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説教日:2008年3月9日 |
人が神のかたちに造られていることと、人に歴史と文化を造る使命が委ねられていることは、切り離すことができません。先週もお話ししましたが、神のかたちに造られた人の本質は、自由な意志をもち、愛を本質的な特性とする人格的な存在として、本性的に造り主である神さまを知っていることにあります。神のかたちに造られた人は、造られたその時に、他から教えられなくても、造り主である神さまを知っていました。また、造り主である神さまのご臨在の御前に近づき、礼拝することを中心として、神さまとの愛にある交わりのうちに生きるようになりました。神のかたちに造られた人のいのちの本質は、この礼拝を中心とした神さまとの愛にある交わりにあります。また、人は、神のかたちに造られているものとして、愛を本質的な特性とする神さまを、この造られた世界において代表し、現すものです。 そのような人が、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という歴史と文化を造る使命にしたがって「地」を満たし、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」していくなら、造り主である神さまへの礼拝と讃美が「地」を満たし、「地」において神さまの愛と恵みといつくしみが豊かに映し出され、あかしされていくはずです。それが、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造る使命を果たすことの本来の姿です。神さまは神のかたちに造られた人をとおして、この「地」にそのような歴史と文化をお造りになろうとされたのです。 このことは、 みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。 という主の祈りの第3の祈りと深くかかわっています。「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれ」るということは、神のかたちに造られた人が本来の姿における歴史と文化を造るようになることです。 しかし、これも繰り返しになりますが、実際には、人は造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。そうであるからといって、人が神のかたちでなくなったのではありません。神さまが人を神のかたちにお造りになったという事実が消えるわけではありません。ただ、その神のかたちが罪によって腐敗してしまったのです。そのために、人は罪と死の力に捕らえられ、罪の自己中心性を現すようになってしまいました。それで、罪の自己中心性が堕落の後に人が造る歴史と文化を特徴づけるようになってしまいました。神さまはそのような歴史と文化をおさばきになります。神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられている人は、この歴史と文化を造る使命をめぐって神さまのさばきを受けることになります。 このことは、ノアの時代に神さまが終末的なさばき、すなわち、それまでの歴史と文化を総決算されるさばきを執行されたことをとおして示されています。 神さまはノアの時代にこれまでの歴史の中でただ1度だけ終末的なさばき、すなわち、それまでの歴史と文化をすべて清算してしまわれるさばきを執行されました。洪水前の世界の様子を記している6章11節、12節には、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。 と記されています。 先ほどお話ししましたように、神のかたちに造られている人は、神さまを礼拝することを中心として神さまとの愛の交わりのうちに生きるものです。そして、そのようなものとして、愛を本質的な特性とする神さまを、この造られた世界において代表し、現すものです。そのような人が歴史と文化を造る使命にしたがって「地」を満たし、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配」していたなら、造り主である神さまへの礼拝と讃美が「地」を満たし、「地」において神さまの愛と恵みといつくしみが豊かに映し出され、あかしされていたはずです。それなのに、 地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。 と言われています。ここで、 地は、神の前に堕落し・・・ていた。 と言われていますが、これは、 地は、神の前に荒廃し・・・ていた。 と訳したほうがいいと思われます。もし、神のかたちに造られた人がその本来の姿において「地」を満たし、「地」を従わせていたなら、「地」には愛と恵みといつくしみに満ちた神さまのご臨在の祝福が満ちていたはずです。「地」はまことに豊かなものとなっていたはずです。それなのに、実際には、「地」は荒廃してしまい、「暴虐」で満たされてしまったのです。 形としては、神のかたちに造られた人が「地」を満たし、「地」を従えています。しかし、それは、人の罪のために歴史と文化を造る使命の本来の姿を全く失ったものとなってしまっています。このことのゆえに、神さまはそれまでの歴史と文化を完全に清算してしまう、終末的なさばきを執行されました。これに続く13節に、 そこで、神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。 と記されているとおりです。このことは、神さまの終末的なさばきが歴史と文化を造る使命をめぐるさばきであることを示しています。 そればかりではありません。このノアの時代の終末的なさばきの執行は、もう一つ重大なことを示しています。 ご存知のように、神さまはノアに恵みを示してくださり、ノアがそのさばきを通って救われるようにしてくださいました。ノアはさばきを経験しているのですが、神さまが備えてくださった救いの手段である箱舟によって、そのさばきの中を通って救われました。 このことは、私たちが経験している救いを指し示すひな型となっています。神さまは私たちの罪に対するさばきを執行されました。しかし、そのさばきを私たちに代わって、御子イエス・キリストが十字架において負ってくださったのです。そのさばきは、私たちの罪を完全に清算するさばきでした。その意味で、そのさばきは終りの日におけるさばきとしての意味をもっています。それで、イエス・キリストの十字架の死にあずかっている私たちは、終末的なさばきを通って救われているのです。 話をノアのことに戻しますと、洪水後のことを記している創世記9章1節、2節には、 それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ。野の獣、空の鳥、 と記されています。 言うまでもなく、これは、1節28節に記されていた、 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 という歴史と文化を造る使命を洪水後において更新してくださったものです。 このことが先ほど言いました、もう一つの重大なことを示しています。それは、神さまが備えてくださった救いにあずかって、終末的なさばきを通って救われた者たちに歴史と文化を造る使命が受け継がれ、彼らによって新しい歴史が造り出されるということです。 ただし、この場合も、ノアとその家族はやがて来たるべき本体の地上的なひな型・模型ですから、ひな型としての限界があります。聖書を読み進めると分かりますが、その後の人類の歴史と文化は罪の自己中心性をむき出しにする方向に向かって進んでしまいます。けれども、創世記11章1節〜9節に記されているバベルでの出来事に示されていますように、神さまのさばきによる介入によって、その罪の徹底化の流れは断ち切られました。それによって、洪水前のノアの時代のように人が罪の升目を満たして、終末的なさばきを招くことがないようにしてくださったのです。そのような備えは、神さまの一般恩恵によるものです。それは、罪の贖いが実現していない時代において歴史を保ってくださるために神さまが講じてくださった、いわば、暫定的な手段でした。(この点は先週「最初の福音」との関連でお話ししました。) いずれにしましても、ノアの時代に執行された終末的なさばきは、やがて来たるべきことのひな型としての意味をもっています。そして、それは、神さまが備えてくださった救いにあずかって、終末的なさばきを通って救われた者たちに歴史と文化を造る使命が受け継がれ、彼らによって新しい歴史が造り出されるということを示しています。 このことは、私たちにおいて現実となっています。私たちはイエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっています。それによって、私たちは終りの日におけるさばきを通って救われています。イエス・キリストの十字架の死にあずかって、これまでに犯した罪だけでなく、これから犯すであろう罪も含めて、すべての罪を完全に清算していただいています。そればかりではありません。私たちはイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、栄光のキリストと一つに結び合わされています。そして、イエス・キリストの復活のいのちによって新しく生まれ、礼拝を中心とする神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとしていただいています。私たちが今ここで、御霊に導いていただき、イエス・キリストの御名によって、父なる神さまを礼拝しているのはそのことの現れです。 このようにして、私たちは神さまを礼拝することを中心とした、新しい歴史と文化を造る使命を負っています。そして、そのことを導いてくださるのは、父なる神さまの右の座に着座されて、私たちを御霊によって導いてくださる栄光のキリストです。主の契約の民はすでに、ペンテコステの日以来、今日に至るまで2千年の間、御霊のお働きにあずかって新しい時代の歴史と文化、終りの日のさばきを通って救われた者たちによって造られる歴史と文化を造ってきました。この歴史と文化は終りの日のさばきによって焼き尽くされることはありません。なぜなら、それは終りの日のさばきを通って救われた者たちが、御霊のお働きによって造り出すものであるからです。このことを念頭において、コリント人への手紙第1・3章10節〜15節を見てみましょう。そこには、 与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。 と記されています。 ここでは、この手紙の読者であるコリントの聖徒たちの共同体を建物にたとえています。そして、福音の御言葉をもってその主の民の契約共同体としての建物を建てることが語られています。そして、どのような契約共同体が形造られたかが、終りの日のさばきの火によって試されるけれども、なお残るものがあると言われています。これまでお話ししてきましたように、その契約共同体において歴史と文化を造る使命が継承されています。それで、派生的にですが、そのことにおいても終りの日のさばきの火によって試されてもなお残るものがあると考えられます。このようにして、イエス・キリストの十字架の死にあずかることにおいて終末的なさばきを通って救われた者たちの契約共同体と、その契約共同体が継承した歴史と文化を造る使命を遂行することによって生み出された歴史と文化終りの日のさばきの火によって試されてもなお残ります。それは終りの日に再臨される栄光のキリストによってもたらされる「新しい天と新しい地」につながる歴史と文化であり、終りの日に完成します。 |
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