(第147回)


説教日:2008年4月27日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第4の祈りである、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りには、その成り立ちや意味がよく分からない言葉が出てきます。それは新改訳で「日ごとの」と訳されている言葉(エピウースィオス)です。
 この言葉は新約聖書の中ではここと、同じく主の祈りを記しているルカの福音書11章3節に出てくるだけです。そして、新約聖書以外の文書では、ある文書に出ていると言う人もいますが、一般にはそれは疑わしいとされています。議論の余地のないものとしては、この言葉は新約聖書の2個所にしか出てこないということです。手元にあるレキシコン(BAGD)は、教会教父のひとりオリゲネスがこの言葉は福音書記者が作り出した言葉であると述べているが、そのようなことではないかとしています。
 この(エピウースィオスという)言葉についてはいろいろな理解の仕方があります。手元にあるレキシコンでは、この言葉の成り立ちについての理解の違いから、大きく四つほどにまとめられています。新改訳の第3版にはより現実的な三つが示されています。新改訳本文は2版と同じで、「日ごとの」となっています。そして、欄外に別訳として「あすのための」と「必要な」の二つが示されています。新改訳本文の「日ごとの」は「この日のための」という理解を採用して訳したものです。新改訳欄外別訳の「あすのための」は「続く日のための」とも理解されます。また、「必要な」は「存在のために必要な」という意味を縮めたものです。
 これら三つの理解のほかにもう一つの理解の仕方があります。それは、この言葉の成り立ちについての理解は同じですが、さらにいろいろな意味に理解されるようです。代表的には「将来のための」とか「それに属している」というような理解があります。「将来のための」という理解は、来たるべき御国に属する糧を「きょう」与えてくださいと祈り求めるということです。先ほど取り上げました、新改訳欄外別訳の「あすのための」の「あす」を比喩的に将来のことを指すと理解するなら、これと同じ意味になります。
 また、ある教会教父たちは、これは主の晩餐、聖餐式において与えられるパンのことを意味していると理解したようです。
 これらの理解の中で、教会教父たちは「存在のために必要な」という理解か、「あすのための」あるいは「続く日のための」という理解を支持していたようです。近年では「あすのための」あるいは「続く日のための」という理解が支持されているようです。どうやら、この「あすのための」あるいは「続く日のための」という理解がいちばん可能性が高いと思われます。しかし、これと「日ごとの」あるいは「この日のための」という理解の違いはほとんどありません。というのは、「続く日のための糧」を与えてくださいと祈るわけですが、その祈りを朝に祈るとしますと、それは、実質的にはその日のための糧を祈り求めることになります。また、その祈りを夕方に祈るとしますと、それは次の日の糧を祈り求めることになります。ちなみに、その当時のユダヤの考え方では、日没とともに1日が終り、新しい日が始まります。いずれにしましても、これは当面必要としている糧を祈り求めるものであるということになります。


 この主の祈りの第4の祈りである、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

という祈りには、旧約聖書に記されているいくつかの背景があります。その中で最も基本的なものは、やはり、創世記1章に記されている神さまの創造の御業におけるご配慮です。
 すでに主の祈りのお話の中で繰り返しお話ししてきましたが、創世記1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。これは1章1節〜2章3節に記されている創造の御業の記事全体の見出しに当たります。そして、これによって、この世界、今日の言葉で言いますと、この壮大な宇宙のすべてのものは神さまが創造されたものであるということを示しています。
 これに続く2節には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。この2節の冒頭には「さて」というような意味の接続詞があります。これによって、神さまの天地創造の御業の記事の視点と関心が「」に移されていることが示されています。その上で、神さまが最初に造り出された「」が、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

という状態にあったことが示されています。この時の「」は「形がなく、何もなかった」という状態にあっただけでなく、「大いなる水」に覆われていました。そして、さらにその上には「やみ」がありました。
 この「形がなく、何もなかった」という状態は、イザヤ書45章18節に記されていることに照らしてみますと、「」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示していると考えられます。「」がそのような状態にあったときに、すでに、

 神の霊は水の上を動いていた。

と言われています。このことにより、この「」が「人の住みか」として整えられる前に、神さまが御霊によってこの「」にご臨在しておられたことが示されています。ですから、この「」は「人の住みか」である前に、また、「人の住みか」である以上に、神さまのご臨在の場としての意味をもっているのです。
 このように、神さまは天地創造の御業において、この「」を何よりもご自身のご臨在の場としてお造りになりました。神さまは御霊によってこの「」にご臨在され、この「」をご自身のご臨在の場にふさわしく整えてくださいました。それで、この「」には、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご臨在のしるしが満ちあふれるようになりました。先週も引用しました詩篇104篇の10節〜15節には、

 主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、
 野のすべての獣に飲ませられます。
 野ろばも渇きをいやします。
 そのかたわらには空の鳥が住み、
 枝の間でさえずっています。
 主はその高殿から山々に水を注ぎ、
 地はあなたのみわざの実によって
 満ち足りています。
 主は家畜のために草を、
 また、人に役立つ植物を生えさせられます。
 人が地から食物を得るために。
 また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。
 油によるよりも顔をつややかにするために。
 また、人の心をささえる食物をも。

と記されていました。13節で、

 地はあなたのみわざの実によって
 満ち足りています。

と言われていることに注目してください。また、詩篇33篇5節には、

 地は主の恵みに満ちている。

と記されており、119篇64節にも、

 主よ。地はあなたの恵みに満ちています。

と記されています。
 神さまはそのようにこの「」をご自身のご臨在の場として整えてくださったうえで、これを「人の住みか」としてくださいました。
 創世記1章26節〜28節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。ここには、神さまが創造の御業において人を神のかたちにお造りになったこと、そして、神のかたちに造られた人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことが記されています。当然、神のかたちに造られた人には、歴史と文化を造る使命を果たすために必要なさまざまな能力が与えられています。
 神さまがこの「」をご自身のご臨在の場としてくださり、実際に、この「」にご臨在してくださっておられるので、神のかたちに造られた人はこの「」にご臨在される神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができます。また、先ほどお話ししましたように、神さまがこの「」にご臨在してくださっておられるので、この「」には、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご臨在のしるしが満ちあふれるようになりました。それで、神のかたちに造られた人は、神さまから与えられている能力を傾けて、この「」に満ちている神さまの愛と恵みといつくしみのご臨在のさまざまなしるしに触れ、歴史と文化を造る使命を果たすのです。そして、その中心にあるのは、造り主である神さまをご自身を礼拝し、その栄光をほめたたえることです。神のかたちに造られた人は、神さまを礼拝することを中心として、歴史と文化を造る使命を果たすように召されていました。当然、それによって造り出される歴史と文化も神さまを中心とした歴史と文化であるはずです。
 これらのことは、主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りとの関連でお話ししたことです。そして、先週は、それが、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

という題4の祈りともかかわっているということをお話ししました。
 これらのことを踏まえて、さらに注目したいのは、これに続いて創造の御業の記事に記されていることです。1章29節〜30節には、

ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。

と記されています。ここに記されていることにつきましては、すでに祈祷会や夕拝においてお話ししましたが、簡単な補足をしながらお話ししたいと思います。
 まず、後の方の30節から見てみますと、そこには、

また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。

という神さまの御言葉が記されています。
 これは、神のかたちに造られた人に対する語りかけの言葉です。生き物たちは人に先だって造られていますから、すでに、神さまが備えてくださっている食物を食べています。それで、この時から生き物たちのための食物として「すべての緑の草」が備えられたということではありません。ここでは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人がこのことをわきまえておくようにということで、神さまが示してくださっているのです。
 ここでは、「すべての」という言葉(コール)が繰り返されています。このこと関連していくつかのことを考えることができます。
 まず、ここに出てくる「」、「」、「はうもの」は単数形で、その一つ一つに「すべての」という言葉がつけられています。これによって、これには例外がないことが示されています。神さまがすべての生き物たちの一つ一つを例外なく省みてくださっていることが示されています。
 また、「緑の草」も単数形で、これにも「すべての」という言葉(コール)がついています。これによって、神さまがお造りになったすべての「緑の草」が例外なく、生き物たちの食べ物として備えられていることが示されています。これによって神さまが備えてくださっているものの豊かさが示されています。
 さらに、「」、「」、「はうもの」の一つ一つが例外なく、「緑の草」を食べ物として与えられているということは、最初に造られた状態においては、どのような生き物も、他のいのちあるものを損なうことはなかったということを意味しています。さらに、神さまがお造りになったすべての「緑の草」が例外なく、生き物たちの食べ物として備えられていることも、そこには生き物のいのちを損なうような草、いわゆる毒草がなかったということを意味しています。ですから、最初に造られた状態においては、いかなる意味においても、いのちが損なわれるようなことはなかったわけです。
 これらのことのうちに、先ほど引用しました詩篇のいくつかの個所において告白されていた、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご臨在がこの「」に満ちていることの現れがあります。詩篇において告白されているのは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに足して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の状況におけることです。この「」も神のかたちに造られた人との一体において虚無に服してしまっています。それでも、あのように告白されるほどに、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご臨在のしるしが現れているのです。神さまが最初にお造りになった状態では、その祝福はどれほど豊かなものであったでしょうか。
 順序が逆になりましたが、29節には、

見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。

という神さまの御言葉が記されています。これも神のかたちに造られた人に対する語りかけです。
 この神さまの御言葉においても、「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木を」というように、「すべての」という言葉(コール)が繰り返し出てきます。この「」も「」も単数形です。この場合にも、先ほどの生き物たちの場合と同じように、神さまがお造りになったあらゆる実を結ぶ草と木が、神のかたちに造られている人の食べ物として与えられていることが示されています。そして、そこには、人のいのちを損なうような毒草や毒のある実はなかったことも示されています。
 もちろん、最初に造られた状態においては、人や生き物たちが食べ物をめぐって争うというようなこともありませんでした。
 また、日本語訳では少し分かりにくいかもしれませんが、「全地の上にあって」の「全地」という言葉(コール・ハーアーレツ)も「すべての地」で、「すべての」という言葉(コール)があります。これも、例外がないことを示していると考えられます。つまり、神さまがお造りになったこの地の最初の状態においては、文字通り「全地」に「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」が生えていて、その一部にでも、不毛の地というべき地域はなかったということです。
 特に注目すべきことは、人の場合には、他の生き物の食べ物と違って、「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」と言われていますように「」のことが繰り返し出てきます。
 これに対して、30節に記されている、

また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。

という生き物たちへのご配慮には、「」のことは触れられていません。これは、マタイの福音書6章26節に記されている、

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

というイエス・キリストの教えにも示されていますように、それらの生き物たちが「」を耕し「」を蒔くことをしないことによっていると考えられます。
 このように、創世記1章29節に記されている、

見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。

という、人に対して語られた神さまの御言葉においては、他の生き物たちの場合と違って「」が語られていることが特徴となっています。これは、人が神のかたちに造られて、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命を委ねられていることを受けていると考えられます。
 神のかたちに造られた人には食べ物として「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」が与えられています。それで、人はこの「」を蒔き、収穫します。そして、それを食べ物としていただくとともに、またその収穫した「」を蒔くという働きに携わります。これが歴史と文化を造る使命を果たすことの最初の現れです。
 創世記2章15節には、

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

と記されています。神のかたちに造られた人は、神である主がご臨在される所として聖別されていた「エデンの園」に住まい、そこを耕していました。それが、神のかたちに造られた人が、歴史と文化を造る使命を果たしている姿です。そして、その働きが「エデンの園」でなされていたということが示していますように、その働きの中心は、そこに特別な意味でご臨在される「神である主」を礼拝することにありました。
 ですから、神のかたちに造られた人は、ただ「種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木」がならせる「」を食べるだけではありません。何よりも、神さまが創造の御業において自分たちを心にかけてくださって、「」をならせる植物を備えてくださり、それを食べ物として与えてくださったことを、この1章29節に記されている御言葉をとおして啓示されています。
 そればかりではなく、天地創造の御業の記事に示されていますように、神さまは天地創造の御業の第2日に、大気の循環のメカニズムを備えてくださり、地が適度に潤い、適度に乾燥するようにしてくださいました。それは、人が蒔く「」が芽を出し、生長して再び「」をならせるようになるために必要なことです。このように、神さまはこの地に「」が育つために必要なすべてを備えてくださっています。神のかたちに造られている人には、これらのことすべてが啓示されています。
 これらのことをわきまえている人は、食べ物が神さまのご配慮によって備えられているものであり、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご臨在の現れであることを認めます。
 もちろん、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人は、このことを認めません。しかし、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、神さまとの愛にあるいのちの交わりを回復していただいている私たちは、このことを感謝をもって認めます。それで、神さまを信頼して、

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

と祈ります。そして、私たちは「日ごとの糧」とともに、私たちに対する神さまのご配慮に接し、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご臨在に触れます。

 


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