(第139回)


説教日:2008年2月24日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 これまで、主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りについてお話ししてきました。この祈りの中心主題である父なる神さまのみこころには、私たち主の契約の民に関するみこころと、被造物全体にかかわるみこころという二つの中心があります。それで、まず、私たち主の契約の民にかかわるみこころをお話しした後、被造物全体にかかわるみこころについてお話ししてきました。そして、ここ数週間は、特に、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈るときの、「」に関する父なる神さまのみこころについてお話ししてきました。今日は、そのお話を復習しながら、さらにお話を進めていきたいと思います。


 創世記1章1節〜2章3節には神さまの天地創造の御業の記事が記されています。その記事の見出しに当たる1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。この「天と地」はヘブル語の慣用句で「この世界のすべてのもの」を表しています。今日の言葉で言えば、壮大な大宇宙とその中にあるすべてのもののことです。1章1節の御言葉は、このすべてのものには「初め」があるということ、そして、それは神さまの創造の御業によっているということを宣言しています。すべては、神さまが「無から」造り出されたものであるということです。
 続く2節は「さて、地は」という形で始まっていて、創造の御業の記事の視点と関心が「」に移っていることを示しています。そして、2節前半には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と記されています。これは神さまが最初に造り出された時の「」の状態を示しています。

 地は形がなく、何もなかった。

という御言葉は、イザヤ書45章18節に記されている御言葉とのかかわりから、この時の「」は、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示していると考えられます。これに続く、

 やみが大いなる水の上にあった。

という御言葉も同じことを表していると考えられます。
 しかし、2節ではこれに続いて、

 神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。「」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあった時に、すでに、神さまが御霊によってそこにご臨在しておられたのです。このことは、「」は「人の住みか」である前に、また「人の住みか」である以上に、神さまがご臨在される場であるということを意味しています。
 そして、3節に、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と記されていますように、神さまはそのご臨在の御許から発せられた、

 光よ。あれ。

という御言葉をもって「」に光があるようにしてくださったことを初めとして、この「」をご自身のご臨在の場にふさわしく整えてくださり、これを「人の住みか」としてくださいました。
 また、神さまは、この「」をご自身のご臨在の場にふさわしく整えてくださり、これを「人の住みか」としてくださるために、壮大な宇宙に存在する天体をも用いておられます。14節、15節には、

ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。

と記されています。神さまは天体が「」との関係において果たす役割をも定めておられます。それは、「昼と夜とを区別」し、「しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立」ち、「地上を照ら」すということです。言うまでもなく、それらの天体を造ってから、その役割を定められたということではなく、初めから、それらの天体を、「」との関係において、そのような役割を果たすものとしてお造りになったということです。
 実際に、人は「」とそこにある天体を仰いで、造り主である神さまの無限の知恵と御力の現れを見ます。そして、自らの存在の小さなことを悟ります。
 このように、「」には愛と恵みといつくしみに満ちた神さまのご臨在を映し出すさまざまなしるしが満ちあふれています。光によってもたらされる明るさと暖かさ、神さまが整えられた大気の透明さと、適度の乾燥と「」が乾き過ぎないようにと時に応じて降り注ぐ雨とさわやかに吹く風。しかも、これらは単調なものではなく、4季の移り変わりとともに変化を見せています。これらの環境に支えられて生い茂る植物の多様さ。その間に生きる実に多様な生き物たちの生息。その驚くべき多様性を大きく包んでいる調和と自然の循環。すべては造り主にして、無限の知恵と御力に満ちた神さまの愛と恵みといつくしみのご臨在をあかしするものです。私たちはこのように造り主である神さまのご臨在とそれに伴うさまざまな祝福に満ちた世界に住んでいます。ですから、使徒の働き17章27節、28節に記されていますように、パウロは、

これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

とあかしすることができました。
 創世記1章27節、28節には、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 このように、人は神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられています。そして、そのようなものとして、神さまのご臨在とそれに伴うさまざまな祝福に満ちたこの「」に住んでいます。それで、人はこの「」において造り主である神さまのご臨在の御前に近づき、神さまを造り主として礼拝いたします。そして、この礼拝を中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものです。
 この「」には造り主である神さまのご臨在とそれに伴うさまざまな祝福が満ちあふれています。そして、「」にあるものは、さまざまな植物も生き物も、その恩恵にあずかっています。けれども、そのことを知っているのは神のかたちに造られた人だけです。ですから、神のかたちに造られた人が自分に与えられている能力を傾けて、神さまの愛と恵みといつくしみを知り、感謝と讃美をもって造り主である神さまを礼拝することは、造られたすべてのものにとって大きな意味をもっています。これまで繰り返しお話ししてきましたように、神のかたちに造られた人は、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という歴史と文化を造る使命を果たすことの中で、造り主である神さまの愛と恵みといつくしみの現れをより深く知るようになります。それで、歴史と文化を造る使命を果たすことは感謝と讃美をもって造り主である神さまを礼拝することに至ります。また、神さまを礼拝することを離れて歴史と文化を造る使命を果たすことはできません。
 しかし、実際には、神のかたちに造られた人は造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまったことによって、造り主である神さまを神として礼拝することがなくなってしまいました。また、この造られた世界も、神のかたちに造られた人との一体性において、虚無に服するようになったと言われています。ローマ人への手紙8章19節〜22節には、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と記されています。
 そうではあっても、神さまは一般恩恵による御霊のお働きによって、神のかたちに造られた人が完全に堕落し、腐敗しきってしまうことがないようにしてくださっています。また、被造物が完全に「虚無に服し」てしまうようなことがないように保ってくださっています。それで、「」にはなおも愛と恵みといつくしみに満ちた神さまのご臨在を映し出すさまざまなしるしが満ちています。そして、神のかたちに造られた人はそれに接しており、それによって支えられています。しかし、それにもかかわらず、罪によって造り主である神さまの御前から堕落してしまった人は、それが造り主である神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご臨在の現れであることを認めようとはしませんし、造り主である神さまを神として礼拝することもありません。
 このように、人が造り主である神さまに対して御前に堕落してしまったとしても、人が神のかたちに造られていることには変わりがありませんし、歴史と文化を造る使命を委ねられていることにも変わりがありません。そのことは、少し前に取り上げたことがありますが、詩篇8篇3節〜8節に記されている御言葉に示されています。そこには、

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。
 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。
 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

と記されています。

 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。

と言われていることは、先ほど触れましたが、神さまが天体に「」との関係において役割をお与えになっていることとかかわっています。神のかたちに造られた人は「」からの視点からそれを仰ぎ見て、それらをお造りになった神さまとその知恵と御力の偉大さ、自らの存在の小ささを実感しています。
 先ほど引用しました創世記1章27節、28節に記されている御言葉には、神さまが天地創造の御業によって人を神のかたちにお造りになって、歴史と文化を造る使命を委ねてくださったことが記されていました。それは、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまう前のことです。人は神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった時に、罪と死の力に捕らえられ、聖なる神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご臨在の御前から退けられてしまいました。
 しかし、この詩篇8篇5節〜8節に記されている

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。
 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、
 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

という御言葉は、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後にも、神のかたちに造られていることと歴史と文化を造る使命を委ねられていることには変わりがないことを示しています。これまでお話ししてきたこととのかかわりで言いますと、人は神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられているものとして、なおも愛と恵みといつくしみに満ちた神さまのご臨在を映し出すさまざまなしるしが満ちている「」において、神さまの愛と恵みといつくしみのしるしを探り求め、感謝と讃美をもって造り主である神さまを礼拝することにを中心とする歴史と文化を造る使命を果たす責任を負っているということです。
 すべての人が例外なく神のかたちに造られています。そのゆえに、すべての人が例外なく歴史と文化を造る使命を果たす責任を造り主である神さまに対して負っています。そして、造り主である神さまは、世の終わり、すなわち、歴史の終わりにおいて、そのことについてのさばきを執行されます。世の終わりにおけるさばきは、人が神のかたちに造られていることと、歴史と文化を造る使命を委ねられていることに基づいて、その責任を問うものとしての意味をもっています。このことは、神さまが創造の御業において人をそのようなものとしてお造りになったことに基づいていることであり、人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落したからといって変わってしまうことはありません。神のかたちに造られた人が神さまに対して罪を犯して御前に堕落した後には、造り主である神さまの栄光を映し出す歴史と文化を造ったのか、それとも、罪によってサタンをかしらとする暗やみの主権者たちの特性を映し出す歴史を造ったのかが問われることになります。このことは、あまり注目されていませんが、とても大切なことです。
 私たちはこのような造り主である神さまのみこころを中心にして自分のことを理解しようとしないために、罪といえば道徳的な罪のことしか考えない傾向があります。目の前にある1本の花を見てその成り立ちのすばらしさや美しさに感動することは、文化的な活動の第1歩のようなことです。その花は神さまがお造りになったものであり、美しく装わせてくださっているものです。しかし、その花を見てその美しさに打たれている人が、神さまがその花をお造りになったことを認めないとしたら、それはその人の罪です。道徳的な罪ではありませんが、造り主である神さまを神としない罪です。
 このこととの関連で一つのことに注意しておきたいと思います。神さまの御言葉は、父なる神さまが世の終わりのさばきを栄光のキリストに委ねられたことをあかししています。たとえば、ヨハネの福音書5章27節には、

また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。

というイエス・キリストの教えが記されています。世の終わりのさばきが栄光のキリストに委ねられたことの意味については、いろいろな機会にお話ししてきましたので、結論だけを記しますと、これは最初の人が「」の背後にあって働いていたサタンに欺かれて罪を犯してしまった直後に、神である主が示してくださった「最初の福音」と関連しています。「最初の福音」は創世記3章15節に、

 わたしは、おまえと女との間に、
 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
 敵意を置く。
 彼は、おまえの頭を踏み砕き、
 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と記されています。これは「おまえ」と呼ばれている「」へのさばきの宣言です。神である主はサタンが用いた「」をお用いになって、サタンへのさばきを宣言しておられます。この時、神である主が直接的に、最終的なさばきを執行されたなら、罪によってサタンと一体になっている人もさばきを受けて滅ぼされることになります。しかし、神である主は「」と呼ばれている「女の子孫」のかしらとして来られる方をとおしてサタンに対する最終的なさばきを執行されることを宣言されました。これによって、最終的なさばきの執行、すなわち、世の終わりは、「女の子孫」のかしらなる方が来られて贖いの御業を遂行され、さばきを執行される時まで延ばされたのです。その時まで、「女の子孫」と「おまえの子孫」と呼ばれているサタンの霊的な子孫が、見かけは同じに見えても、神さまとの関係において全く違う特性をもった歴史と文化を造ることになります。その歴史と文化は今日に至るまで続いてきており、終りの日まで続きます。
 その間に、父なる神さまはご自身の御子を「女の子孫」のかしら、約束の贖い主として遣わしてくださり、その十字架の死によって、「女の子孫」たちの罪を完全に贖ってくださいました。その十字架において起こったことは、人の目に見える現象としては、ユダヤの当局者のねたみによって引き渡された御子イエス・キリストがローマの兵士たちによって十字架につけられたということです。これは、

 おまえは、彼のかかとにかみつく。

と宣言されていたことの実現でした。しかし、その奥で起こっていたのは、世の終わりのさばきの執行でした。ご自身の民すなわち「女の子孫」の罪の罪責を負われた御子イエス・キリストを、神である主が直接的に、また最終的におさばきになったのです。このことのゆえに、「女の子孫」の罪は全く贖われています。「女の子孫」の罪に対する最終的なさばきは御子イエス・キリストの十字架において、すでに執行されているのです。これは、先ほどお話ししました、天地創造の初めに神のかたちに造られて、歴史と文化を造る使命を委ねられた人に対するさばきに当たります。
 神さまは御子イエス・キリストにおいてご自身の民の罪を完全に清算してくださっただけではありません。御子イエス・キリストによって、天地創造の初めに神のかたちに造られた人に委ねられた歴史と文化を造る使命をも成就してくださっています。そのことをあかししているのが、この主の祈りの第3の祈りとの関連で少し前に取り上げたことがある、エペ1章20節〜23節に記されている御言葉です。
 すでにお話ししたことですので、今お話ししていることと関連することを、しかも、結論的なことだけをお話しします。20節、21節には、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と記されています。この場合の「すべての支配、権威、権力、主権」は詩篇110篇1節に記されています、

 主は、私の主に仰せられる。
 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
 わたしの右の座に着いていよ。」

という御言葉との関連で理解すべきもので、サタンをかしらとする暗やみの主権者たちをさしています。つまり、先ほど触れました「最初の福音」に宣言されていたサタンとその霊的な子孫に対する最終的なさばきがいつでも執行される状態になっているということです。たとえていえば、犯罪者がすでにさばきを受けるために収監されているというようなことに当たります。反乱軍が武装解除させられたようなことに当たります。もちろん、暗やみの主権者たちはなおもその影響力を働かせています。
 続く、22節には、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。

と記されています。ここで、

神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせた

と言われていますが、これを直訳調に訳し変えれば、

 神は万物を彼の足の下に従わせた

となります。これは、先ほど引用しました詩篇8篇6節に、

 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
 万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていたことが成就していることを示しています。つまり、天地創造の初めに神さまが神のかたちに造られた人に委ねてくださった歴史と文化を造る使命は、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされ、栄光を受けて死者の中からよみがえられ、天に上って父なる神さまの右の座に着座された栄光のキリストにおいて成就しているということです。
 「女の子孫」のかしらとして来てくださった御子イエス・キリストは、神のかたちに造られて歴史と文化を造る使命を委ねられていながら、自らの罪のためにサタンをかしらとする暗やみの主権者の特性を現す歴史と文化を造るものとなってしまっていた私たちの罪を、その十字架の死によって完全に贖ってくださっただけではありません。栄光を受けて死者の中からよみがえって、父なる神さまの右の座に着座されたことによって、歴史と文化を造る使命をも成就してくださっているのです。これによって、終りの日におけるさばきの執行のおぜん立てができただけではありません。ご自身の民が御霊のお働きにあずかって造るようになった新しい時代の歴史と文化、すなわち、先ほどの、「女の子孫」が造り出す、造り主である神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた栄光を映し出す歴史と文化を完成させて、神さまのより豊かな栄光のご臨在に満ちた「新しい天と新しい地」を造り出してくださる基盤を築いてくださったのです。

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という主の祈りの第3の祈りは、今、この「」において、御霊のお働きによる新しい時代の歴史と文化が造り出されることと、終りの日に、栄光のキリストによってそれが完成し「新しい天と新しい地」が造り出されるようになることを祈り求めるものです。

 


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