(第148回)


説教日:2008年5月4日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第4の祈りである、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

という祈りについてのお話を続けます。
 先週は、この祈りの旧約の背景として、創世記1章29節、30節に記されている御言葉についてお話ししました。今日は、そのことを補足しつつお話を進めていきます。29節、30節には、

ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

と記されていました。ここには、造り主である神さまが人とすべての生き物たちに食べ物を与えてくださっていることが記されています。
 これは、これに先立つ27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていることを受けています。この27節、28節には、神さまが人を神のかたちにお造りになったこと、そして神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが記されています。そして、このことを受けて、造り主である神さまが人とすべての生き物たちに食べ物を与えてくださっていることが記されています。そうしますと、神さまは、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を遂行することを支えてくださるために食べ物を備えてくださっているというように考えられます。
 ここにそのような面があることは確かです。神さまはご自身のみこころにしたがって歩む者たちの必要を満たしてくださいます。マタイの福音書6章31節〜33節には、

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

と記されています。また、私たちが学んでいる主の祈りにおいても、私たちはまず、

 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行なわれるように
 地でも行なわれますように。

というように、神さまご自身にかかわることを祈り求めます。その上で、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

と祈ります。このことには、先ほどの、

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

というイエス・キリストの教えと一致するものがあります。


 このことはとても大切なことですが、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人に神さまが食べ物を備えてくださっていることには、これ以上の意味があります。つまり、神のかたちに造られた人は、神さまが備えてくださっている食べ物を食べて健康を支えられ、力を得て、歴史と文化を造る使命を果たすということ以上の意味があります。このことについては、いくつかのことが考えられます。
 第1のことは、この主の祈りの第4の祈りについてのお話の最初にお話ししましたので、結論的なことだけをお話しします。先ほど引用いたしました創世記1章29節、30節には、神さまが神のかたちに造られた人ばかりでなくすべての生き物たちに、その生存を支えてくださる食べ物を与えてくださっておられることが記されていました。神さまが備えてくださった食べ物をいただいて生存が支えられるという点では、神のかたちに造られた人も生き物たちも同じです。けれども、生き物たちは自分たちがそのようにして造り主である神さまの御手によって支えられていること、神さまが自分たちの必要を満たしてくださっていることを知りません。そのような中にあって、神のかたちに造られた人はそのことを知っています。ただ知識として知っているだけでなく、そのことが造り主である神さまの恵みによるご配慮によっていることを認め、神さまに感謝して食べ物をいただきます。テモテへの手紙第1・4章5節には、

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

と記されています。このようにして、私たちは食べ物をいただくことをとおして神さまの恵みに満ちた御手を身近に覚え、そのご配慮を受け止めて感謝します。
 第2には、先週も触れましたが、創世記1章30節には、

また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。

と記されていて、神さまが生き物たちに食べ物を備えてくださっていることが、神のかたちに造られた人に啓示されています。もちろん、生き物たちは人が造られる前に造られていますから、すでに「すべての緑の草」を食べています。ですから、ここで神さまがこのことを神のかたちに造られた人に伝えてくださったことは、この時からすべての生き物たちが「すべての緑の草」を食べ物とするようになったということではありません。むしろ、これは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命が委ねられている人がこのことをわきまえるようになるために示されたことであると考えられます。
 このことと関連して、さらに、二つのことが考えられます。
 一つは、先ほどお話ししましたように、生き物たちは自分たちが神さまが一方的な恵みによって食べ物を備えてくださっていることを知りません。けれども、神のかたちに造られた人は造り主である神さまがすべての生き物を養っていてくださることを知って、そのことを神さまに感謝します。

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、いわば、それらの生き物との一体性にあるものとされており、その「かしら」として立てられています。そのような立場にある人は、自分が支配するすべての生き物が神さまの恵みの御手に支えられていることを認めて神さまに感謝し、神さまに栄光を帰するのです。これは、神のかたちに造られた人が預言者的、祭司的な役割を果たすことに当たります。すべての生き物たちが「すべての緑の草」を食べることが、造り主である神さまの恵みによるご配慮の現れであることを自覚し告白することにおいて預言者的であり、そのことのゆえに造り主である神さまに感謝し、その恵みの栄光を讚えて、礼拝することにおいて祭司的であるのです。
 もう一つは、このように造り主である神さまが、

また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。

という御言葉によって、すべての生き物たちに食べ物を備えてくださっているということを示してくださっています。神のかたちに造られた人は、この世界において見えない神さまを代表し現しています。それで、人は、神さまがすべての生き物たちに食べ物を備えてくださっているということに沿って、生き物たちのお世話をしていくことになります。具体的には、創世記2章4節後半と5節に、

神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。

と記されており、15節に、

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

と記されていますように、神のかたちに造られた人は神さまがお造りになって人が従わせるようにされた「土地」を耕しています。
 神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落する前には、被造物は虚無に服することはありませんでした。それで、不毛な地もなかったと考えられます。そのように祝福された状態ではあっても、草木の手入れは必要であったと考えられます。というのは、草木には思慮や意志がありませんから、どんどん繁茂していけば無秩序なことになってしまいます。それで、人がそれぞれの草木の特性にしたがって、それらの手入れをし、整えていく必要があったと考えられます。それは、自分たちの食べるもののためであるというだけでなく、他の生き物たちの食べるもののために備えるということでもあったと考えられます。そのようにして、神のかたちに造られた人は、神さまがすべての生き物のために食べ物を備えてくださっていることの上に立って、生き物たちのお世話をしていくことにおいて、王的な役割を果たします。
 このように、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられた人は、神さまがお造りになった被造物との一体性において「かしら」として立てられており、「」を耕し、生き物たちのお世話をすることにおいて、王的、祭司的、預言者的な役割を果たします。そのようにして、歴史と文化を造る使命を果たすように召されています。
 このようなことを念頭において、改めて創世記1章29節、30節に記されている、

見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。

という神さまの御言葉を見てみますと、神のかたちに造られた人は食べ物を食べるということにおいて、生き物たちとの一体性をより現実的に覚えることができるようにされていることが分かります。そうであるからこそ、イエス・キリストは、マタイの福音書6章26節に記されていますよう、

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

と教えてくださったのです。
 先週お話ししましたように、先ほど引用しました1章29節、30節に記されている神さまの言葉において、神のかたちに造られた人に与えられた食べ物にかかわる言葉においては、「」が強調されています。このことは、神のかたちに造られた人が「土地」を耕し、「」を蒔き、その実を収穫することとかかわっています。これに対して「空の鳥」やその他の生き物たちは「土地」を耕すことはありませんし、「種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません」。そうであれば、「空の鳥」の方が祝福されている、得をしているというような思いになるかもしれません。何も働かなくても食べ物が与えられるのであれば、これほどいいことはないということです。けれども、「土地」を耕し、「」を蒔き、その実を収穫することが、人にとっての労苦になったのは、人が造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまった後のことです。それは人の罪に対するさばきの結果です。神さまが罪を犯した人に対するさばきを宣言されたことを記している創世記3章17節〜19節に、

 また、アダムに仰せられた。
 「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは、一生、
 苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。」

と記されているとおりです。
 人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落する前においては、「土地」を耕し、「」を蒔き、その実を収穫することは、それとしての労力を要することでしたが、実り豊かな祝福に満ちたことであり、

 あなたは、顔に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。

というような労苦に満ちたものではありませんでした。人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後においては、神さまの一般恩恵に基づく御霊のお働きによって、この世界には豊かな実りがあります。そのことのゆえに、人々は労働の実を刈り取っています。とはいえ、時には、干ばつや冷害などに伴う飢饉があります。しかし、人が堕落する前には、そのような不毛なことは全くありませんでした。
 そのような状況においては、造り主である神さまから委ねられた歴史と文化を造る使命にしたがって、「土地」を耕し、「」を蒔き、その実を収穫することは、まことに実り豊かなことでした。そして、そのことをとおして、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご臨在に触れることができました。それは、「土地」を耕すこともなく、「種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません」と言われている鳥たちやその他の生き物たちよりはるかに豊かな祝福を受け取ることです。繰り返しになりますが、神のかたちに造られた人も他の生き物と同じように、造り主である神さまが備えてくださった食べ物をいただいて生きています。しかし、そのことをとおして、造り主である神さまの愛と恵みといつくしみを受け取ることができるのは神のかたちに造られた人だけです。
 これらのことを踏まえて、主の祈りの第4の祈りである、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

という祈りについて、さらに二つほどのことをお話ししておきます。
 一つは、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

と祈ることと、そのように祈る私たちが「土地」を耕し、「」を蒔き、その実を収穫することは矛盾することではないということです。あるいは、そのように直接的に農業に従事しなくても、その他の働きをすることと矛盾することではないということです。人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落する前のことを記している創世記1章29節に、

見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。

という神さまの約束が記されています。そうであっても、人は「土地」を耕していました。
 人が堕落した時がいつであったか、人が造られてからどれほどの時が経ったのか分かりませんが、3章に記されている記事から、それなりの時が経っていたことを暗示することがあります。最初の女性エバと彼女を誘惑した「」が、そこに記されているような会話をすることができるようになるには、それ相当の時間が必要であったと考えられます。人格的な存在ではない生き物が神さまのことを知ることはできません。ですから、いきなり「」が神さまとその戒めのことを語り出したとしたら、エバは警戒したはずです。それで、「」の背後にあるサタンは相当の時間をかけてエバに接して、徐々に、神さまのことを語るようにしていったと考えられます。そして、神さまの戒めについて疑問を述べてもエバがおかしいと感じないようになるには、相当の時が必要であったと考えられます。そうであれば、人は「土地」を耕しただけでなく、「」を蒔いて、収穫までとはいかないとしても、育てていた可能性もあります。
 いずれにしましても、人が罪を犯して堕落する前から、人が神さまが約束してくださった食べ物をいただくことと、人が「土地」を耕し、「」を蒔き、その実を収穫することは矛盾することではありませんでした。その点は、今日においても同じです。
 もう一つのことですが、すでに、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

という祈りにおいては、「私の日ごとの糧」ではなく「私たちの日ごとの糧」を祈り求めているということをお話ししました。その「私たち」ということは、同じように、神さまに向かって、

 天にいます私たちの父よ。

と呼びかけている主の契約の共同体に属している神の子どもたちのことです。
 そのことを確かめたうえでのことですが、神さまがご自身がお造りになった生き物たちのお世話を神のかたちに造られた人に委ねられたこと、そして、その生き物たちのために、

また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。

というように、食べ物を備えてくださっているということを人に示してくださったことの意味を考えなければならないと思われます。
 父なる神さまに向かって、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

と祈るとき、私たちは契約共同体の兄弟たちのことを忘れることはできませんし、忘れてはなりません。また、ガラテヤ人への手紙6章10節に、

ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。

と記されていますように、「特に信仰の家族の人たちに」という優先順位はありますが、同じく神のかたちに造られている人々のことを忘れることはできません。さらには、同じように神さまがかえりみてくださっている生き物たちのことを忘れることはできません。
 大きな問題が複雑にからみあっていますが、今日では、神のかたちに造られた人々が飢え続け、生き物たちが絶滅してしまうような状況が世界大の規模で生み出されています。現れた形においてはさまざまな問題がからみあっていますが、その根本には、人間の罪の自己中心性があります。そのような人間の仕業が、人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださった造り主である神さまの御前に問われていることを覚えます。それで、この時代のためにとりなしの祈りを祈りつつ、身を低くして、神さまのあわれみを求めたいと思います。神さまを信頼して、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

と祈るときに、このような現実を覚えて、あわれみを求めていきたいと思います。

 


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