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説教日:2008年4月13日 |
このように、主の祈りの6つの祈りは、最初の三つの祈りが、基本的に、父なる神さまに関する祈りとなっており、それに続く三つの祈りが、基本的に、祈る私たち自身に関する祈りとなっています。これによって、祈りにおいては、私たちの思いが自分たちのことより先に父なる神さまに向けられるべきであることが分かります。 また、その意味で、主の祈りの第1の祈りである、 御名があがめられますように。 という祈りは、私たちの祈りにおいて最も大切な祈りであると言えます。しかし、それに劣らず、あるいは考え方によってはそれ以上に大切なことがあります。それは、 天にいます私たちの父よ。 という呼びかけです。 この呼びかけは、単なる導入の言葉ではありません。主の祈りは、御子イエス・キリストが教えてくださった祈りとして、父なる神さまのみこころにかなった祈りです。その父なる神さまのみこころの第1にして最も大切なみこころは、私たちが父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけ、父なる神さまご自身を求めることです。 このこと、私たちが父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけ、父なる神さまご自身を求めることは、主の祈りを祈ることの出発点であり、土台となっています。主の祈りの6つの祈りのすべてが、まず、私たちが父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と、親しく、また、信頼をもって呼びかけることを受けています。 私たちが父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけることができることは、私たちに対する父なる神さまの最も深いみこころから出ています。エペソ人への手紙1章3節〜6節には、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 と記されています。ここには、父なる神さまの永遠の聖定における、私たちに対するみこころの中心が記されています。それは、私たちを御子イエス・キリストにあって「御前で聖く、傷のない者」としてくださることであり、さらに進んで私たちを「イエス・キリストによってご自分の子に」してくださることにあります。 父なる神さまは、この永遠の聖定におけるみこころを実現してくださるために、御子によって創造の御業を遂行されました。そして、私たち人間を神のかたちにお造りになり、ご自身のご臨在の御前に住まうもの、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださいました。 そればかりではありません。神のかたちに造られて、このような豊かな祝福にあずかっていた人が、その愛と恵みを踏みにじってしまいました。神のかたちに造られた人がご自身に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったのです。私たちはその最初の人アダムの子孫であり、アダムとの一体にあって御前に堕落したものです。それでも、父なる神さまは私たちを、御子イエス・キリストにあって、「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子に」してくださるというみこころを実現してくださいました。ご自身の御子イエス・キリストを私たちの贖い主として立ててくださり、今から2千年前にこの世にお遣わしになりました。御子イエス・キリストは、この父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころを実現してくださるために、人の性質を取って来てくださいました。これによって、私たちと一つとなってくださり、十字架にかかって、私たちの罪に対する父なる神さまの御怒りによる刑罰を私たちに代わって受けてくださいました。そればかりでなく、イエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされたことへの報いとして栄光をお受けになり、死者の中からよみがえってくださいました。これも、ご自身のためではなく、私たちをご自身の復活のいのちによって生かしてくださるためでした。 私たちは御霊のお働きによってこのイエス・キリストと一つに結び合わされています。そして、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれています。これによって、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子に」してくださるという父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころが、私たちの間に実現しています。その完成は、終りの日の栄光のキリストの再臨の日を待たなければなりませんが、栄光のキリストの御霊としてお働きになる御霊によって、確かに、私たちの間に実現しています。 ガラテヤ人への手紙4章4節〜6節には、 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と記されているとおりです。また、ローマ人への手紙8章14節、15節には、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と記されています。 このように、私たちは、父なる神さまが御子イエス・キリストの御名によって遣わしてくださった「子としてくださる御霊」によって、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼びかけることができます。そして、このことは、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子に」してくださるという父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころが、私たちの間に実現していることの第1にして、最も明確な現れでもあります。 私たちのためにこれらすべてのことを実現してくださった御子イエス・キリストが、主の祈りを教えてくださいました。そして、何よりもまず、父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけるようにと教えてくださいました。 御子イエス・キリストがその十字架の死の苦しみをもって成し遂げてくださった贖いの御業のおかげで、私たちは父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と親しく、信頼をもって、呼びかけることができます。そして、この祝福と特権のうちにあって、 御名があがめられますように。 という祈りから始まる6つの祈りを祈ることができます。 このように、父なる神さまを「天にいます私たちの父」と親しく呼び求めることは、主の祈りにおいて第1のことであり、最も大切なことです。そして、これが、これに続く6つの祈りを祈ることの土台のようなものとなっています。 しかし、私たちは、父なる神さまを「天にいます私たちの父」と呼び求めることができることが、父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころの第1の現れであることを忘れてしまいがちです。また、御子イエス・キリストがこのことを私たちの間に実現してくださるために、十字架にかかって私たちの罪を贖ってくださったばかりでなく、栄光を受けて、死者の中からよみがえってくださって、私たちをご自身の復活のいのちによって新しく生かしてくださったということを忘れてしまいがちです。 私たちがこれらのことをおろそかにしてしまうのは、私たちが祈りを「自分の願い事」を中心として考えてしまうからです。けれども、祈りの本質と目的が父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりにあるということを中心にして考えますと、父なる神さまを「天にいます私たちの父」と呼ぶことこそが、祈りにおいて第1のことであり、その中心にあることが分かります。 すでにお話ししましたように、最初の三つの祈りは、基本的に父なる神さまにかかわることを祈り求めるものでした。そして、その一つ一つの祈りには「あなたの」という言葉がついていました。それを生かして訳しますと、 あなたの御名があがめられますように。 あなたの御国が来ますように。 あなたのみこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 となりました。この「あなたの御名」、「あなたの御国」、「あなたのみこころ」の「あなた」こそは、私たちが 天にいます私たちの父よ。 と親しく、信頼をもって、呼びかけている父なる神さまです。ですから、これら三つの祈りは、私たちが父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と呼びかけていることを踏まえています。 また、主の祈りの後半の三つの祈りは、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 という祈りで、基本的に、この祈りを祈る私たち自身にかかわることを祈るものです。そして、そのことを反映して、これらの祈りには「私たちの」という言葉や「私たちを」という言葉がついています。 この「私たちの」という言葉や「私たちを」という言葉は、最初の三つの祈りについている「あなたの」という言葉と対立するものではありません。むしろ、対をなすように結びついていて、父なる神さまと私たちとの間に親しい、人格的な交わりがあることを示しています。言うまでもなく、このことは、主の祈りの6つの祈りの一つ一つが、父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と、親しく、また、信頼をもって、呼びかけることから始まり、そのように呼びかけたことを受けているということによっています。 ですから、主の祈りの後半の三つの祈りは、基本的に、祈る私たち自身にかかわる祈りですが、これは、父なる神さまを「天にいます私たちの父」と呼んでいる者として、父なる神さまを信頼して祈るものです。その父なる神さまは、無限、永遠、不変の栄光の主であられ、その存在と知恵と力、その愛と恵みといつくしみにおいて無限、永遠、不変であられます。 マタイの福音書6章7節、8節には、主の祈りを教えてくださったイエス・キリストが、主の祈りに先だって教えてくださった祈りに関する教えが記されています。そこには、 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。 と記されています。 あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる ということは、ただ、その知恵と知識において無限、永遠、不変の主であられる父なる神さまは、すべてのことをご存知であられるから、私たちの必要も知っておられるというだけのことではありません。その父なる神さまが私たちを愛してくださり、私たちに心を注いでくださっておられるので、私たちに「必要なものを知っておられる」ということです。イエス・キリストは、だから、私たちは祈らなくてもよいというのではなく、だからこそ、父なる神さまを信頼して祈りなさいと教えてくださいました。 パウロは、ローマ人への手紙8章32節において、 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 と述べています。この御言葉に基づいて、だからこそ、父なる神さまを信頼して祈ることができるのだと考えることもできます。 先ほど、最初の三つの祈りについている「あなたの」という言葉と、後半の三つの祈りにおける「私たちの」という言葉や「私たちを」という言葉が、対をなすように結びつけられているということをお話ししました。ここで、さらに注目したいのは、この後半の三つの祈りにおける「私たちの」という言葉や「私たちを」という言葉は、「私の」や「私を」ではないということです。このことは、主の祈りの出発点にして、6つの祈りのすべての根底にある、 天にいます私たちの父よ。 という父なる神さまへの呼びかけにも表れています。この呼びかけでは父なる神さまを「私の父」ではなく、「私たちの父」と呼んでいます。 主の祈りは、私たちが御子イエス・キリストの贖いの恵みによって、罪の自己中心性から解放されていることを踏まえた祈りです。 私たちは、御子イエス・キリストがその十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっています。その十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を全く贖っていただいています。そればかりでなく、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、御霊によって新しく生まれ、イエス・キリストの復活のいのちによって生きるものとされています。そのことのゆえに、私たちは父なる神さまに向かって、 天にいます私たちの父よ。 と、親しく、信頼をもって呼びかけることができます。 しかし、その私たちのうちには、今なお、罪の性質が残っています。ヨハネがその第1の手紙1章8節で、 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 とあかししているとおりです。そのために、絶えず、自らの罪を告白し、その罪をきよめていただかなければならないものです。ヨハネは続く9節で、 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 と述べています。 そのような私たちです。 あなたの御名があがめられますように。 あなたの御国が来ますように。 あなたのみこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 というように、父なる神さまにかかわることを祈るときには後ろに隠れているかもしれませんが、 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。 という自分に直接かかわることを祈るときには、罪の自己中心性が頭をもたげてきやすいのです。 もちろん、主の祈りを祈るときには、この言葉をそのまま繰り返しますのであまり意識されないでしょう。しかし、自分の言葉で自由に祈るとき、その祈りは罪の自己中心性に特徴づけられているということはないでしょうか。その祈ることは、ほとんど自分のことや自分のためであるというようなことはないでしょうか。 そのような私たちではありますが、主の祈りを真実に祈ることをとおして、また、すべての祈りを主の祈りの精神に沿って、また主の祈りを模範として祈ることをとおして、主の民の一員として、また、神の子どもたちのひとりとして祈ることの幸いを経験していくことができます。そのようにして、私たちの祈るすべての祈りが、主の祈りの精神に沿ったもの、主の祈りを模範としてそれに従うものとなりますように。 |
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