(第141回)


説教日:2008年3月9日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りは、基本的に、父なる神さまがご自身のみこころを「」で行ってくださることを祈り求めるものです。このように祈るときの「」は、無性格な場所ではありません。「」は神さまが天地創造の御業においてご自身のみこころにしたがって造り出されたものです。それで「」には、神さまのみこころに沿った意味があります。
 これまで、その意味について創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事から学んできました。
 天地創造の御業の記事全体の見出しに当たる1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と宣言されています。これは、この世界のすべてのもの、今日の言葉で言いますと、この壮大な大宇宙とその中にあるすべてのものは、神さまが「無から」造り出されたものであるということを宣言しています。
 これに続く2節からは創造の御業の記事の視点と関心を「」に移しています。2節前半には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と記されています。これは神さまが最初に造り出された状態の「」は「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示していると考えられます。
 2節ではこれに続いて、

 神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。「」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあった時に、すでに、神さまが御霊によってそこにご臨在しておられました。このことは、「」は「人の住みか」である前に、また「人の住みか」である以上に、神さまがご臨在される場であるということを意味しています。
 そして、3節以下では、この「」にご臨在しておられる神さまが、そのご臨在の御許から発せられる御言葉をもって、「」をご自身のご臨在の場にふさわしく整えてくださり、これを「人の住みか」としてくださったことが記されています。そのように整えられた「」には、愛と恵みといつくしみに満ちた神さまのご臨在を映し出すさまざまなしるしが満ちあふれるようになりました。
 このように、「」をご自身のご臨在の場として、また「人の住みか」としてふさわしく整えてくださったうえで、神さまは人をご自身のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。そのことが、1章26節〜28節に記されています。
 26節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と記されています。
 ここには、天地創造の御業の記事において最も大切な要素である神さまの創造の御言葉が記されています。ですから、ここには、創造の御業において人をお造りになったときの神さまの最も基本的なみこころが示されています。その意味で、ここには、人にとって本質的なことが示されているのです。
 そして、続く27節、28節には、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

というように、実際に、神さまがこのみこころに沿って人を神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが記されています。
 このように、人にとって本質的なことは、神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられているということです。神さまが人を神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったということを離れては、人がどのようなものであるかを考えることはできません。そして、神さまが人を神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったということのうちにこそ、人の尊厳性があります。
 これまで繰り返し引用してきました詩篇8篇においては、やはりこのこととの関連で人の尊厳性のことが述べられています。3節〜8節には、

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。
 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。
 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

と記されています。
 ここでは、まず、

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。

と言われています。このように言う詩篇の記者は、私たちが仰ぎ見ている「月や星」のある「」の壮大さを感じています。そして、それに比べて人はなんと小さな存在であることかということを、つくづくと感じています。しかし、それだけではないのです。それと同じ筆で、そのような「」でさえも神さまの「指のわざ」でしかないと述べています。その「」も、神さまご自身とは比べることさえできない、小さなものでしかないというのです。そのようにして、「」をお造りになった神さまの存在と栄光が限りないものであることが踏まえられています。神さまの存在と栄光が限りないものであることは、この詩篇8篇全体の主題でもあります。しかし、この部分では、確かに神さまの存在と栄光が限りないものであることは踏まえられているのですが、そのことがここで告白されていることの主眼ではありません。ここで告白されているのは、その無限の栄光の主であられる神さまが、この、神さま、天、人という比較の中で最も小さな存在である人を「心に留められ」、「顧みられる」ことへの驚きです。そこに人が人であることのすべてがあるのです。そして、神さまが人を心に留めてくださり、かえりみてくださっておられることの現れが、

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。
 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

ということであると告白されています。すなわち、神さまが人に神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命を委ねられたということです。神のかたちとして造られ、歴史と文化を造る使命を委ねられていることに、人の栄光と尊厳性の本質があるのです。


 人が神のかたちに造られていることと、人に歴史と文化を造る使命が委ねられていることは、切り離すことができません。先週もお話ししましたが、神のかたちに造られた人の本質は、自由な意志をもち、愛を本質的な特性とする人格的な存在として、本性的に造り主である神さまを知っていることにあります。神のかたちに造られた人は、造られたその時に、他から教えられなくても、造り主である神さまを知っていました。また、造り主である神さまのご臨在の御前に近づき、礼拝することを中心として、神さまとの愛にある交わりのうちに生きるようになりました。神のかたちに造られた人のいのちの本質は、この礼拝を中心とした神さまとの愛にある交わりにあります。また、人は、神のかたちに造られているものとして、愛を本質的な特性とする神さまを、この造られた世界において代表し、現すものです。
 そのような人が、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命にしたがって「」を満たし、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」していくなら、造り主である神さまへの礼拝と讃美が「」を満たし、「」において神さまの愛と恵みといつくしみが豊かに映し出され、あかしされていくはずです。それが、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たすことの本来の姿です。神さまは神のかたちに造られた人をとおして、この「」にそのような歴史と文化をお造りになろうとされたのです。
 このことは、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という主の祈りの第3の祈りと深くかかわっています。「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれ」るということは、神のかたちに造られた人が本来の姿における歴史と文化を造るようになることです。
 しかし、これも繰り返しになりますが、実際には、人は造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。そうであるからといって、人が神のかたちでなくなったのではありません。神さまが人を神のかたちにお造りになったという事実が消えるわけではありません。ただ、その神のかたちが罪によって腐敗してしまったのです。そのために、人は罪と死の力に捕らえられ、罪の自己中心性を現すようになってしまいました。それで、罪の自己中心性が堕落の後に人が造る歴史と文化を特徴づけるようになってしまいました。神さまはそのような歴史と文化をおさばきになります。神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、この歴史と文化を造る使命をめぐって神さまのさばきを受けることになります。
 このことは、ノアの時代に神さまが終末的なさばき、すなわち、それまでの歴史と文化を総決算されるさばきを執行されたことをとおして示されています。
 神さまはノアの時代にこれまでの歴史の中でただ1度だけ終末的なさばき、すなわち、それまでの歴史と文化をすべて清算してしまわれるさばきを執行されました。洪水前の世界の様子を記している6章11節、12節には、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。
 先ほどお話ししましたように、神のかたちに造られている人は、神さまを礼拝することを中心として神さまとの愛の交わりのうちに生きるものです。そして、そのようなものとして、愛を本質的な特性とする神さまを、この造られた世界において代表し、現すものです。そのような人が歴史と文化を造る使命にしたがって「」を満たし、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」していたなら、造り主である神さまへの礼拝と讃美が「」を満たし、「」において神さまの愛と恵みといつくしみが豊かに映し出され、あかしされていたはずです。それなのに、

 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。

と言われています。ここで、

 地は、神の前に堕落し・・・ていた。

と言われていますが、これは、

 地は、神の前に荒廃し・・・ていた。

と訳したほうがいいと思われます。もし、神のかたちに造られた人がその本来の姿において「」を満たし、「」を従わせていたなら、「」には愛と恵みといつくしみに満ちた神さまのご臨在の祝福が満ちていたはずです。「」はまことに豊かなものとなっていたはずです。それなのに、実際には、「」は荒廃してしまい、「暴虐」で満たされてしまったのです。
 形としては、神のかたちに造られた人が「」を満たし、「」を従えています。しかし、それは、人の罪のために歴史と文化を造る使命の本来の姿を全く失ったものとなってしまっています。このことのゆえに、神さまはそれまでの歴史と文化を完全に清算してしまう、終末的なさばきを執行されました。これに続く13節に、

そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。

と記されているとおりです。このことは、神さまの終末的なさばきが歴史と文化を造る使命をめぐるさばきであることを示しています。
 そればかりではありません。このノアの時代の終末的なさばきの執行は、もう一つ重大なことを示しています。
 ご存知のように、神さまはノアに恵みを示してくださり、ノアがそのさばきを通って救われるようにしてくださいました。ノアはさばきを経験しているのですが、神さまが備えてくださった救いの手段である箱舟によって、そのさばきの中を通って救われました。
 このことは、私たちが経験している救いを指し示すひな型となっています。神さまは私たちの罪に対するさばきを執行されました。しかし、そのさばきを私たちに代わって、御子イエス・キリストが十字架において負ってくださったのです。そのさばきは、私たちの罪を完全に清算するさばきでした。その意味で、そのさばきは終りの日におけるさばきとしての意味をもっています。それで、イエス・キリストの十字架の死にあずかっている私たちは、終末的なさばきを通って救われているのです。
 話をノアのことに戻しますと、洪水後のことを記している創世記9章1節、2節には、

それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、―― 地の上を動くすべてのもの―― それに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。

と記されています。
 言うまでもなく、これは、1節28節に記されていた、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

という歴史と文化を造る使命を洪水後において更新してくださったものです。
 このことが先ほど言いました、もう一つの重大なことを示しています。それは、神さまが備えてくださった救いにあずかって、終末的なさばきを通って救われた者たちに歴史と文化を造る使命が受け継がれ、彼らによって新しい歴史が造り出されるということです。
 ただし、この場合も、ノアとその家族はやがて来たるべき本体の地上的なひな型・模型ですから、ひな型としての限界があります。聖書を読み進めると分かりますが、その後の人類の歴史と文化は罪の自己中心性をむき出しにする方向に向かって進んでしまいます。けれども、創世記11章1節〜9節に記されているバベルでの出来事に示されていますように、神さまのさばきによる介入によって、その罪の徹底化の流れは断ち切られました。それによって、洪水前のノアの時代のように人が罪の升目を満たして、終末的なさばきを招くことがないようにしてくださったのです。そのような備えは、神さまの一般恩恵によるものです。それは、罪の贖いが実現していない時代において歴史を保ってくださるために神さまが講じてくださった、いわば、暫定的な手段でした。(この点は先週「最初の福音」との関連でお話ししました。)
 いずれにしましても、ノアの時代に執行された終末的なさばきは、やがて来たるべきことのひな型としての意味をもっています。そして、それは、神さまが備えてくださった救いにあずかって、終末的なさばきを通って救われた者たちに歴史と文化を造る使命が受け継がれ、彼らによって新しい歴史が造り出されるということを示しています。
 このことは、私たちにおいて現実となっています。私たちはイエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっています。それによって、私たちは終りの日におけるさばきを通って救われています。イエス・キリストの十字架の死にあずかって、これまでに犯した罪だけでなく、これから犯すであろう罪も含めて、すべての罪を完全に清算していただいています。そればかりではありません。私たちはイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、栄光のキリストと一つに結び合わされています。そして、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、礼拝を中心とする神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとしていただいています。私たちが今ここで、御霊に導いていただき、イエス・キリストの御名によって、父なる神さまを礼拝しているのはそのことの現れです。
 このようにして、私たちは神さまを礼拝することを中心とした、新しい歴史と文化を造る使命を負っています。そして、そのことを導いてくださるのは、父なる神さまの右の座に着座されて、私たちを御霊によって導いてくださる栄光のキリストです。主の契約の民はすでに、ペンテコステの日以来、今日に至るまで2千年の間、御霊のお働きにあずかって新しい時代の歴史と文化、終りの日のさばきを通って救われた者たちによって造られる歴史と文化を造ってきました。この歴史と文化は終りの日のさばきによって焼き尽くされることはありません。なぜなら、それは終りの日のさばきを通って救われた者たちが、御霊のお働きによって造り出すものであるからです。このことを念頭において、コリント人への手紙第1・3章10節〜15節を見てみましょう。そこには、

与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。

と記されています。
 ここでは、この手紙の読者であるコリントの聖徒たちの共同体を建物にたとえています。そして、福音の御言葉をもってその主の民の契約共同体としての建物を建てることが語られています。そして、どのような契約共同体が形造られたかが、終りの日のさばきの火によって試されるけれども、なお残るものがあると言われています。これまでお話ししてきましたように、その契約共同体において歴史と文化を造る使命が継承されています。それで、派生的にですが、そのことにおいても終りの日のさばきの火によって試されてもなお残るものがあると考えられます。このようにして、イエス・キリストの十字架の死にあずかることにおいて終末的なさばきを通って救われた者たちの契約共同体と、その契約共同体が継承した歴史と文化を造る使命を遂行することによって生み出された歴史と文化終りの日のさばきの火によって試されてもなお残ります。それは終りの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされる「新しい天と新しい地」につながる歴史と文化であり、終りの日に完成します。

 


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