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説教日:2008年6月1日 |
ここでイエス・キリストが問題としておられるのは心配すること、思い煩うことです。 新改訳で、 だから、あすのための心配は無用です。 と訳されている部分は、文字通りには、 だから、あすのことを心配してはいけません。 となります。 イエス・キリストの教えの流れから切り離して、この、 あすのための心配は無用です。 という言葉だけを見ますと、このようなことは世間でよく言われていることのように見えます。「先のことはなるようにしかならないから、心配しても無駄だ」ということです。もちろん、ここでイエス・キリストが教えておられることはそのような、ある面、「なるようにしかならない」というように運命的で、ある面、「無駄である」というように突き放したような処世術ではありません。 ここで「心配する」と訳されている言葉、メリムナオーには、一般に受け入れられている理解の仕方では、その人の「心を独占してしまう」というような意味合いがあります。その心配事のために心がいっぱいになってしまって、他のこと、特に、もっと大切なことが考えられなくなってしまうことが問題となります。その一つの例は、ルカの福音書10章38節〜42節に記されている、マリヤとマルタがイエス・キリストを家にお迎えしたときの、マルタの姿勢に見られます。38節〜40節には、 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」 と記されています。そして、続く41節、42節には、 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 と記されています。 ここで、イエス・キリストがマルタに、 あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 と言われたときの「心配して」と訳された言葉が、先ほどのメリムナオーです。マルタは「いろいろなこと」に心が奪われてしまって、イエス・キリストが言われる「どうしても必要なこと」を見失ってしまっていました。 マタイの福音書6章31節〜34節に記されているイエス・キリストの教えでは、33節で、 だから、あすのことを心配してはいけません。 と言われていますが、その前の32節で、「あすのこと」より大切なこととして、 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 ということが教えられています。 「神の国とその義とを」と訳されている部分には、本文上の問題があります。おそらく、これは新国際訳のように「彼の御国と彼の義とを」と訳したほうがいいと思われます。もちろん、この場合の「彼」とは、その前の「あなたがたの天の父」を指しています。 「彼の御国」すなわち父なる神さまの御国とは、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして治めてくださっている御国のことです。それは、今は、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストが、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて治めてくださっている御国のことです。 また、ここで私たちが求めるようにと言われている「彼の義」すなわち神さまの義は、神さまが私たちにくださる「義」のことです。もちろん、その「義」は、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて私たちに与えてくださっているものです。 ですから、「神の国とその義とを」求めるということは、基本的には、神さまが御子イエス・キリストをとおして与えてくださる「義」を信仰によって受け取り、神さまとの本来の関係において生きるようになることを意味しています。それは、父なる神さまが御子イエス・キリストによって治めてくださっている神の御国の民として、神さまを礼拝することを中心とした神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きること、そして、そのことの中で、神さまのみこころの実現を祈りつつ追い求めることに表れてきます。このことは、すでにお話ししました、 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの最初の三つの祈りに示されていました。 いずれにしましても、ここでは、「あすのこと」を心配して、きょう「神の国とその義とを」求めることができなくなってしまうようなことがありますので、 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのことを心配してはいけません。 と教えられています。 しかも、ただ心配してはいけないと言われているのではありません。この教えは、初めの部分に「だから」という言葉があることから分かりますように、さらにその前の32節で、 しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。 と言われていることを受けています。 この教えを聞いているのはイエス・キリストの弟子たちです。弟子たちはユダヤ人でしたから、神さまは全知全能の主であって、すべてのことを知っておられるということをよく知っていました。ですから、ここでイエス・キリストは、父なる神さまが、人間的に言いますと、知識として「それがみなあなたがたに必要であることを知っておられ」るということを教えておられるのではありません。そのようなことなら、弟子たちも教えられなくても分かっていたはずです。ここでイエス・キリストが教えておられるのは、父なる神さまがそのことを特別な意味で知っていてくださるということです。父なる神さまが私たちにお心を注いでおられて、私たちの生活にとって必要なものを覚えていてくださり、ご配慮してくださっているということです。 ここでは、父なる神さまのことが「あなたがたの天の父」と言われています。その父なる神さまは御子イエス・キリストを贖い主として遣わしてくださいました。 イエス・キリストは、父なる神さまのみこころにしたがって私たちの罪を負って十字架にかかって死んでくださいました。それによって、私たちの罪を完全に贖ってくださいました。そして、私たちを新しく生かしてくださるために死者の中からよみがえってくださいました。 このことに基づいて、父なる神さまは、私たちをイエス・キリストを信じる信仰によって義と認めてくださり、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いにあずからせてくださったばかりか、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。これによって私たちは父なる神さまの子どもとして生きることができるようになりました。言い換えますと、「神の国とその義とをまず第一に求め」る者としていただいたのです。 私たちはこれらすべてのことを踏まえて、父なる神さまが私たちにお心を注いでおられて、私たちの生活にとって必要なものを覚えていてくださり、ご配慮してくださっているということを信じています。ローマ人への手紙8章32節には、 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 という、パウロの大胆な告白が記されています。 そのように、私たちは、私たちのことをお心にかけてくださり、私たちのためにご配慮してくださっている父なる神さまを信頼するように招かれています。 イエス・キリストは主の祈りを教えてくださる前にも、同じことを教えておられます。8節に、 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。 と記されているとおりです。このように、主の祈りは父なる神さまへの信頼のうちに祈るものです。 イエス・キリストは、 だから、あすのための心配は無用です。(あすのことを心配してはいけません。) という教えに続いて、 あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 と言われました。 あすのことはあすが心配します。 という言葉は、取りようによっては、先ほども触れました、明日のことはなるようにしかならないという意味のようにも取れます。しかし、イエス・キリストの教えの流れの中にはそのような意味合いが入る余地はありません。この、 あすのことはあすが心配します。 という言葉では「あす」が擬人化された形で表されていますが、これは「あすのことは」私たちの手の中にないということを示すものであると考えられます。ここでは、このことから、私たちの思いを、 労苦はその日その日に、十分あります。 という教えに向けさせる役割を負っていますので、これ以上のことは教えられていません。 しかし、ここでのイエス・キリストの教えの中で「あす」のことについて何も教えられていないのではありません。これより少し前の、27節には、 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 という問いかけによる教えが記されています。もちろん、これは「そのようなことはできない」と答えるようになっています。これによって、被造物である人間にできることの限界が示されています。 これだけですと、人間に限界があるからこそ心配するのだというような反応が返ってこないとも限りません。しかし、このイエス・キリストの教えは、その前の26節で、 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。 と教えられていることを受けています。そして、その後の28節〜30節に記されている教えの結論である、 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。 という教えへと、私たちの思いを導くものです。改めて説明するまでもありませんが、やはり、父なる神さまが私たちにお心をかけていてくださり、私たちのためにご配慮してくださっておられることに信頼するようにと私たちを導いておられます。 このように、 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。 ということは、私たちは自分の力で「自分のいのちを少しでも延ばすことが」できないということを教えるとともに、父なる神さまを信頼するようにと私たちを導いています。 私たちは自分の力で「自分のいのちを少しでも延ばすことが」できないということは私たちの力の限界を示すものです。それを、私たちに与えられている時間という面から見ますと、私たちは自分の力で明日を付け加えることはできないということになります。自分の力で自分のいのちを明日まで延ばすことはできないということです。箴言27章1節には、 あすのことを誇るな。 一日のうちに何が起こるか、 あなたは知らないからだ。 と記されています。 また、ヤコブの手紙4章13節〜15節には、 聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」 と記されています。ここでは、明日のことを支配しておられる主の御手に信頼すべきことが示されています。 先ほどお話ししましたように、 あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 という教えにおいて、 あすのことはあすが心配します。 ということは、「あすのことは」私たちの手の中にないということを示していると考えられます。それゆえに、「あすのことは」私たちの明日を治めておられる父なる神さまに信頼して委ねるべきことが考えられるのですが、そのことは、その前にすでに教えられていたことです。ここでは、そのすでに教えておられることを踏まえたうえで、 労苦はその日その日に、十分あります。 ということへと私たちの注意を向けています。これはより直訳的には、 その日の労苦は、その日に十分あります。 と訳すことができます。 これは、私たちが明日のことを心配しないで、今日のことに心を注ぐべきことを示すものです。この教えも、これまでに教えられてきたことを踏まえて理解する必要があります。この教えが記されている34節全体は、 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。 というものでした。「だから」という接続詞によって、この教え全体がその前の33節に記されている、 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 という教えを受けていることが示されています。 ですから、 労苦はその日その日に、十分あります。 というときの「労苦」は「神の国とその義とをまず第一に求め」る中での労苦です。それで、 神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。 という教えと約束は、「神の国とその義とをまず第一に求め」るなら、私たちからすべての「労苦」が取り除かれるということを示しているのではありません。むしろ、私たちは「労苦」の中にあって、思い煩うことなく、父なる神さまを信頼し、 神の国とその義とをまず第一に求めなさい。 と教えられているのです。ここで用いられている「労苦」という言葉(カキア)は、基本的には「悪」を意味する言葉ですが、「労苦」という意味ではここにしか出てきません。それで言葉は違いますが、コリント人への手紙第1・15章58節には、 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。 と記されています。私たちは、「神の国とその義とをまず第一に求め」ることの中で「労苦」を味わいます。けれども、その「労苦」は「主にあって」空しく終ることはないのです。 このように、私たちは、御子イエス・キリストの贖いの御業に基づいて、私たちをご自身の子としてくださった父なる神さまを信頼して、明日のことは心配してはいけないと教えられています。そうであれば、主の祈りの第4の祈りにおいて、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と祈るとき「日ごとの」という言葉が「あすのための」という意味であることはおかしいと感じられるかもしれません。 しかし、そのように感じるとしたら、それは祈りを誤解しているからです。かつてイエス・キリストを信じていなかったころの私たちは、今も世間でそうであるように、心配事があるので神仏に祈っておりました。そして心配事がなければ、別段、祈ることもありませんでした。そのような、祈りをしている人にとっては、「あすのための糧」を祈り求めることは、明日のことを心配しているからだと感じられます。 けれども、私たちは明日のことを心配するから、「あすのための糧」を祈り求めるのではありません。明日のことについては、私たちをお心にかけてくださり、私たちのために絶えることなくご配慮してくださっている父なる神さまが、私たちの明日を治めていてくださるので、そして、そのことのゆえに父なる神さまを信頼しているので、 私たちの日ごとの糧(明日のための糧)をきょうもお与えください。 と祈るのです。 |
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