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説教日:2008年6月8日 |
私たちが、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と祈ることにはもう1つの面があります。 5月の第3主日である18日には春の特別集会が行なわれました。そのために説教においては「永遠に神を喜ぶ信仰」というお話をしました。その中で、私の小学生の時の体験をお話ししました。繰り返しになってしまいますが、それは次のようなものでした。 私の父は、今から50数年前、私が小学校5年生の冬に亡くなりました。それから家の生活は一変しました。それまでずっと家にいた母は、私たちを養うために外に出て働くようになりました。それまでは、学校から帰って来ると、「ただいま」ではなく「何かある?」というおやつの催促の言葉を言いながら家に入っていました。母が家にいなくなると、黙って家に入って、母が戸棚に入れておいてくれたおやつを食べました。ある日その戸棚を開けて、そこに置いてあるおやつを見た途端に、何とも言えない寂しさが込み上げてきて、ずっとそこに立ちすくんでおりました。 今も、その時の感覚をリアルに思い出します。母の手からおやつをもらっていたときには、おやつの方ばかりに目が行っていて、母の存在を忘れておりました。しかし、あの時に、おやつには、おやつ以上に大切なものがあったことに気がつきました。母の手からそれを受け取っていたということです。そこに母がいたということがいちばん大切なことであったのです。愛の関係においては、愛を表す手段よりは、愛しているその人自身がいちばん大切です。 このことが、私たちが、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と祈ることにそのまま当てはまります。私たちは私たちの「日ごとの糧」、「あすのための糧」をとおして、父なる神さまの常に変わることがない真実なご配慮に触れています。そして、そのことに表されている神さまの愛と恵みを受け取ります。このようにして、父なる神さまの愛と恵みを受け取りつつ、父なる神さまご自身を喜びとすることが、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と祈ることの核心にあります。そのことは、神さまの真実によって、私たちの1日1日の経験となりますが、それはまた日ごとに新しい経験でもあります。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という祈りについてこのようなことを考えますと、思い出される御言葉があります。箴言30章7節〜9節には、 二つのことをあなたにお願いします。 私が死なないうちに、それをかなえてください。 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。 貧しさも富も私に与えず、 ただ、私に定められた分の食物で 私を養ってください。 私が食べ飽きて、あなたを否み、 「主とはだれだ。」と言わないために。 また、私が貧しくて、盗みをし、 私の神の御名を汚すことのないために。 と記されています。 これは1節に、 マサの人ヤケの子アグルのことば。 と記されていますように、アグルによって語られたものです。そして、これは神さまへの祈りの形で語られています。アグルは2つのことを求めています。1つは、 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。 ということです。これは消極的な言い方で表されていますが、積極的に言いますと、自分が真実であることができるようにということを祈り求めるものです。 もう1つは、 貧しさも富も私に与えず、 ただ、私に定められた分の食物で 私を養ってください。 ということです。そして、このことの理由としても2つのことが上げられています。1つは、 私が食べ飽きて、あなたを否み、 「主とはだれだ。」と言わないために。 ということであり、もう1つは、 また、私が貧しくて、盗みをし、 私の神の御名を汚すことのないために。 ということです。この理由のどちらも消極的な言い方で表されていますが、積極的に言いますと、神さまとの関係を中心として、神さまを神として畏れ敬い信頼することとともに、その御名のあがめられることを祈り求めています。しかも、ここでは、隣人を欺くことをとおして神さまの「御名を汚す」ことになることを避けたいと願っています。このような神さまを中心とした姿勢を見ますと、最初の願いにおいて、 不信実と偽りとを私から遠ざけてください。 と言われているのは、神さまと隣人に対する「不信実と偽り」を遠ざけ、神さまと隣人に対して真実であることができるように祈り求めているのだと考えられます。 ここでアグルは神さまを神として畏れ敬い、神さまを信頼するとともに、神さまの御名があがめられることを願っています。そして、このことを妨げるものを避けたいと願っています。そして、そのために、自分に「富」を与えないでくださいとまで言って祈っています。 ここでアグルは、「貧しさ」、貧困が盗みを生み出し、「富」が主への恐れと信頼を損なうことになるという一般的な原則を表明しているのではありません。実際、「貧しさ」の中にあっても盗みをしない人はいくらでもいますし、「富」をもっている人が主を畏れ敬いつつ主に信頼しているということもあります。しかし、その一方で、「貧しさ」や「富」が、その人の心を主から遠ざけてしまうという現実もあります。「貧しさ」の中で「富」さえあればという思いとなって、「富」を追い求めて主を忘れてしまうこともあり得ます。 テモテへの手紙第1・6章7節〜10節には、 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。 と記されています。 最後の10節では、 ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。 と言われていますように、「富」の追求のために主への信仰を捨ててしまった人々の例が出てきます。 この場合の「ある人たち」が誰であるかについてですが、ここでは具体的な事例が取り上げられていますから、この「ある人たち」は、パウロが知っている人々のことであると考えられます。さらに、いま引用したのは7節〜10節ですが、これに先立つ3節〜6節には、 違ったことを教え、私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことばの争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。 と記されています。ここには、偽教師のことが出てきます。そして、5節ではその偽教師たちのことを「敬虔を利得の手段と考えている人たち」と呼んでいます。そのようなことから、10節で、 ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。 と言われているのは、その前で取り上げられている偽教師たちのうちの「ある人たち」であると考えられます。 この場合の、 非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。 ということにつきましては、意見が分かれています。 1つの見方では、これは非常な良心の呵責を経験していることを指すと理解されています。そうではあっても、その人々は主の御許に帰ることはしないのだというのです。その例として、イエス・キリストを裏切ったユダが、後に非常に後悔して悲しんだけれども、イエス・キリストの御許には戻らないで、自らのいのちを絶ってしまったことが上げられています。イエス・キリストを裏切ったユダであっても、その罪を悔い改めてイエス・キリストの御許に行っていたら、イエス・キリストの贖いの恵みによってその罪を赦されていたはずです。 非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。 ということにつきましては、そのように理解する可能性もあるでしょうが、この場合には、何らかの悲しむべきことがその人々を襲うことになったということを指しているのではないかと思われます。そして、そのような事態になっても、その人々は主の御許に帰ることがなかったということです。 このような教えの中で、8節では、 衣食があれば、それで満足すべきです。 と言われています。これには、先ほどの、 貧しさも富も私に与えず、 ただ、私に定められた分の食物で 私を養ってください。 というアグルの祈りに通ずるところがあります。 そのアグルの祈りに戻りますが、先程もお話ししましたように、ここでアグルは、「貧しさ」が盗みを生み出し、「富」が主への恐れと信頼を損なうことになるという一般的な原則を表明しているのではありません。アグルはこれを自分のこととして祈っています。自分の現実をわきまえて祈っているのです。アグルは、自分自身を省みて、「貧しさ」が自分を盗みに走らせる可能性があることを認めています。また、「富」が自分のうちから神さまへの畏れと信頼を除きさってしまう可能性があることを認めています。そのように自らの弱さを認めた上で「富」が自分のうちから神さまへの畏れと信頼を除き去ってしまうのであれば、そのような「富」を自分に与えてくださらないようにと願っているのです。 これは、この世の祈りとなんと違っていることでしょうか。私たちもかつてはそうでしたが、この世においては、神仏に祈るのは自分が富むものとなるためです。それが最終の目的であり、神仏はそのために存在しているものとされます。神仏はそのための手段であって、神仏そのものが目的であるのではありません。先ほどの私の小学生の時の経験で言えば、おやつさえあれば、そこに母がいるかいないかはどうでもいいというようなことです。これに対して、このアグルの祈りでは、神である主ご自身が目的となっています。神である主を畏れ敬い信頼することと、神である主の御名があがめられることが目的であるのです。そのことの中で、 ただ、私に定められた分の食物で 私を養ってください。 と祈っています。これはまさに、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という主の祈りの第4の祈りにおいて示されている祈りの精神と同じ祈りの精神です。 このアグルの祈りに示されていることと逆の方向に進んでる者の例は先ほど引用しましたテモテへの手紙第1・6章3節〜10節に出てくる偽教師たちです。そのもう1つの例を見て、そこからもう1つのことを学びたいと思います。ルカの福音書12章13節〜21節には、 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」 と記されています。 ここでイエス・キリストは、 どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。 と教えられてから、「愚かな金持ち」のたとえを語られました。そしてこのたとえをとおして「いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではない」ということをお示しになりました。 このたとえに出てくる「金持ちの畑が豊作であった」のは神さまの祝福によることであったと言えます。けれども、この「金持ち」はそのことを認めません。すべてを自分のために蓄えようとする彼の心からは神さまへの思いや隣人への思いは締め出されています。 たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。 と自らに言い聞かせているこの人にとっては、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という祈りは無用のものとなってしまっています。このことを考えますと、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という祈りは、ただ食べ物だけを祈り求めているのではないということが見えてきます。父なる神さまが私たちに必要なものを備えていてくださっているということを信じて、父なる神さまを信頼しているだけではないのです。父なる神さまが私たちのいのちを支えてくださり、私たちが神さまを中心として、神さまのみこころを追い求めて生きることを支えてくださることを信じて、父なる神さまを信頼して、この祈りを祈るのです。これは、先週お話ししたことに合わせて言いますと、マタイの福音書6章33節に記されている、 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 というイエス・キリストの教えに示されている約束を信じて、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と祈るということです。 |
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