(第140回)


説教日:2008年3月2日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りは、基本的に、父なる神さまがご自身のみこころを「」で行ってくださることを祈り求めるものです。この「」は、神さまが天地創造の御業によって造り出されたものです。神さまはこの「」をご自身のみこころにしたがってお造りになりました。「」は単なる場所ではなく、これをお造りになった神さまのみこころに沿った意味があります。それで、これまで、この「」に関する父なる神さまのみこころについてお話ししてきました。
 今日は、先週お話ししたことを補足するお話をしたいと思います。


 創世記1章1節〜2章3節に記されている天地創造の御業の記事においては、まず、その記事の見出しに当たる1章1節において、

 初めに、神が天と地を創造した。

と宣言されています。今日の言葉で言いますと、この壮大な大宇宙とその中にあるすべてのものは、神さまが「無から」造り出されたものであるということです。
 これに続く2節からは創造の御業の記事の視点と関心が「」に移っています。そして、2節前半には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と記されています。これは神さまが最初に造り出された時の「」は、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示していると考えられます。
 2節ではこれに続いて、

 神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。「」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあった時に、すでに、神さまが御霊によってそこにご臨在しておられたことが示されています。このことは、「」は「人の住みか」である前に、また「人の住みか」である以上に、神さまがご臨在される場であるということを意味しています。
 そして、3節以下では、神さまがこの「」をご自身のご臨在の場にふさわしく整えてくださり、これを「人の住みか」としてくださったことが記されています。そこに記されている神さまの御業の結果、「」は愛と恵みといつくしみに満ちた神さまのご臨在を映し出すさまざまなしるしが満ちあふれている所となりました詩篇33篇5節には、

 地は主の恵みに満ちている。

と記されています。同様に、119篇64節にも、

 主よ。地はあなたの恵みに満ちています。

と記されています。
 神さまは「」をご自身のご臨在の場として、また「人の住みか」としてふさわしく整えてくださった後で、人を神のかたちにお造りになり、歴史と文化を造る使命を委ねてくださいました。26節〜28節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 ここでは、神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったと記されています。もちろん、これは人についてのすべてのことを述べているのではなく、本質的なことを述べています。神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられているということは、人であることの本質に属することです。神さまが人がこのようなものとしてお造りになったということは、人とは本来このようなものであるということを意味しています。このことを離れては、人がどのようなものであるかを考えることはできません。
 神のかたちに造られた人の本質は、本性的に造り主である神さまを知っており、自由な意志をもっている、愛を本質的な特性とする人格的な存在であることにあります。人は神のかたちに造られたその時から、他から教えられなくても、造り主である神さまを知っていました。また、造り主である神さまのご臨在の御前に近づき、礼拝することを中心として、神さまとの愛にある交わりのうちに生きるものでした。神のかたちに造られた人のいのちの本質は、この礼拝を中心とした神さまとの愛にある交わりにあります。
 また、人は、神のかたちに造られているものとして、愛を本質的な特性とする神さまを、この造られた世界において代表し、現すものです。そして、神さまのご臨在とそれに伴うさまざまな祝福に満ちたこの「」に住むものとして、歴史と文化を造るように召されています。
 この「」には造り主である神さまのご臨在とそれに伴うさまざまな祝福が満ちています。そして、「」にあるすべてのものは、神のかたちに造られた人はもちろんのこと、さまざまな植物も生き物も、「」にご臨在してくださっている神さまの御手によって支えられ、神さまのご臨在に伴うさまざまな祝福にあずかっています。これまで繰り返しお話ししてきましたように、神のかたちに造られた人は歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、具体的に造り主である神さまの愛と恵みといつくしみの現れに触れ、それをより深く知るようになります。

 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。

という使命を果たすとき、人は神さまが大気圏を創造してくださり、「」が適度に乾き、必要に応じて雨で潤されるようになっていること、海と陸を区別してくださって、「」にさまざまな植物が生い茂るようにしてくださっていることを知ります。また、「」に豊富な資源を備えてくださっていることにも触れていきます。また、

海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を果たすとき、神さまがどんなに多くの生き物たちをお造りになり、それを真実な御手をもって養ってくださっておられるかを知るようになります。また、一つ一つの生き物の存在に造り主である神さまの知恵が現れており、その生態に愛と恵みといつくしみが注がれていることが現れていることを汲み取るようになります。それで、歴史と文化を造る使命を果たすことは感謝と讃美をもって造り主である神さまを礼拝することに至ります。また、神さまを礼拝することを離れて歴史と文化を造る使命を果たすことはできません。
 しかし、実際には、神のかたちに造られた人は造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまいました。それによって、人が神のかたちでなくなったのではありませんし、神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命が取り消されたのでもありません。神さまが人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださった以上、人は神のかたちであることには変わりがありませんし、歴史と文化を造る使命を委ねられていることにも変わりがありません。ただ、その神のかたちとしての本性が腐敗し、神のかたちとしての栄光と尊厳性は損なわれてしまったのです。これによって、人は罪と死の力に捕らえられてしまいました。人が造り主である神さまを神として礼拝することがなくなってしまっただけではありません。神さまが人をご自身のご臨在の御前から退けられ、聖なる御怒りの下に置かれたのです。
 このような状況において、神さまはいつでもご自身に対して罪を犯し、御前に堕落してしまった人をおさばきになることがおできになります。そうではあっても、神さまは一般恩恵による御霊のお働きによって、神のかたちに造られた人が完全に堕落し、腐敗しきってしまうことがないようにしてくださっています。それは、先週お話ししましたように、創世記3章15節に記されている、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

という「最初の福音」に示された神である主のみこころに基づいています。
 これは「おまえ」と呼ばれている「」の背後にあって働いていて、人を罪へと誘ったサタンへのさばきの宣言です。この時、神である主が直接的に、最終的なさばきを執行されたなら、罪によってサタンと一体になっている人もさばきを受けて滅ぼされることになります。そうなっていたら、歴史はそこで終わっていたはずです。
 しかし、神である主は「女の子孫」のかしらとして来られる贖い主をとおしてサタンに対する最終的なさばきを執行されることを宣言されました。これによって、人の罪に対する最終的なさばきの執行は、「女の子孫」のかしらであられる贖い主が来られて、ご自身の民のために贖いの御業を遂行され、さらに、サタンとその霊的な子孫に対するさばきを執行される時まで延ばされました。
 このようにして、人類の歴史が終わりの日のさばきの時まで続くようになりました。このような状況において、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった人が歴史と文化を造ることを支えているのが、神さまの一般恩恵に基づく御霊のお働きです。これによって、人は神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられているものとして、罪による堕落の後にも、歴史を造り文化を造ります。ただ、罪によって堕落してしまった人は、自分たちの活動が神さまの一般恩恵に基づく御霊のお働きによって支えられていることを認めようとはしません。当然のことながら、それによって造り出される歴史と文化が造り主である神さまを礼拝することを中心とするものではなくなってしまいました。むしろ、人は人を罪へと誘ったサタンの特質を表わす歴史と文化を造るようになってしまったのです。サタンは優れた御使いとして造られながら、造り主である神さまに対して高ぶり、罪を犯して御前に堕落したものです。
 ここで大切なことは、神さまの最終的なさばきの執行が引き延ばされたのは、約束の贖い主によってご自身の民のための贖いの御業が成し遂げられるようになるためのことであったということです。もし主の民のための贖いの御業が成し遂げられることがないのであれば、人間の罪に対する最終的なさばきの執行が延ばされることも、一般恩恵に基づく御霊のお働きによって人間の文化的な活動が支えられ、歴史が存続するということもなかったと考えられます。このことを神さまの恵みを中心にして見ますと、一般恩恵は特殊恩恵のためにあるということになります。
 実際に、人類の歴史が存続され続いている間に、父なる神さまはご自身の御子を「女の子孫」のかしらとして立ててくださいました。また、御子イエス・キリストは真の人となって来てくださり、私たちご自身の民の罪の罪責を負って十字架にかかって死んでくださいました。これによって、ご自身の民の罪を完全に贖ってくださいました。ですから、人類の歴史はいたずらに保たれ、引き延ばされているのではありません。
 このように、人類の歴史は終わりの日のさばきの時まで続くようになりました。その時まで、「女の子孫」と「おまえの子孫」と呼ばれているサタンの霊的な子孫が、見かけは同じに見えても、神さまとの関係において全く違う特性をもった歴史と文化を造ることになりました。そのことは、前にも取り上げたことがありますが、マタイの福音書24章40節、41節に記されている、

そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

という、終りの日のさばきに関するイエス・キリストの教えから汲み取ることができます。
 ここでは、畑を耕し、種を蒔き、作物の手入れをして、収穫するという活動、また、収穫したものを臼で挽くという活動が取り上げられています。これらは神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられている人がなす文化的な活動です。そして、ここに出てくる「ふたり」の男は全く同じ状況にあり、同じ働きをしています。見たところの区別はありません。どちらかが悪いことをしているというようなことはありません。けれども、その日には「ひとりは取られ、ひとりは残されます」と言われています。ひとりは取られて神の御国の祝福に入り、ひとりは残されてさばきを受けることになるということです。この点に関しては、さばきのために取られ、残されて御国の祝福に入るという見方もありますが、おそらく、御国の祝福に入るために取られ、さばきを受けるために残されるということだと考えられます。このことは「ふたりの女」にもそのまま当てはまります。
 この二人の違いがどこにあるかということは、マタイの福音書24章の文脈からは、続く42節〜44節に、

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

というイエス・キリストの戒めが記されていることから推測できます。ひとりは終りの日を見据えて、その備えをして生きており、もうひとりは終りの日のことを心にも留めず、それに対する備えをしていないことにあるということになります。それは、これまでお話ししてきたことを当てはめて言いますと、ひとりは神さまが遣わしてくださった贖い主と贖い主がご自身の十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いを信じて、罪と死の力、また、暗やみの主権者の支配の下から贖い出されているということです。これに対して、もうひとりは自分がそのような贖いを必要としていることを認めないし、父なる神さまが遣わしてくださった贖い主も、またその御業も受け入れることはしないということです。
 この違いはこれだけでは終わりません。人が、神さまが遣わしてくださった贖い主と贖い主がご自身の十字架の死によって成し遂げてくださった罪の贖いを信じているなら、その人は罪と死の力、また、暗やみの主権者の支配の下から贖い出されています。そればかりではありません、それらのことは、その人が神さまの聖なる御怒りによるさばきから救出されたという、いわば、消極的なことです。御子イエス・キリストの贖いの御業に基づく救いには積極的な面があります。その人は神さまとの本来の関係に導き入れられています。父なる神さまが遣わしてくださった贖い主を信じる信仰によって義と認められ、神の子どもとしての身分を与えられ、神さまのご臨在の御前に近づき、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとされています。そして、その人自身が御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊によって、栄光のキリストに似た者として造り変えられています。
 このように、御子イエス・キリストを父なる神さまが遣わしてくださった贖い主として信じ、イエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかっている人は、神さまとの本来の関係を回復していただき、神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとなっています。そのような神の子どもたちを、先ほどのイエス・キリストの教えに当てはめるとどうなるでしょうか。畑での働きや臼をひくことができるのは、造り主である神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた御手のお支えによることです。神の子どもたちはそのことを認めて、神さまへの感謝と讃美のうちにその働きをなすようになります。そのようにして、神のかたちに造られた人に委ねられている歴史と文化を造る使命に対する責任を果たしていくのです。
 これに対して、父なる神さまが遣わしてくださった贖い主を信じようとしない人は、全く同じ働きをしていながら、そのゆえに、造り主である神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた御手のお支えにあずかっていながら、そのことを認めることもしないし、神さまへの感謝や讃美をすることもありません。見た目には神の子どもたちと全く同じことをしていても、神さまとの関係においては、全く違う特性をもった働きをしているのです。
 このように、人は神のかたちに造られており、歴史と文化を造る使命を委ねられています。神のかたちに造られたものとして、歴史と文化を造る使命を果たす責任を造り主である神さまに対して負っています。このことは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまった後にも変わっていません。それで、造り主である神さまは、今の歴史の終わりにおいて、そのことについてのさばきを執行されます。世の終わりにおけるさばきは、人が神のかたちに造られていることと歴史と文化を造る使命を委ねられていることに基づいて、その責任を問うものです。
 この点において誤解があってはいけませんので、一つのことを再確認しておきたいと思います。私たちはただ神さまの恵みのゆえに、また、イエス・キリストとイエス・キリストが十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業を信じる信仰によって、義と認められ、救われています。決して、私たちが救われた後になした働きによって義と認められるのではありません。
 これまでお話ししてきたことに合わせて言いますと、私たちは、畑で働いたり臼をひくこと、私たちの状況では、会社や家庭で働いたり、学校で学ぶことができるのは、造り主である神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた御手のお支えによることを認めて、神さまへの感謝と讃美のうちにその働きをなすようになります。そのようにして、神さまを礼拝することを中心として、神のかたちに造られた人に委ねられている歴史と文化を造る使命に対する責任を果たしていきます。しかし、私たちがそのようにするから義と認められ、救われるのではありません。
 私たち自身は神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったものでした。そのゆえに、神さまの聖なる御怒りによるさばきに服すべきものでした。それなのに、神さまは御子イエス・キリストを私たちの贖い主としてくださり、その十字架において私たちの罪へのさばきを執行してくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。そのように、私たちの罪に対する最終的なさばきはイエス・キリストの十字架においてすでに終わっています。私たちはそのことのゆえに救われているのです。私たちはそのようにして神さまのさばきから救われ、栄光のキリストの復活のいのちによって生かされているものとして、神さまを礼拝することを中心として歴史と文化を造る使命を果たしていきます。決してその逆ではありません。私たちが神さまを礼拝することを中心として歴史と文化を造る使命を果たしているから義と認められ、救われるのではなく、イエス・キリストの贖いの恵みによってすでに義とされ、救われている者として、神さまを礼拝することを中心として歴史と文化を造る使命を果たしていくのです。この順序を見失うことがないように、くれぐれも注意したいと思います。

 


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