![]() |
説教日:2008年4月20日 |
主の祈りに関する解説でよく耳にすることは、最初の三つの祈りにおいては、私たちは神さまの栄光を祈り求めるとともに、そのように祈ったことが実現するように、みこころにしたがって生きるので、そのように生きるために必要な支えを、続く三つの祈りにおいて祈り求めるということです。それらの必要を満たしていただいて、神さまのみこころにしたがって生きることによって、神さまの栄光が現わされるということです。いわば、後半の三つの祈りにおいて祈り求めることは、間接的に神さまの栄光を現すことになるということです。主の祈りにそのような面があることは否定することができません。けれども、後半の三つの祈りには、もう少し積極的な意味で、神さまの栄光が現れることとかかわっているという面があります。今日はそのことについてお話ししたいと思います。ただし、このことについては、すでにお話ししたことでもあります。 詩篇103篇1節〜5節には、 わがたましいよ。主をほめたたえよ。 私のうちにあるすべてのものよ。 聖なる御名をほめたたえよ。 わがたましいよ。主をほめたたえよ。 主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 主は、あなたのすべての咎を赦し、 あなたのすべての病をいやし、 あなたのいのちを穴から贖い、 あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、 あなたの一生を良いもので満たされる。 あなたの若さは、わしのように、新しくなる。 と記されています。ここには、神さまが私たちご自身の民の必要を満たしてくださり、罪を赦してくださり、この世で経験する悪から私たちを守ってくださることが感謝とともに告白されています。そして、そのことのゆえに、主がほめたたえられています。これは、それらのことをとおして、神さまの恵みとまことに満ちた栄光が現わされているということを意味しています。 この詩篇において感謝とともに告白されている、神さまが私たちご自身の民の必要を満たしてくださり、罪を赦してくださり、この世で経験する悪から私たちを守ってくださることは、私たちが主の祈りの後半の三つの祈りにおいて、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 と祈り求めることと符合しています。 また、やはり、 わがたましいよ。主をほめたたえよ。 という讃美の言葉から始まる、104篇の10節〜18節には、 主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、 野のすべての獣に飲ませられます。 野ろばも渇きをいやします。 そのかたわらには空の鳥が住み、 枝の間でさえずっています。 主はその高殿から山々に水を注ぎ、 地はあなたのみわざの実によって 満ち足りています。 主は家畜のために草を、 また、人に役立つ植物を生えさせられます。 人が地から食物を得るために。 また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。 油によるよりも顔をつややかにするために。 また、人の心をささえる食物をも。 主の木々は満ち足りています。 主の植えたレバノンの杉の木も。 そこに、鳥は巣をかけ、 こうのとりは、もみの木をその宿としています。 高い山は野やぎのため、 岩は岩だぬきの隠れ場。 と記されています。ここでは、神さまのいつくしみがすべてのいのちあるものにおよんでいることが感謝と讃美をもって告白されています。 主の祈りの第3の祈りである、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という祈りとのかかわりでお話ししたことですが、神さまは創造の御業において、この「地」を、何よりもまずご自身がご臨在される場として聖別してくださり、ご自身のご臨在の場としてふさわしく整えてくださり、これを「人の住みか」としてくださいました。そのことのゆえに、「地」は神である主のご臨在の豊かさによって満たされています。そして、今引用しました詩篇104篇に告白されているような、神さまの愛と恵みといつくしみが満ちています。これらのことによって、神さまの栄光が恵みとまことに満ちた栄光であることがあかしされています。 かつて私たちは自らのうちに罪を宿していて、この世界に神さまの恵みとまことに満ちた栄光のご臨在があって、お造りになったすべてのものを支えておられ、導いておられることを知りませんでした。というより、そのことを認めようとはしませんでした。まして、神さまに感謝することも、神さまを讚えることもありませんでした。ローマ人への手紙1章20節、21節に、 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。 と記されているとおりです。 しかし、今は、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業にあずかっています。イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血によって罪を贖っていただいたばかりでなく、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれ、その復活のいのちで生きるものとしていただいています。このことによって、私たちの信仰の眼は開かれました。そして、この世界は神さまがお造りになった世界であることを知っただけではなく、神さまが私たちの住んでいるこの「地」をご自身のご臨在の場としてお造りになられたこと、そして、そのゆえに「地」は主のご臨在の豊かさによって満たされているということを知るようになりました。それは、単なる無感動な知識ではなく、先ほどの詩篇にありますように、深い感謝と讃美をもって告白しないではいられないことであります。 その一方で、少し話がそれる感じになりますが、これにはもう一つの悲しむべき面があります。 私たちは、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっているということ、そして、神のかたちに造られた人との一体において、全被造物が虚無に服してしまっているということを、心の痛む思いとともに認めます。自然の災害、生き物たちの凶暴さ、それ以上に、神のかたちに造られた人の罪が生み出した、人間同士の闘争、理不尽な仕打ち、そしてだれもがそれに飲み込まれていく死と滅び。それらのことのゆえに、この世界には涙と叫びが満ちています。それは、何よりも、この世界をお造りになった神さま、特に、この「地」をご自身のご臨在の場としてお造りになった神さまご自身のみこころを痛めるものです。これらすべての痛みと涙と叫びは、神さまのご臨在の御前における痛みであり涙であり叫びです。なぜなら、このすべては神さまがご臨在されるこの「地」において起こっていることだからです。 これらすべてのことが神さまのご臨在の御前におけることであるので、神さまはこのような現実にもかかわらず、御前に高ぶる者を退けられ、このような現実に目を向けて御前にへりくだる者をあわれまれます。詩篇5篇5節には、 誇り高ぶる者たちは 御目の前に立つことはできません。 あなたは不法を行なうすべての者を憎まれます。 と記されています。もちろん、高ぶる者は自分が神さまのご臨在の御前にあることを認めることはありません。詩篇10篇3節、4節に、 悪者はおのれの心の欲望を誇り、 貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。 悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。 その思いは「神はいない。」の一言に尽きる。 と記されており、73篇11節、12節に、 こうして彼らは言う。 「どうして神が知ろうか。 いと高き方に知識があろうか。」 見よ。悪者とは、このようなものだ。 と記されているとおりです。しかし、神さまがこの「地」をご自身のご臨在の場としてお造りになり、この「地」にご臨在しておられます。その人がいくら神さまを否定しても、それはこの「地」にご臨在しておられる神さまの御前におけることです。詩篇10篇14節には、 あなたは、見ておられました。 害毒と苦痛を。 彼らを御手の中に収めるために じっと見つめておられました。 不幸な人は、あなたに身をゆだねます。 あなたはみなしごを助ける方でした。 と記されています。 その一方で、人がこの世界に満ちている理不尽さと悲惨、痛みと涙と叫びという現実に目を向けて、神さまの御前にへりくだることができるのは、神さまが御子イエス・キリストをとおして備えてくださった贖いの御業にあずかってのことです。そのように御子イエス・キリストにある父なる神さまの愛と恵みにあずかって罪を贖っていただいている神の子どもたちは、信仰によって神さまのご臨在の御前に近づきます。そして、すでに学びましたように、 あなたのみこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 と祈ります。 そのように祈る神の子どもたちは、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業は、自分たちを死と滅びの中から贖い出してくださったものであることを信じるだけではありません。それは、今は造り主である神さまに対して罪を犯した自分たち人間との一体において虚無に服してしまっている全被造物を、神さまが御子イエス・キリストをとおして、本来の姿に回復し、栄光あるものとして再創造してくださることの土台であることを信じます。ローマ人への手紙8章18節〜21節に、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。 と記されているとおりです。 言うまでもなく、順序としては、神のかたちに造られた人の罪の贖いが先にあって、次に、神のかたちに造られた人との一体にある全被造物の回復と完成があります。 私たちは、これらすべてのことの根本に、神さまが創造の御業において、この世界、この宇宙をご自身がご臨在される所としてお造りになられたこと、特に、この「地」を、何よりもまずご自身がご臨在される場として聖別してくださり、ご自身のご臨在の場としてふさわしく整えてくださり、これを「人の住みか」としてくださったということがあることを認めます。また、そのことのゆえに、「地」は神である主のご臨在の豊かさによって満たされていることを、感謝と讃美をもって認めます。そして、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださった贖いの御業は、この世界を神さまのご臨在の場として回復してくださるばかりでなく、終りの日に再臨される栄光のキリストをとおして、さらに栄光に満ちた神さまのご臨在の場として再創造してくださるということを、御言葉のあかしに基づいて、信じて待ち望んでいます。私たちは新しい天と新しい地を待ち望んでいます。 このことは、御子イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業が、神さまがお造りになったすべてのものに当てはめられるということを意味しています。コロサイ人への手紙1章19節、20節に、 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 と記されているとおりです。このようにして、全被造物が贖われた神の子どもたちとの一体において回復されるばかりでなく、やがて完成に至ります。この世界にご臨在される神さまの恵みとまことに満ちた栄光が、今は、神のかたちに造られた人の罪のために曇らされてしまっています。しかし、終りの日に再臨されるイエス・キリストによって完成されるとき、天においても「地」においても、神さまの恵みとまことに満ちた栄光が充満な形において満ちるようになります。そのとき、あの痛みと叫びと涙もまったくぬぐい去られます。そして、神の子どもたちは神さまの恵みとまことに満ちた栄光のご臨在の御前において、その豊かさにあずかって満ち足りるようになります。 私たちは、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業にあずかって、神の子どもとしていただいています。それで、私たちは、自分自身のことも含めて、この世界のすべてのことが、この世界をお造りになって、そこにご臨在しておられる神さまの御前におけることであることを認めることができるようになりました。今は、私たち自身の罪のために、また、この世界が虚無に服しているために、神さまの恵みとまことに満ちた栄光のご臨在を、いわば、鏡に映すようにして、おぼろげな形で見ています。コリント人への手紙第1・13章12節に記されている、 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。 という御言葉を覚えてのことです。そのようにおぼろげな状態にあっても、私たちは、私たちが食べたり飲んだりすることも含めて、私たちのなすすべてのことは。神さまの御前においてなしていることであり、神さまとの関係においてなしていることを認めます。 食べたり飲んだりすることが造り主である神さまとのかかわりにおけることであるということは、人間だけに当てはまることではありません。先ほど引用しました詩篇104篇10節、11節には、 主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、 野のすべての獣に飲ませられます。 野ろばも渇きをいやします。 と記されていました。また、14節には、 主は家畜のために草を、 また、人に役立つ植物を生えさせられます。 と記されていました。神のかたちに造られた人だけでなく、すべてのいのちあるものたちが造り主である神さまの御手からその糧を得ています。 それらの生き物と神のかたちに造られた人との違いは、神のかたちに造られた人は、自分たちが造り主である神さまの御手から食べ物や飲み物を受けていること、そして、それが神さまの愛といつくしみの現れであることを知っているということです。そのことのゆえに神さまの恵みを受け止め、その愛といつくしみに感謝することができるのです。人はそのようなものとして神のかたちに造られています。 ですから、飲むことや食べることという、最も基本的で日常的なことも含めて、神のかたちに造られた人がなす「すべてのこと」が、造り主である神さまに対する応答としての意味をもっています。その意味で、神のかたちに造られた人が自らの罪のために、食べることや飲むことにおいて造り主である神さまを認めず、神さまの愛と恵みといつくしみを受け止めないということは、神さまにそのような応答、神さまを神としないという応答をしているということです。それは、「野のすべての獣」や「家畜」たちが造り主である神さまのことを知らずに飲んだり食べたりするということとは意味が全く違います。 繰り返しになりますが、私たちは父なる神さまの一方的な愛と恵みによって、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっています。それによって、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとされています。その交わりの現れとして、神さまのご臨在の御前において、神さまのいつくしみのしるしである食べ物や飲み物をいただきます。そのことを認めて、感謝をもってそれらをいただくことにおいて、神さまの栄光を現すことができます。このこととの関連で、コリント人への手紙第1・10章31節に、 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。 と記されていることを思い起こします。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 という主の祈りの第4の祈りは、そのようにして、飲むにも食べるにも神さまの栄光が現れることを求めている神の子どもたちの祈りです。私たちがいただく食べ物や飲み物は、この「地」にご臨在される神さまの愛と恵みといつくしみのしるしであることを認めて、父なる神さまに、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 と祈り求めるのです。 |
![]() |
||