(第152回)


説教日:2008年6月15日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第4の祈りである、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

という祈りについてのお話を続けます。
 先週は箴言30章7節〜9節に記されているアグルの祈りとのかかわりで、主の祈りの第4の祈りを祈ることの意味を考えました。そのアグルの祈りは、

 二つのことをあなたにお願いします。
 私が死なないうちに、それをかなえてください。
 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。
 貧しさも富も私に与えず、
 ただ、私に定められた分の食物で
 私を養ってください。
 私が食べ飽きて、あなたを否み、
 「主とはだれだ。」と言わないために。
 また、私が貧しくて、盗みをし、
 私の神の御名を汚すことのないために。

というものでした。。
 ここでアグルは神さまを神として畏れ敬い、神さまを信頼するとともに、神さまの御名があがめられることを願っています。そして、このことを妨げるものが「」であれば、その「」を自分に与えないでくださいと祈っています。
 先週はまた、このアグルと正反対の生き方をしている「愚かな金持ち」のたとえによるイエス・キリストの教えについてお話ししました。ルカの福音書12章13節〜21節には、

群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

と記されています。
 このような教えを見ますと、何となく「」をもつことがよくないことのように思えるかもしれません。しかし、アグルの祈りもイエス・キリストのたとえによる教えも、そのようなことを教えてはいません。これまでお話ししてきたことから分かりますように、これらの教えでは、「」がその人にとって「神」のようになって、その人の生き方を決定してしまうようになるという人間の現実を示しており、そのことに対してよくよく注意するようにと教えています。
 イエス・キリストは「愚かな金持ち」のたとえを話される前に、

どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。

と述べておられます。このことは、その人が「」のために、「」を目的とし、「」を頼みとして生きることによって、「」を「神」のようにしてしまうのは、その人のうちに「貪欲」(プレオネクシア)があるためであるということをあらかじめ示しています。
 コロサイ人への手紙3章5節には、

ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

と記されています。ここで、

そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

と記されているときの「むさぼり」と訳されている言葉は、先ほどのイエス・キリストの教えに出てくる「貪欲」と同じ言葉(プレオネクシア)です。この言葉は、「もっと多くをもとうとすること」というような意味合いの言葉です。この「貪欲」に支配されますと、いくら豊かになっても、それで満足することはできなくなります。この「貪欲」が一種の偶像礼拝であるというのです。「愚かな金持ち」のたとえによるイエス・キリストの教えでは、その「貪欲」が「」に向けられていること、そして、「」がこの「愚かな金持ち」にとって「神」のようになっているのです。問題は「」そのものにあるのではなく、その人が「」を「神」とすることです。その人が「」を蓄えるために生き、「」を頼みとして生きるようになることです。そして、そのようにその人を動かすのが「貪欲」(プレオネクシア)です。


 このこととの関連で思い起こされるのは、マタイの福音書6章24節に記されているイエス・キリストの教えです。それは、

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

というものです。
 これまでお話ししてきたことからお分かりのように、ここでイエス・キリストは「」と神さまが相容れないと教えておられるのではありません。「」を「神」として「」に仕えることと、神さまに仕えることが相容れないことであるということを教えておられます。
 これは、「」に仕えている人が「神」を信じることはないということではありません。実際、「」に仕えている人が「神」を信じているということは、いくらでもあります。けれども、突き詰めていきますと、その人にとって「神」は真の意味で神ではありません。いくつかの事例が考えられますが、最も一般的なことは、その人にとって「神」は自分に「」をもたらしてくれる存在でしかないということです。その場合、「神」はその人の生きる目的ではなく、その人が「」を得るための手段となっています。イエス・キリストは、

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。

と言われましたが、その人は「」を重んじて、「神」を軽んじています。このようなことはこの世の人々だけに当てはまるのではなく、主を信じている人々の間にもありうることです。そうであるからこそ、ここにこのようなイエス・キリストの教えが記されているわけです。
 ちなみに、マタイの福音書6章の流れでは、24節に、

だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

という教えが記されています。そして、続く25節には、

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。

と記されています。
 この25節に記されているイエス・キリストの教えは冒頭の「だから」という言葉によって、その前の部分としっかりつなげられています。ここでは、

自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。

というように、食べ物や着物のことで「心配してはいけません」と言われています。この「心配してはいけません」の「心配する」という言葉(メリムナオー)は、前にお話ししました、34節で、

 だから、あすのための心配は無用です。

直訳で、

 だから、あすのことを心配してはいけません。

と言われているときの「心配する」という言葉と同じ言葉(メリムナオー)です。
 すでにお話ししましたように、この場合の心配することは、心配で心がいっぱいになってしまい、神さまを心から締め出してしまうような状態のことを指しています。このような心配に心が奪われてしまいますと、神さまを信頼することもなくなってしまいます。そうしますと、食べる物や着る物がもっと多くありさえすれば安心であるというような思いになってしまいます。そこから、先ほどの一種の偶像礼拝としての「貪欲」(プレオネクシア)が生まれてきます。そして、この「貪欲」が「」の追求を生み出します。このような状態に対して、イエス・キリストは、

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

と教えておられます。
 ですから、イエス・キリストの一連の教えでは、この、

あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。

という教えも、33節に記されている、

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

という教えに行き着きます。
 先ほどの「愚かな金持ち」のたとえに戻りますが、「愚かな金持ち」は、大豊作の年に、

こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」

と言ったと記されています。これは、「愚かな金持ち」が「」を「神」として「」を信頼していることを示しています。そして、この「愚かな金持ち」がすでに「」をもっているほどに富んでいるのに、さらにすべてを自分のものとして蓄えようとしたのは、彼を動かしていたのが「貪欲」であったことを示しています。
 先週は、

たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。

と自らに言い聞かせている「愚かな金持ち」が、神さまに、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

と祈ることはないということをお話ししました。
 しかし、自分の畑が豊作であって、何年分もの作物を収穫して、それを倉に蓄えた人が、真実に、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

と祈ることはあり得ます。それは、その人が、

いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない

ということを悟って、神さまのみを信頼している場合です。そのような人はその作物をただ自分のためだけに蓄えるということはしないはずですが、そのことはおいておいて、ここでの問題を考えていきます。
 人は、何年分もの食料を蓄えてもっていても、きょう食べることができるのは、きょう1日分の食べ物だけです。「愚かな金持ち」のたとえの中で、

たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。

と自らに言い聞かせた金持ちに、神さまは、

愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。

と仰せられました。私たちがきょう食べることができるのは、きょう1日分の食べ物だけであると言っても、自動的にそれができるわけではありません。神さまがきょうも私たちのいのちを支えてくださっているので、私たちはこの日の糧をいただくことができます。私たちは、何年分とまでは言わないとしても、何日分かの食料を蓄えています。そうであっても、この日、私たちのいのちを支えてくださっている神さまに、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

と祈りつつ、この日の糧を神さまの恵みの御手から受け取っていただくものであるのです。
 私たちは根本的なところで神さまにいのちそのものを支えていただいています。そして、それは、私たちにとっては、日ごとに新しい支えです。私たちは神さまの真実で、日ごとに新しい恵みの御手のお支えを信じて、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

と祈ります。
 このように、私たちは、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

という祈りを祈るとき、神さまがきょうも私たちのいのちを支えてくださるということを信じて祈ります。しかし、それだけではありません。この祈りを祈るとき、私たちはさらに多くのことで神さまを信頼しています。
 前にも取り上げたことがありますが、詩篇65篇9節〜13節には、

 あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、
 これを大いに豊かにされます。
 神の川は水で満ちています。
 あなたは、こうして地の下ごしらえをし、
 彼らの穀物を作ってくださいます。
 地のあぜみぞを水で満たし、
 そのうねをならし、夕立で地を柔らかにし、
 その生長を祝福されます。
 あなたは、その年に、御恵みの冠をかぶらせ、
 あなたの通られた跡には
 あぶらがしたたっています。
 荒野の牧場はしたたり、
 もろもろの丘も喜びをまとっています。
 牧草地は羊の群れを着、
 もろもろの谷は穀物をおおいとしています。
 まことに喜び叫び、歌っています。

と記されています。
 神さまは、私たちに「日ごとの糧をきょうも」与えてくださるために、ここに告白されているすべての御業をなさってくださっています。雨をもって地を潤し、日の光を注いで作物を生長させてくださいます。それは一時的なことではありません、そのように作物の生長に必要なことを1年を通して絶えることなくなし続けてくださいます。
 そればかりではありません。創世記1章に記されていますように、神さまは、天地創造の御業において、この地に光があるようにしてくださり、大気圏を創造され、地が乾くとともに、必要なときに雨が降り地を潤すようにしてくださって、作物が育つ環境を造り出してくださいました。その上で、地に作物をも芽生えさせてくださいました。その天地創造の御業以来、神さまは絶えることなく、作物を育て続けてくださっているのです。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

というイエス・キリストの教えも、このような神さまの真実なお働きに裏付けられています。
 私たちは、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

という祈りを祈るとき、このような、神さまの真実なお働きによる支えを信じて祈ります。
 このことは、さらに視野を広げて考えることができます。神さまが私たちに「日ごとの糧をきょうも」与えてくださるためになしてくださっているのは、天候を支えてくださることだけではありません。
 私たちはいま都会に住んでいて、農業に携わっている人はほとんどいません。しかし、実際に、農業に携わっている方々がおられるので、私たちは「日ごとの糧をきょうも」手にすることができます。その人々の健康を支え、手のわざを祝福してくださっているのは、神さまです。たとえ、その人々が神さまを信じていなくても、神さまは一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、その人々の働きを支えてくださっています。マタイの福音書5章45節には、

天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。また、使徒の働き14章16節、17節には、

過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。

と記されています。
 さらに想像を働かせてみましょう。私たちは直接的に農業に携わってはいませんが、今日の経済体制の下で、それぞれの働きに携わっています。そして、それから得られる収入によって、「日ごとの糧をきょうも」得ています。そうしますと、このことにも実に多くのことがかかわっています。
 神さまは私たちが自分たちの仕事に携わることができるようにと、私たちの健康を支えてくださっています。また、私たちにそれぞれの働きを進めるのに必要なさまざまな能力も備えてくださっています。
 そのような個人的なことだけではありません。私たちが自分の収入を得ることができるのは、神さまが私たちの社会を安定したものとして保っていてくださるからです。そのためにも、神さまは一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、政治的なことや経済的なことが混乱に陥ることがないようにと支えてくださり、導いてくださっています。今日では、世界大の規模で人間の「貪欲」が噴出して、悲しむべき現実が至る所で見られます。それでもなお、この社会は何とか保たれています。
 また、そのような、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、私たちが、今日注目されるようになった環境の問題にも気づくように導いてくださっています。もちろん、そのことを環境問題に取り組んでいる人々が知っているというわけではありません。その人々が認める認めないにかかわらず、神さまはこれらすべてのことをなしてくださっています。それは、先ほど引用しました、マタイの福音書5章45節や使徒の働き14章16節、17節に記されている教えから推察することができます。
 さらには、神さまは、人の罪がむき出しになることによって争いが先鋭化し、ついには戦争がすべてを破壊してしまうようなことにならないようにと、さまざまなことを摂理の御手で導いてくださって、平和を保ってくださっています。
 その他さまざまなことが考えられるでしょう。神さまは、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

という私たちの祈りにお応えくださるために、これらすべてのことをなしてくださっています。そのことを、信仰の眼によって見て取っている私たちは、これらすべてのことにおいて神さまに信頼しつつ、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

と祈ります。

 


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