一面に降りた。その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」 と記されています。 「マナ」はヘブル語では「マーン」で、15節において、 イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう。」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。 と記されている中に出てくる「これは何だろう」という言葉の「何だろう」という疑問詞「マーン」を受けています。このことが示していますように、マナはイスラエルの民が見たことも聞いたこともないものでした。そればかりか、それ以前にも、またその後にも、人類が経験したことがない食べ物でした。 主は力強い御手をもってイスラエルの民をエジプトの地から贖い出してくださった後、イスラエルの民を荒野へと導かれました。そのようなところで、成年男子だけで60万人と言われているイスラエルの民が生きていくことは、とても無理なことと思われました。しかし主は、そのような状況において、人間の経験を越えた食べ物をもって、40年の間変わることなく、イスラエルの民を養い続けてくださいました。 このことを受けて、荒野のイスラエルの民の第2世代に対する戒めを記している申命記8章2節〜4節には、 あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 と記されています。 ここでは、主が「四十年の間、荒野で」イスラエルの民を歩ませてくださったことの意味を思い起こさせています。そして、マナをもってイスラエルの民を養ってくださったことの意味について、 それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。 と述べています。 旧約聖書のギリシャ語訳である70人訳は、この「主の口から出るすべてのもの」という部分を、「主の口から出るすべてのことば(レーマ)」と訳しています。イエス・キリストは荒野において悪魔の試みにあわれた時に、ほぼこの70人訳に沿って、悪魔にお答えになっておられます。マタイの福音書4章2節〜4節には、 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」 と記されています。 ちなみに、この場合の「主の口から出るすべてのもの」あるいは「主の口から出るすべてのことば」は単数です。それで、これは、その時その時の状況にふさわしく「神の口から出る一つ一つのことば」が語られたということ、その「神の口から出る一つ一つのことば」がイスラエルの民を生かしたということを意味していると考えられます。 人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる という言葉だけを見ますと、このことは、人はパンという肉体の糧だけではなく、「主の口から出るすべてのもの」すなわち主の御言葉という霊の糧によっても生きるということを教えているように見えます。 けれども、先ほど引用しました申命記8章2節〜4節では、主が40年の間マナをもってイスラエルの民を養い続けてくださったことをもって、 人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる ということを教えてくださったと言われています。 「あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナ」と言われていますように、マナは人間の経験を越えた食べ物でした。そうではあっても、マナは肉体を養う糧でした。そのマナを40年にわたって備えてくださったことをとおして、 人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる ということを教えてくださったというのです。 より分かりやすく言いますと、その肉体を養う糧であるマナを40年にわたって備えてくださったことをもって、 人は主の口から出るすべてのもので生きる ということを教えてくださったということです。それで、この主の教えでは、肉体を養う糧であるマナと「主の口から出るすべてのもの」が、一方は物理的な糧であり、もう一方は霊的な糧であるというように、対比されてはいません。 この主の教えを理解する鍵は、肉体を養う糧であるマナも、「主の口から出るすべてのもの」、その時にふさわしく語られた主の御言葉によって与えられたということです。主はエジプトの地から贖い出してくださったイスラエルの民を、荒野へと導いてくださいました。それで、荒野を通ることは主のみこころによっていました。そうであれば、主は、その荒野においてイスラエルの民を養ってくださるはずです。そして、実際に、荒野において食べる物がなかったときに、主はマナという、人間が経験したことがない食べ物をもってイスラエルの民を養ってくださいました。それに先立って、主は、 見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。 と約束してくださいました。このマナは「主の口から出るすべてのもの」としての約束によって与えられたものです。 より広い視野で見ますと、主は力強い御手をもって、イスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださいました。それは、イスラエルの民を祭司の国として召してくださるためでした。そのようにして、イスラエルの民がエジプトの奴隷の身分から贖い出されたのも、そして、荒野を通っていくように導かれたのも、すべて、「主の口から出るすべてのもの」としての御言葉によって示され、約束され、導かれたことです。そのことの中で、マナも、約束の御言葉とともに与えられました。イスラエルの民が主の御言葉によって示された召しに従って歩むときに、主は荒野でマナをも備えてイスラエルの民を養い続けてくださったのです。このことには、マタイの福音書6章33節に記されていますように、イエス・キリストが、 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 と約束してくださったことに通じるものがあります。 これを、いまお話ししていることとのかかわりで見てみますと、申命記8章では、3節で、 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。 と言われた後に、4節で、 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 と言われていることが注目されます。この場合、「あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった」ということは、マナのように奇跡的なことが起こっていたと考える必要はありません。というのは、出エジプト記12章38節に記されていますように、イスラエルの民は「羊や牛などの非常に多くの家畜」を連れてエジプトの地を出てきましたから、それらの家畜から着物に必要な羊毛や毛皮を得ることができたと考えられます。それで、これは、主はこの40年の間それらの家畜をも守ってくださった、そして、イスラエルの民は着る物に困ることはなかったということを意味していると考えられます。また、足が腫れなかったということも、主の御手の支えの下に健康が支えられ、荒野におけるすべての行程を通ることができたことを指していると考えられます。 この、 この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。 ということも、主が40年の間、マナを与え続けてくださったことと同じように、 人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる ということをイスラエルの民に示してくださるためのことでした。 主がご自身の「口から出るすべてのもの」、その状況にふさわしい1つ1つの御言葉をもって、イスラエルの民を生かしてくださったことが、マナを与えるという人間の経験を越えたことに示されていました。しかし、それだけでなく、着物がすり切れず、足が腫れないという、日常的なことにおける普通の経験においても、主がご自身の「口から出るすべてのもの」、その状況にふさわしい1つ1つの御言葉をもって、イスラエルの民を支え、導いてくださったことが示されていたのです。 このように、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という祈りにとっての旧約聖書の背景の1つである、主が荒野のイスラエルの民をマナをもって養ってくださったということにおいても、それをとおしてて示されている主の教えにおいては、マナという食べ物だけでなく、着る物のことや、その他の点での支えのことが、関連する形で取り上げられています。言い換えますと、そのような日常的なことも、その都度、主の御口から出る御言葉によって、真実に支えられていたのです。 このことからも、私たちが、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と祈るときの「日ごとの糧」には、食べ物のことだけでなく、私たちが主の契約の民として地上の旅路を続けるときに必要なものが含まれていると考えることができます。 主はご自身の契約に基づいて、常に私たちとともにいてくださいます。そして、私たちが主の契約の民としての召しに応えて歩むときに、どのようなところを通るとしましても、また、どのようなことを経験することがありましても、ご自身の「口から出るすべてのもの」、その時、その状況にふさわしく語られる御言葉をもって、私たちを支え続けてくださいます。そして、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と言う祈りに応えて、私たち地上にあります主の民にとってなくてならないものを備えてくださいます。 そればかりでなく、この祈りに先立って、主の召しに沿って祈る、 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように 地でも行なわれますように。 という祈りに応えてくださって、私たちご自身の契約の民の救いの完成と、ご自身のご計画の完全な実現をもたらしてくださいます。 |
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