![]() |
説教日:2008年3月30日 |
これまで、 みこころが・・・地でも行なわれますように。 と祈るときの「地」について聖書の御言葉に示されているところにしたがってお話ししてきました。それを簡単に復習しておきましょう。 創世記1章1節〜2章3節には天地創造の御業の記事が記されています。この記事の見出しに当たる1章1節には、 初めに、神が天と地を創造した。 と記されています。これは、この壮大な宇宙とその中にあるすべてのものは、神さまが「無から」造り出されたものであるということを宣言するものです。 これに続く2節からは、創造の御業の記事の視点と関心は「地」に移されています。 2節前半には、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、 と記されています。ここでは、神さまが最初に造り出された「地」は「人の住みか」とは言えない状態にあったということを示していると考えられます。 このこととともに、2節後半には、 神の霊は水の上を動いていた。 と記されています。「地」が「人の住みか」とは言えない状態にあった時に、すでに、神さまが御霊によってそこにご臨在しておられました。このことは、「地」は「人の住みか」である前に、また「人の住みか」である以上に、神さまがご臨在される場であるということを意味しています。 これに続く3節以下では、この「地」にご臨在しておられる神さまが、そのご臨在の御許から発せられた一連の御言葉をもって、「地」をご自身のご臨在の場にふさわしく整えてくださり、これを「人の住みか」としてくださったことが記されています。 「地」が「人の住みか」である前に、また「人の住みか」である以上に、神さまがご臨在される場であるということを理解することは、とても大切なことです。 イザヤ書66章1節、2節には、 主はこう仰せられる。 「天はわたしの王座、地はわたしの足台。 わたしのために、あなたがたの建てる家は、 いったいどこにあるのか。 わたしのいこいの場は、いったいどこにあるのか。 これらすべては、わたしの手が造ったもの、 これらすべてはわたしのものだ。」 と記されています。 ここで主が問題としておられるのは主の御住まいとしての「神殿」です。この御言葉は、エルサレム神殿を主の必要を満たすために建てられたものであるかのように考えている人々に対するものです。そのような考え方をしている人々からすると、主の神殿は、主のための「いこいの場」であるということになります。ちょうど、人間にとっての「いこいの場」が自分の家であるように、主にとっての「いこいの場」は主の神殿であるということです。そして、自分たちが主のためにそのような「いこいの場」を備えていると考えます。そのように考える人々は、神殿においてささげられているいけにえも主の必要を満たすためのささげ物であると考えるようになります。 これに対して、主は、 天はわたしの王座、地はわたしの足台。 と仰せになられます。これによって、主は、ご自身が「天」を「王座」とし、「地」を「足台」としてご臨在しておられることを、擬人化された表現で示しておられます。これによって、主はご自身を王座に着座している王にたとえておられます。主は天と地とその中のすべてのものをお造りになった方であられるばかりでなく、ご自身がお造りになったすべてのものを治めておられる主です。そのような主に何かが必要であるかのように考えること、主にも休みが必要であるかのように考えるのは、人が自らの罪のために、その思いが暗やみに閉ざされしまい、神さまがどなたであるかを見失ってしまっいるからです。むしろ、ここに示されていますように、主がすべてのものをお造りになり、すべてのものを治めてくださっています。主がすべてのものを支え、導き、育んでくださっておられます。 このように、主は「天と地」をお造りになって、そこにご臨在してくださいます。主はお造りなったものを放置されたのではなく、ご自身がそこにご臨在されて、すべてのものを治めてくださいます。すべてのものを支え、導き、育んでくださっています。 前回、主の祈りのお話の中でお話ししましたように、これは無限、永遠、不変の栄光の主であられる神さまが、その無限、永遠、不変の栄光をもってご臨在されるということではなく、御子によってなしてくださっていることです。この大宇宙であっても、神さまの無限、永遠、不変の栄光に触れることがあるなら、たちまち焼き尽くされてしまいます。この宇宙が造り出され、今日に至るまで保たれているのは、御子がその無限、永遠、不変の栄光を隠して、この世界にかかわってくださっているからです。コロサイ人への手紙1章16節に、 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 と記されているとおりです。 いずれにしましても、主は「天と地」をお造りになり、「天と地」にご臨在してくださり、すべてのものを御手によって治めてくださっています。それで、「天と地」には、そこに造り主である神さまがご臨在される「神殿」としての意味があります。そして、「天と地」、すなわち、この大宇宙を「神殿」にたとえるなら、私たちが住んでいるこの「地」は、神殿の中心にある「聖所」(コーデシュ)に当たり、エデンの園はさらにその中心にある「至聖所」に当たるとというように考えられます。物理的な比較から言いますと、大宇宙とこの地球は比べ物にはなりません。大宇宙は150億光年の彼方に広がっています。それに比べたら、地球はほんの点に過ぎません。しかし、神さまの御前においては、この「地」がきわめて大切なものとして覚えられています。それは、この「地」が神のかたちに造られた人の「住まい」とされているからです。 繰り返し引用しています詩篇8篇3節〜6節には、 あなたの指のわざである天を見、 あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されています。 ここでは、 あなたの指のわざである天を見、 あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。 と言われていますように、宇宙の広大さを踏まえています。それに比べたときの自分たち人間の存在の小ささも踏まえています。それでもなお、 人とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを顧みられるとは。 と言われていますように、主がその存在において取るに足りない人にお心を留めてくださっていることを驚きとともに告白しています。人に「何か」があるとすれば、それはひとえに、主が「これを心に留められる」からです。 そのように、主が人にお心を留めてくださっているので、神さまは人を神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と告白されているとおりです。 そして、この詩篇8篇が、 私たちの主、主よ。 あなたの御名は全地にわたり、 なんと力強いことでしょう。 という讃美で始まり、全く同じ讃美で終っていることにも示されていますように、そのすべてにおいて、主の「御名」がほめたたえられるべきであるのです。 ここで、 私たちの主、主よ。 あなたの御名は全地にわたり、 なんと力強いことでしょう。 と告白されているのは、主ご自身が「地」にご臨在しておられ、すべての物事を治めておられるからに他なりません。 このように、造り主である神さまがお心に留めてくださり、その愛と恵みを受けたゆえに、人は神のかたちに造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられました。そして、そのことは、造り主である神さまを讚え、礼拝することを中心とし、目的としています。 このこととの関連で考えてみたいのですが、天地創造の御業において神のかたちに造られた人は、初めから神さまのご臨在の御許に住まい、神さまを礼拝することを中心とした、神さまとの愛の交わりのうちに生きていました。そうすべきことを誰かから教えられたのではありません。神さまが人をご自身を知っているもの、ご自身に向かうものとしてお造りになったからです。 そのような祝福のうちにあった人は、神さまを礼拝し、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるために建物としての神殿を建てる必要はありませんでした。神さまは人に神殿を建てさせて、そこにご臨在されるというようなことはなさいませんでした。その時、「神殿」としての意味をもつものがあるとすれば、それは「エデンの園」でした。それは神さまが設けてくださった園であり、そこに神さまがご臨在され、そこに人を住まわせてくださいました。このようにして、神さまのご臨在は初めから神のかたちに造られた人とともにありました。 このように、本来、神のかたちに造られた人が造り主である神さまを礼拝するために、建物としての神殿は必要ありません。それなのに、神さまが建物としての神殿を備えてくださったのは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったからです。 神さまが備えてくださった建物としての神殿は、人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後の「エデンの園」を象徴的に表しています。 創世記3章24節には、 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。 と記されています。 「いのちの木」は、神さまのご臨在のあるエデンの園の中央にありました。それは見えない神さまとのいのちの交わりを見える形で表してくださるために神さまが備えてくださった恵みの手段です。神のかたちに造られた人が、その神さまの備えを信じて、その実を取って食べることによって、神さまとのいのちの交わりを現実的に覚えることができたと考えられます。それは、新しい契約の下にある私たちがあずかっている聖礼典における、イエス・キリストの裂かれた肉を表している「パン」と、イエス・キリストの流された血を表している「ぶどう酒」と同じように、見えない神さまの恵みを見える形で表すものであったと考えられます。 「ケルビム」は神さまのご臨在を表示しつつ、その聖さを守る生き物です。それが「回る炎の剣」とともにあることによって神さまのご臨在の聖さを冒すものを神さまがおさばきになることを表しています。「エデンの園の東」の「東」という言葉(ケデム)は「正面」をも意味しています。それで、「エデンの園の東」はエデンの園の正面で、そこにエデンの園の中央に向かう「いのちの木への道」があったと考えられます。そして、その入口に「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」が置かれたわけです。 人が神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後に、神さまは人をエデンの園から追放されました。しかし、エデンの園は保存してくださいました。それによって、そこに神さまの栄光のご臨在と、神さまとの愛にあるいのちの交わりを表示している「いのちの木」があること、さらにはその「いのちの木」への道も残されていることが示されています。しかし、神さまはその「いのちの木への道」の入口に「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」を置かれて、罪あるままで「いのちの木への道」に踏み込み、神さまの栄光のご臨在の聖さを犯す者は、直ちにさばかれ滅ぼされるということを示しておられます。 これだけであれば、神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間には望みはありません。しかし、これにはもう一つの面があります。3章15節には、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されています。これは神のかたちに造られた人を誘惑して罪を犯させた「蛇」の背後にあって働いていたサタンに対するさばきの宣言です。すでに繰り返しお話ししていますので、結論だけを言いますと、これによって、神さまは「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主を約束してくださいました。 大切なことは、神さまがこの約束を与えてくださったのは、人をエデンの園から追放される前のことであるということです。人はこの贖い主の約束を携えてエデンの園を出ていくことができたのです。自分が再び「いのちの木への道」を通って、神さまのご臨在の御前に近づくことができるとすれば、それは、この「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主のお働きによることであるという望みを抱いてのことです。実際に、最初の人アダムとその妻エバは、その望みを抱いて、エデンの園から出て行ったと考えられます。 このエデンの園は、ノアの時代の大洪水で失われてしまったと考えられます。後に神さまは、このエデンの園が表していたことを、建物としての神殿によって示してくださいました。神殿の中心には聖所があり、その奥には至聖所がありました。その至聖所には神さまのご臨在がありました。これは「いのちの木」が指し示していた神さまのご臨在と、そこにご臨在される神さまとの愛にあるいのちの交わりを示していました。しかし、その聖所と至聖所はケルビムを織り出した垂れ幕で仕切られていました。これは、神さまが「いのちの木への道」の入口に「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」を置かれたことに対応しています。罪ある者はそこに入って、主の聖さを冒してはならないということを伝えています。 しかし、この場合も、これだけではありませんでした。神殿においては、その聖所の前にあった祭壇において、動物のいけにえがささげられました。これは、ヘブル人への手紙9章22節に記されている、 血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはない ということを教えていました。逆に言いますと、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人の罪も、神さまが備えてくださるいけにえによって贖われるということを、約束の形で示していたのです。 このように、主がエルサレム神殿を備えてくださったのは、ご自身の必要を満たすためではありませんでした。神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられていながら、神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間の現実を教えてくださるとともに、福音において、神さまが贖い主による救いを約束してくださっていることを示してくださるために備えられたものでした。 この福音において示されている約束は、「女の子孫」のかしらとして来られた贖い主、私たちの主イエス・キリストにおいて実現しています。ヘブル人への手紙9章11節、12節には、 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。 と記されています。10章10節には、 このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。 と記されています。 復活節のお話で取り上げましたが、ヨハネの福音書1章1節には、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 と記されています。ここには、無限、永遠、不変の栄光の神であられる「ことば」が、父なる神さまとの永遠の愛の交わりのうちにいますことが示されています。そして、14節には、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 と記されています。これは、永遠の「ことば」なる方が、私たちの間にご臨在されたことを示しています。このように、人となって来られた永遠の神の御子イエス・キリストこそは、神さまのご臨在そのものであられます。そうであるからこそ、14章9節に記されていますように、イエス・キリストは、 わたしを見た者は、父を見たのです。 と教えられたのです。 また、ヨハネの福音書14章6節には、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 というイエス・キリストの教えが記されています。 わたしが道です。 と言われるイエス・キリストこそは「いのちの木への道」が示していた神さまのご臨在の御許に至る「道」の本体です。イエス・キリストは、ご自身の十字架の死によって私たちの罪を完全に贖ってくださって、あの「ケルビムと輪を描いて回る炎の剣」を取り除いてくださいました。イエス・キリストが十字架の上で息をを引き取られた時のことを記している、マタイの福音書27章50節、51節に、 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。 と記されているとおりです。 また、 わたしが・・・真理です。 と言われるイエス・キリストこそ、父なる神さまがどなたであられるかを私たちに示しておられる「真理」です。それは、イエス・キリストご自身が、 わたしを見た者は、父を見たのです。 とあかししておられるとおりです。 そして、 わたしが・・・いのちです。 と言われるイエス・キリストこそは、「いのちの木」が表示していた神さまとの愛にあるいのちの交わりを私たちの現実としてくださっている方です。 このように、人となってきてくださった御子イエス・キリストは、無限、永遠、不変の栄光の神さまのご臨在そのものであられます。そして、ひな型として備えられた地上の建物としての神殿が表示し、約束していた贖いの恵みのすべてを成就し、私たちの間に実現してくださいました。このことは、神さまがこの「地」をご自身のご臨在の場としてお造りくださり、これを「人の住みか」としてくださったことの意味を回復してくださることでした。さらに、イエス・キリストは、これによって、ご自身の民を神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに回復してくださり、新しい時代の歴史と文化を造る使命を果たすものとしてくださいました。 |
![]() |
||