(第144回)


説教日:2008年4月6日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りは、基本的には、父なる神さまがご自身のみこころをなしてくださることを祈り求めるものです。この主の祈りの第3の祈りについては、いろいろな面からお話ししてきましたが、今日で、この第3の祈りについてのお話に区切りをつけたいと思います。
 これまで、主の祈りの第3の祈りにおいて、私たちが、

 みこころが・・・地でも行なわれますように。

と祈るときの「」の意味についてお話ししてきました。まず、それを簡単に復習しておきましょう。
 創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事の見出しに当たる1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。この「天と地」は(メリスムスという表現の仕方で)この世界に存在するすべてのもの、今日の言葉で言えば、この壮大な宇宙とその中にあるすべてのものを表しています。そして、1節は、この壮大な宇宙とその中にあるすべてのものは、神さまが「無から」造り出されたものであるということを宣言するものです。
 これに続く2節からは、創造の御業の記事の視点と関心は「」に移されています。
 2節前半には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と記されています。これは、イザヤ書45章18節に記されている御言葉に照らして見ますと、神さまが最初に造り出された「」は、「人の住みか」とは言えない状態にあったということを示していると考えられます。
 このこととともに、2節後半には、

 神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。「」が「人の住みか」とは言えない状態にあった時に、すでに、神さまが御霊によってそこにご臨在しておられました。このことは、「」は「人の住みか」である前に、また「人の住みか」である以上に、神さまがご臨在される場であるということを意味しています。
 これに続く3節以下では、この「」にご臨在しておられる神さまが、そのご臨在の御許から発せられた、

 光よ。あれ。

という御言葉から始まる一連の御言葉をもって、「」をご自身のご臨在の場にふさわしく整えてくださり、これを「人の住みか」としてくださったことが記されています。


 ここで改めて注目したいのは、2節から創造の御業の記事の視点と関心が「」に移されているということの意味です。
 まず考えられることは、すでにお話ししたことですが、神さまの啓示は神のかたちに造られた人に与えられているということです。それで、この創造の御業の記事も、神のかたちに造られた人の住んでいる「」に視点と関心を置いて、神さまの創造の御業を記しているということです。ですから、創造の御業の記事は、あたかも、人がそこにいて神さまの創造の御業を目撃しているかのように記されています。それは、私たちの目線で見た、神さまの創造の御業を記しているのです。それで、私たちはこの創造の御業の記事に照らして、自分たちが住んでいるこの世界がどのようにして造られたかを、極めて具体的で生き生きとした形で知ることができます。
 このこととともに、もう一つ大切なことがあります。
 それは、創造の御業の記事の構成から見ても、また、聖書に記されている神さまの啓示の全体的な光から見ても、2節から創造の御業の記事の視点と関心を「」に移しているからといって、

 初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「天と地」、すなわち神さまがお造りになった壮大な宇宙とその中のすべてのものを無視してしまっているわけではないということです。
 先主日にもお話ししましたが、物理的な比較から言いますと、この大宇宙と地球は比べ物にはなりません。1秒間に地球を7回り半する速度で走る光が150億年ほどかかってようやく宇宙の果てに到達すると言われています。神さまはこのように壮大な宇宙とその中にあるすべてのものをお造りになりました。

 初めに、神が天と地を創造した。

という御言葉はそのことを宣言しています。
 先ほどもお話ししましたように、この宣言は、1章1節〜2章3節に記されている、創造の御業の記事全体の見出しに当たります。見出しというのは、その本文に記されていることをまとめたものです。ところが、その本文に当たる部分では、宇宙全体の創造のことが記されてはいません。創造の御業の記事の視点と関心は「」に置かれています。このことを踏まえて見ますと、2節から「」を中心として神さまの創造の御業のことが記されていることは、この「」における神さまの創造の御業が、神さまが「天と地」を創造されたことと深くかかわっていることを予想させます。言い換えますと、神さまがこの「」を何よりもまずご自身のご臨在の場としてお造りになり、それにふさわしく整えてくださり、その上で、これを「人の住みか」としてくださったことは、神さまが「天と地」、この壮大な宇宙をを創造されたことと深くかかわっているということです。
 このことは、さらに、先主日にも引用しました、イザヤ書66章1節、2節に、

 主はこう仰せられる。
 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。
 わたしのために、あなたがたの建てる家は、
 いったいどこにあるのか。
 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。
 これらすべては、わたしの手が造ったもの、
 これらすべてはわたしのものだ。」

と記されている御言葉を思い起こさせます。ここでは、主が「」を「王座」とし、「」を「足台」としてご臨在しておられることが、擬人化された表現で示されています。神さまはご自身がお造りになった「天と地」にご臨在されて、お造りになったすべてのものを治めてくださっています。すべてのものは神さまの御手によって支えられ、導かれ、育まれています。ですから、神さまが創造の御業によって造り出された「天と地」そのものが、神さまのご臨在される場としての意味をもっています。言い換えますと、この大宇宙全体が造り主である神さまのご臨在の場である神殿としての意味をもっているということです。エレミヤ書23章24節にも、

 天にも地にも、わたしは満ちているではないか。
 ―― 主の御告げ。――

と記されています。
 このように、神さまはご自身がお造りになった「天と地」にご臨在しておられます。しかし、神さまのご臨在は自動的なものではありませんし、一様なものではありません。神さまはご自身のみこころに従って、この世界にご臨在されます。人間にたとえてみますと、ある人が会社にいるのと家にいるのとでは、その人が「そこにいる」ということの意味が違います。神さまがご臨在されるということにも、どこにご臨在されるかによって意味の違いがあります。
 神さまが、この世界にご臨在されて、お造りになったすべてのものを、支えてくださり、育んでくださり、導いてくださっているということは、ご自身がこの世界をお造りになったことに基づいて、お造りになったものに対して、ご自身の真実を示してくださっていることです。この意味でのご臨在には、神さまがお造りになったすべてのものがあずかっています。
 しかし、神さまは、特別な意味で、神のかたちに造られた人とともにあるためにご臨在してくださいます。そのことは、創世記2章2章7節、8節に、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

と記されていることに現れています。すでにお話ししたことですので、結論的なことだけを言いますと、神さまはご自身が人と向き合ってくださる形でそこにご臨在されて、人にご自身から出た「いのちの息」を吹き込んでくださることによって、人をお造りになられました。これによって、人を神のかたちにお造りになり、ご自身と向き合い、ご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとしてお造りになりました。そして、エデンの園をご自身の特別なご臨在の場として設けてくださり、そこに、神のかたちに造られた人を住まわせてくださいました。このことは、神さまは神のかたちに造られた人とともにあるために、特別な意味でご臨在してくださるということを意味しています。それは、人が、被造物としての限界のうちにあってのことではありますが、愛を本質的な特性とする神さまの人格的な特性を映し出す神のかたちとして造られているからです。
 神のかたちに造られた人は、自由な意志をもち、造り主である神さまに愛をもって応答するものとして造られています。神さまが造り主であられることを認めて、いっさいの栄光を神さまに帰して、神さまを讚え、礼拝するものとして造られています。しかし、150億光年の彼方に広がっている宇宙がどれほど大きなものであるとしても、神さまと人格的にかかわることはできません。その点に、神さまが、ご自身がお造りになった「天と地」にご臨在されるときのご臨在のされ方と、神のかたちに造られた人とともにあるためにご臨在されるときのご臨在のされ方に違いがあります。
 このことを、別の面から見てみましょう。神さまは人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。このことは、神さまはご自身がお造りになったすべてのものを、神のかたちに造られた人との一体にあるものとされたということを意味しています。繰り返し引用しています詩篇8篇3節〜6節に、

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。
 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されているとおりです。
 このことのゆえに、神さまは「」をご自身のご臨在の場としてくださり、これを神のかたちに造られた「人の住みか」としてくださいました。そして、このことのゆえに、神さまが特別な意味でご臨在されて、神のかたちに造られた人の礼拝を受け入れてくださる場としての「」は、神さまがお造りになった「天と地」の中心にあるということができます。
 誤解がないようにしたいのですが、これは、「地動説」を捨てて「天動説」を取るということではありません。これは、そのような地球と太陽の関係の問題ではなく、神さまがお造りになった「天と地」(宇宙)と「」(地球)が、造り主である神さまご自身とどのような関係にあるかの問題です。
 6節で、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と言われていますように、神さまは「万物」を神のかたちに造られた人の「足の下に置かれました」。言い換えますと、「万物」は神のかたちに造られた人との一体のうちに置かれたということです。
 このようにして、神さまは神のかたちに造られた人をご自身がお造りになった「すべてのもの」(「万物」)のかしらとされ、代表者とされました。神のかたちに造られた人はそのような立場に置かれたものとして、歴史と文化を造る使命を委ねられています。このことを、聖書に出てくる別の言葉で言いますと、神のかたちに造られた人は「万物」に対して、王的、祭司的、預言者的な立場に立っているということです。いわば、神のかたちに造られた人は造り主である神さまと、神さまがお造りになった「万物」との間に立つ仲保者のような立場に置かれています。
 神のかたちに造られた人が「万物」に対して王的な立場にあるということは、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

という御言葉から知ることができます。また、創世記1章28節に記されている歴史と文化を造る使命から汲み取ることができます。
 神のかたちに造られた人が「万物」に対して祭司的な立場にあるということは、神のかたちに造られた人がささげる、人格的な特性をもった礼拝、霊とまことによる礼拝が全被造物の礼拝の中心にあるということに現れています。
 この王的、祭司的な立場については、黙示録5章9節、10節に記されている栄光のキリストに対する讃美において、

あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。

と告白されています。ここでは、イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業をとおして、歴史と文化を造る使命が回復されていることが記されています。そして、その回復された歴史と文化を造る使命には王的な面と祭司的な面があることが示されています。
 分かりにくいのは、預言者的な立場でしょう。それは、神のかたちに造られた人が、この世界のすべてのものは神さまがお造りになったものであると理解し、造られた一つ一つのものに造り主である神さまが与えておられる存在の意味を明らかにしていく使命を負っているということに現れています。
 いずれにしましても、「」はそのような使命を委ねられている神のかたちに造られた「人の住みか」として特別な意味をもっているのです。神さまはこの「」にご臨在されて、神のかたちに造られた人の礼拝を受けてくださることによって、造り主としてのご栄光をお受けになられます。
 しかし、実際には、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人は、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまいました。このことによって、神のかたちに造られた人がさばきを受けて死の力に服しただけではありません。神のかたちに造られた人と一体であるものとされた「万物」も虚無に服することになりました。
 このことは、また、神のかたちに造られた人が、その本来の姿に回復されることがあるなら、虚無に服している「万物」も、神のかたちに造られた人とともに回復されるということを意味しています。ローマ人への手紙8章19節〜21節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と記されているとおりです。
 このことは、さらに大きな神さまのみこころの実現とかかわっています。
 エペソ人への手紙1章20節〜22節には、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と記されています。
 20節では、父なる神さまが、十字架にかかって死んでくださって、私たちご自身の民の罪の贖いを成し遂げてくださったイエス・キリストを、死者の中からよみがえらせてくださり、「天上においてご自分の右の座に着かせて」くださったと言われています。
 そして、このことを受けて22節には、

 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ

と記されています。これは、神さまがイエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださって、天においてご自身の右の座に着座させてくださったことは、詩篇8篇6節に、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることを成就してくださったことであるということを示しています。つまり、父なる神さまの右の座に着座しておられるイエス・キリストは、天地創造の御業において、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就してくださっているということです。
 エペソ人への手紙1章の流れでは、このことは、8節〜10節において、

この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、この方にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。(新改訳第三版)

と記されていることを受けています。このことも前にお話ししたことですので、いくつかの議論を省略して結論だけをお話しします。栄光のキリストが父なる神さまの右の座に着座されて、歴史と文化を造る使命を成就してくださったことによって、

いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

という父なる神さまの「みこころの奥義」が、いわば「原理的に」実現しています。「原理的に」というのは、この場合には、

いっさいのものがキリストにあって・・・一つに集められる

ということが実現するために必要なすべてはそろっており、実際にそれが実現し始めているということ、また、それは必ず完成に至るということを意味しています。
 先ほど20節〜22節を引用しましたが、22節前半で、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

と言われていることを受けて、後半では、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と言われています。これは、父なる神さまの右の座に着座されて、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられる栄光のキリストが、教会に与えられているということを、私たちにあかししています。
 そして、23節には、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。ここでは、教会は栄光の「キリストのからだ」であると言われています。これは22節に、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と記されていることとの関連で理解しなくてはなりません。そうしますと、ここでは、教会は、父なる神さまの右の座に着座されて、天地創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられる栄光の「キリストのからだ」である、ということが示されているということになります。
 このように、エペソ人への手紙1章の流れでは、教会が「キリストのからだ」であるということを、歴史と文化を造る使命と切り離して考えることはできません。
 私たちは天地創造の御業において神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命を成就しておられる栄光の「キリストのからだ」として一つに集められています。そして、ここに御霊によってご臨在してくださっている栄光のキリストの御名によって、父なる神さまを礼拝しています。この礼拝は、すでにお話ししてきましたように、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を遂行することの中心にあります。そのようにして、私たちは、新しい時代の歴史と文化を造る使命を果たすものとされています。
 具体的には、コリント人への手紙第1・10章31節に、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

と記されていますように、ごく日常的なことをも「」にご臨在してくださっている神さまの愛と恵みといつくしみの現れとして受け取り、感謝をもって神さまを讚えることによって、神さまの栄光を現していきます。私たちはそのように神さまとともに歩むことによって、新しい時代の歴史を文化を造る使命へと召されています。
 また、教会が「キリストのからだ」として一つに集められて、新しい時代の歴史と文化を造る使命を果たすことは、

いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

という父なる神さまの「みこころの奥義」が「」において実現することを意味しています。父なる神さまがご自身の「みこころの奥義」を私たちに啓示してくださいました。私たちはこれに応答して、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈ります。そのようにして、父なる神さまの「みこころの奥義」が「」において実現することを祈り求めるのです。

 


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