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説教日:2008年3月16日 |
このことを新約聖書の啓示の光の下で見てみましょう。 ヨハネの福音書1章1節〜3節には、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されています。 すでにいろいろな機会にお話ししましたように、ここには、とても大切なことがいくつも示されていますが、今お話ししていることとかかわっていることに焦点を当てて見ていきたいと思います。 1節では、まず、 初めに、ことばがあった。 と言われています。この「初めに」は、先ほど触れました創世記1章1節で、 初めに、神が天と地を創造した。 と言われているときの「初めに」に当たります。また、「ことばがあった」は(未完了時制で表されていて)「過去における継続」を表しています。それで、 初めに、ことばがあった。 ということは、天地創造の御業の「初めに」すでに「ことばがあった」ことを示しています。このことは、「ことば」が永遠に存在される方であることを意味しています。 1節では、これに続いて、 ことばは神とともにあった。 と言われています。このことについてはいろいろな議論が必要ですが、結論的に言いますと、これは、永遠の「ことば」なる方が、やはり永遠に、「神」すなわち父なる神さまとの愛にある交わりのうちにあられることを示しています。神さまの本質的な特性は愛ですが、それは、神さまご自身のうちに愛の性質があるというだけではありません。父なる神さまと「ことば」と言われている御子との間には、無限、永遠、不変の愛の交わりがあるのです。 これらすべてのことは、1節で続いて、 ことばは神であった。 と言われていますように、「ことば」が神であられることに基づいています。 このように、「ことば」が神であられることを明確にしたうえで、2節では、 この方は、初めに神とともにおられた。 と言われています。これによって、永遠の神の御子であられる「ことば」が、父なる神さまとの無限、永遠、不変の愛の交わりのうちにおられることが再確認され、強調されています。同時に、ここで「初めに」という言葉を繰り返すことにより、創世記1章1節に記されています、 初めに、神が天と地を創造した。 という御言葉を思い起こさせます。その上で、3節で、 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と述べています。最初に、 すべてのものは、この方によって造られた。 と言われています。ここで注目すべきことは「この方によって」という言葉です。この「・・・によって」という言葉(前置詞ディア)は、「この方によって」の「この方」が働きの遂行者であることを表しています。ですから、 すべてのものは、この方によって造られた。 という言葉は、「この方」すなわち永遠の「ことば」なる方が、実際に、創造の御業を遂行されたことを示しています。 このことは、父なる神さまが御子イエス・キリストによって「すべてのもの」をお造りになったということを意味しています。あるいは、同じことの裏表ですが、御子イエス・キリストが父なる神さまのみこころにしたがって「すべてのもの」をお造りになったということです。 ヘブル人への手紙1章2節には、 神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。 と記されていて、このことがより明確に示されています。 では、なぜ父なる神さまが直接的に天地創造の御業を遂行されないのかという問題があります。それは、父なる神さまが、創造の御業において、また贖いの御業においてもですが、無限、永遠、不変の栄光の神さまを代表する立場に立っておられるからです。父なる神さまが神さまの無限、永遠、不変の栄光を表現しておられます。ですから、父なる神さまが直接的にこの世界の「すべてのもの」をお造りになったとしたら、「すべてのもの」は父なる神さまが表示しておられる無限、永遠、不変の栄光にさらされることになります。そうなれば「すべてのもの」は、瞬時に、神さまの栄光に焼き尽くされてしまいます。それで、父なる神さまは直接的に創造の御業を遂行されることはありません。御子が無限に身を低くされ、その栄光を隠して創造の御業を遂行されたのです。 ですから、創世記1章2節において、 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 と言われていますが、このとき、御霊によってこの「地」にご臨在しておられたのは御子であったのです。もちろん、これは、父なる神さまが御子によって、また御子にあって、そこにご臨在されたと言ってもいいのです。この点において、御父と御子は一つとなっておられます。しかし、あくまでも、御父が御子にあって、また御子によって、そこにご臨在し、御業をなしてくださっているのであって、その逆、すなわち、御子が御父にあってそこにご臨在されて御業をなされるということはありえません。 この点は、贖いの御業においてより明確に示されています。たとえば、ヨハネの福音書14章10節には、 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。 と記されています。同じことは創造の御業においても当てはまります。父なる神さまが御子にあって、また、御子によって創造の御業を遂行されたのです。それは、御子が父なる神さまのみこころにしたがって創造の御業を遂行されたということです。 ですから、創世記1章3節以下に記されている御業も、御霊によってそこにご臨在しておられる御子がそのご臨在の御許から発せられる、 光よ。あれ。 という御言葉から始まる一連の御言葉をもって、「地」を神さまのご臨在の場にふさわしく整えてくださり、これを「人の住みか」としてくださったのです。 このように、「地」は、これをお造りになった神さまご自身がご臨在される場として聖別されています。そして、神さまは「地」をご自身のご臨在の場として、また「人の住みか」としてふさわしく整えてくださったうえで、人をご自身のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。そのことが、1章26節〜28節に、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 先週お話ししましたように、ここには、創造の御業において人をお造りになったときの神さまの最も基本的なみこころが示されています。その意味で、ここには、人にとって本質的なことが示されています。ですから、人にとって本質的なことは、神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられているということです。 26節に記されている神さまの創造の御言葉では、神さまが「われわれ」と言っておられます。これについてはさまざまな考え方がありますが、結論的には、これは神さまのうちに人格的な複数性があることを示していると考えられます。これは、先ほど取り上げましたヨハネの福音書1章1節、2節において、 ことばは神とともにあった。 と記されていることと符合します。同じヨハネの福音書1章の3節に記されていることと関連づけて言いますと、神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことは、父なる神さまが御子によって、また御子にあってなしてくださったことです。それは、御子が父なる神さまのみこころにしたがってなしてくださったことでもあります。ですから、神のかたちに造られた人に、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったのは、創造の御業においてこの「地」にご臨在して、御業を遂行しておられた御子です。このように、御子が、ご自身のご臨在の御許から、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という祝福の御言葉を語ってくださり、神のかたちに造られた人をそのご臨在の御許から、この「地」の全面に遣わしてくださったのです。 人は愛を本質的な特性とする神のかたちに造られており、教えられなくても、神さまを知っており、造り出されたその時から神さまとの愛の交わりのうちに生きるものでした。これまでお話ししてきたことに合わせて言いますと、それは、御霊による御子のご臨在の御前において生きるということであり、御子によってご自身を啓示してくださっている父なる神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛の交わりのうちに生きるということです。そのように生きる人が、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という歴史と文化を造る使命にしたがって「地」を満たしていたとしたら、「地」には神さまへの礼拝と讃美が満ちあふれるようになっていたはずです。それこそが、この「地」を神さまご自身のご臨在の場、「神殿」としての意味をもつ所としてお造りになった神さまのみこころに沿ったことです。 実際には、神のかたちに造られた人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、歴史と文化を造る使命はその本来の姿において果たされることはなくなってしまいました。そして、先週お話ししましたように、ノアの時代に至る歴史においては、神さまがご自身のご臨在の場として聖別しておられる「地」を荒廃させ、暴虐で満たしてしまいました。 これに対して、神さまはそれまで人類が築いてきた歴史と文化をおさばきになり、大洪水をもってすべてを清算してしまわれました。このことは、やがて来たるべき終りの日のさばきのひな型としての意味をもっています。そして、その終りの日のさばきが神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命をめぐるさばきであることを示しています。 神さまはノアとその家族のために箱舟を備えてくださり、そのさばきを通って救われるようにしてくださいました。そして、ノアとその家族とその子孫に、新しい歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。このことも、やがて来たるべき終りの日に対するひな型としての意味をもっています。そして、神さまが終末的なさばきを通って救われる者たちに、新しい時代の歴史と文化を造る使命を委ねてくださることを示しています。 私たちは御子イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いにあずかって、終りの日のさばきを通って救われています。イエス・キリストが十字架において私たちのために受けてくださったさばきは終りの日のさばきに相当するさばきでした。それは、神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられていながら、造り主である神さまを神として礼拝することもなく、神さまのみこころに沿った歴史と文化を造ることもなくなってしまった私たちに対する最終的なさばきとしての意味をもっていました。そのようにして、イエス・キリストは私たちを世の終わりのさばきから救い出してくださいました。 そればかりではありません。イエス・キリストは私たちをご自身のよみがえりのいのちにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださいました。そして、私たちに新しい時代の歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。そのようにして、私たちが造る新しい時代の歴史と文化は、終りの日に再臨される栄光のキリストがご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて再創造される「新しい天と新しい地」へとつながる歴史と文化であり、「新しい天と新しい地」において完成する歴史と文化です。 先週はここまでお話ししましたが、このことにはもう一つのことがかかわっています。それは、エペソ人への手紙1章20節〜23節に記されている御言葉に示されています。そこには、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されています。 今お話ししていることとのかかわりで注目したいのは、22節において、 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせた と言われていることです。これは、詩篇8篇5節、6節に、 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 と記されていることが、栄光のキリストにおいて成就していることを意味しています。 いっさいのものをキリストの足の下に従わせた と言われているときの「いっさいのもの」は、 万物を彼の足の下に置かれました。 と言われているときの「万物」と同じことを表しています。さらに、ここには「万物」(「いっさいのもの」)を「足の下に」置くというテーマがあって、それが父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストにおいて成就していることが示されています。 私たちの罪を贖ってくださるために人となって来てくださり、私たちの罪を負って十字架にかかって死んでくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストは、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命をも成就してくださったのです。 先ほどお話ししましたように、私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって終りの日のさばきを通って救い出され、新しい時代の歴史と文化を造る使命を委ねられています。しかし、それはゼロからのスタートではありません。すでに、栄光のキリストが歴史と文化を造る使命をその本来の姿で成就してくださっていることにあずかることによって、私たちは栄光のキリストの御霊に導かれて新しい時代の歴史と文化を造るように召されているのです。 天地創造の御業において、「地」をご自身のご臨在の場としてお造りになり、そこに御霊によってご臨在された御子は、そのご臨在の御許から語られた、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という祝福の御言葉をもって、神のかたちに造られた人を「地」の全面へとお遣わしになりました。 その御子が私たちの贖い主となって来てくださり、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされ、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座されたことによって、その歴史と文化を造る使命を成就してくださいました。その栄光のキリストが、ご自身が成し遂げてくださった贖いの御業に基づいて、再び祝福の御言葉をもって私たちを「全世界」に遣わしてくださっています。マタイの福音書28章18節〜20節には、 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 と記されています。 ここに記されているイエス・キリストの命令は一般に「大宣教命令」と呼ばれています。しかし、これは、これまでお話ししてきたことから分かりますように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、終りの日のさばきを通って救い出された主の契約の民に委ねられた新しい時代の歴史と文化を造る使命です。この意味で、いわゆる「大宣教命令」は、栄光のキリストが、ご自身の血によって確立された新しい契約の下で、歴史と文化を造る使命を更新してくださったものです。ですから、これは「大宣教命令」という一般的な呼び名が意味していることより広い意味合いをもっています。 このイエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて更新された歴史と文化を造る使命は、栄光のキリストご自身が、 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。 と約束してくださっているように、栄光のキリストが常に私たちの間に、御霊によってご臨在してくださって、私たちを御霊によって導いてくださることによって成し遂げられるものです。そして、終りの日には栄光のキリストご自身が再臨されて、すでに私たちをとおして実現してくださっている新しい時代の歴史と文化を完成してくださり、「新しい天と新しい地」を造り出してくださるのです。 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの第3の祈りは、父なる神さまが御子イエス・キリストによって、このすべてを私たちの間に実現し、完成に至らせてくださることを祈り求めるものです。 |
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