(第138回)


説教日:2008年2月17日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 これまで、被造物全体にかかわる父なる神さまのみこころについてお話してきましたが、ここ数週間は、特に、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈るときの、「」に関する父なる神さまのみこころについてお話ししてきました。今日は、そのお話を復習しながら、さらに補足したいと思います。


 創世記1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。これは、1章1節〜2章3節に記されている神さまの天地創造の御業の記事の見出しに当たるもので、壮大な大宇宙とそこに存在するすべてのものには「初め」があるということ、そして、それは神さまの創造の御業によっているということを宣言しています。すべては、神さまが創造の御業によって造り出されたものであるということです。
 続く2節は、「さて、地は」という形で始まっていて、創造の御業の記事の視点と関心が「」に移っていることを示しています。神さまは、この「」に住んでいて、「」からの視点からこの世界を見ている私たちの目線から見たご自身の創造の御業を、私たちに啓示してくださっています。これによって、私たちがこの世界をどのように理解したらいいかを汲み取ることができるようにしてくださったのです。
 2節前半には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と記されています。これは神さまが最初に造り出された「」の状態を示しています。そして、

 地は形がなく、何もなかった。

という御言葉は、イザヤ書45章18節に記されている御言葉とのかかわりから、この時の「」は、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示していると考えられます。
 しかし、2節ではこれに続いて、

 神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。「」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあった時に、すでに、神さまが御霊によってそこにご臨在しておられたのです。このことは、「」は「人の住みか」である前に、また「人の住みか」である以上に、神さまがご臨在される場であるということを意味しています。そして、3節に、

そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

と記されていますように、神さまはご自身のご臨在の御許から発せられた、

 光よ。あれ。

という御言葉によって、「」に「」があるようにしてくださいました。これは「」におけること、「」に「」があるようになったことを記しているのであって、この「」が、この時に初めて造られたのか、それとも、すでにどこかで造られていた「」がこの時に初めて「」に到達するようになったのかは記されていません。3節後半の、

 すると光ができた。

という御言葉の「できた」と訳されている言葉(イェヒー)は、その前の、

  光よ。あれ。

という御言葉の「あれ」と訳されている言葉と同じです。それで、これも、必ずしも、この時に「」ができたということを示してはいません。
 この後、5節で、

神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。

と言われていることからしますと、この「」は今日においても「」としての意味をもっているものです。それで、これは太陽からの光であったと考えられます。
 ヨハネの手紙第1・1章5節には、

神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。

と記されています。この、

 神は光である。

ということは、神さまご自身が真理であり、聖い方であられることを示しています。同時に、神さまが、私たちにとって真理の源であり、いのちの「」であることを示しています。私たちがこのようなことを理解することができるのは、この世界に「」があり、私たちが「」に照らされてものを見ているからです。
 それでは、その順序はどうなのでしょうか。この世界に「」があり、私たちが「」に照らされてものを見ているから、聖書は、

 神は光である。

と教えているのでしょうか。むしろ、それは逆であると考えられます。本当は、

 神は光である。

ので、神さまはこの物理的な特性をもつものとしてお造りになった世界に、ご自身が「」であられることを映し出す、物理的な「」をお造りになったということです。そのことが先にあって、その結果、この世界に「」があるようになり、私たちが「」に照らされてものを見るようになったのであると考えられます。
 このように、神さまは「」をご自身のご臨在の場として整えてくださり、「人の住みか」としてくださるに当たって、まず、「」があるようにしてくださいました。この「」は目に写る物理的な「」ですが、それは、目に見えないけれども真の意味で「」であられる神さまを映し出すような意味をもっており、私たちが

 神は光である。

ということを理解するための「手がかり」となっているのです。それで、この世界を照らす「」には、この世界に生きている「いのちあるもの」のいのちを支え、はぐくみ育てる温かさや、生きているものの行く道を導く明るさなどが備えられています。これらも、神さまの愛と恵みといつくしみを映し出すものです。
 また、「」がこのようなものとして造られているからこそ、造り主である神さまに対して罪を犯し、御前に堕落してしまい、神さまを見失ってしまった人間は、「」や、「」をもたらす太陽を「神」と考えてしまっています。それが、この国ばかりでなく、世界の至る所に見られる「太陽神」が生み出された事情です。
 このことからも分かりますように、2節以下に記されている創造の御業の記事においては、神さまがこの「」をご自身のご臨在の場にふさわしく整えてくださり、そこを、後に神のかたちに造られるようになる「人の住みか」としてくださったということを記しています。このことは、「」は神のかたちに造られた人が、そこにご臨在してくださる神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるために備えられたものである、ということを意味しています。そして、この「」には、愛と恵みといつくしみに満ちた造り主である神さまのご臨在の現れとして、さまざまな形で愛と恵みといつくしみのしるしが満ちあふれています。この世界に射し込む「」の明るさと暖かさ、さまざまな生き物たちの生息と植物の生長の様子など、さまざまなことに、造り主である神さまの愛と恵みといつくしみが示されています。これによって、神さまは、神のかたちに造られた人がこの「」に住みながら神さまのご臨在を身近に感じ取ることができるようにしてくださっています。
 先週は、神さまが創造の御業の最後に、神のかたちにお造りになった人に歴史と文化を造る使命を委ねられたことについてお話ししました。
 それを振り返ってみますと、26節〜28節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 歴史と文化を造る使命のことは28節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 この歴史と文化を造る使命では、まず、

 生めよ。ふえよ。地を満たせ。

と言われています。これは、22節に記されています、

生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。

という、最初に造り出された「いのちあるもの」たちへの祝福と同じく、いのちの豊かさにかかわる祝福です。
 しかし、生き物たちへの祝福とは違って、神のかたちに造られた人への祝福は、これで終らないで、さらに、

 地を従えよ。

という使命があります。これまでお話ししてきたこととのかかわりで注意したことは、この「」は、神さまがご自身のご臨在の場にふさわしく整えてくださり、それを「人の住みか」としてくださった「」であるということでした。それで、

 地を従えよ。

という使命は、この「」が、造り主である神さまがご臨在してくださっている場として聖別されているということ、そして、そのゆえに、神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご臨在のしるしに満ちているということと深くかかわっています。神のかたちに造られた人は、この「」がこのような意味をもったものとして聖別されていることをわきまえて、さらにそれにふさわしく整えていく使命を委ねられていると考えられます。それは、造り主である神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご臨在をより豊かに映し出す世界へと整えていく使命です。
 そのためには、何よりもまず、神のかたちに造られた人自身が造り主である神さまを礼拝するものでなければなりませんし、その礼拝を中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものでなければなりません。そして、この造り主である神さまを礼拝し、愛と恵みといつくしみに満ちた神さまの栄光を現すことが、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造ることの中心にあります。そして、これが歴史と文化を造る使命の本来の意味です。
 先週は、さらに、歴史と文化を造る使命を与えられた人が、実際に、どのようなことをしていたかについて、御言葉に記されていることにしたがってお話ししました。

 地を従えよ。

という使命を委ねられた人は、2章15節に、

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

と記されていますように、自分が置かれた土地を耕していました。エデンの園は神さまのご臨在の場として特別な意味で聖別されており、そのゆえの豊かさに満ちていました。ですから、人がそこを耕したのは、そうしなければ作物が取れないからではありません。それは、人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって「土地」がのろわれてしまった後には、耕さなければ作物が実らないということとは事情が違います。それで、神のかたちに造られた人は、そこで神さまが創造の御業によって造り出された植物の手入れをし、お世話をしていたと考えられます。自らの意思をもたない植物がどんどん繁茂していけば、混乱し、込み入ったことになってしまいます。それで、人がそれを整理してあげる必要があります。そのためには、実際にそれらの植物に触れながら、それぞれの特徴や性質ををよく知る必要がありました。そのようにして、人がさまざまな植物に触れて、その特徴や性質を知ることによって、それをお造りになった神さまの知恵や御力や、ご配慮の豊かさを感じとるようになったと思われます。そこに、造り主である神さまを礼拝し讚えることを中心とした文化が生まれ、それが継承されて歴史が生まれます。
 歴史と文化を造る使命においては、さらに、

海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命が続いています。この場合も、実際に、神のかたちに造られた人がこの使命とのかかわりでなしていたことを見てみましょう。
 それに先だって注目しておきたいのは、2章7節に、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と記されていることです。ここでは、いわば、神さまが人をお造りになったことが陶器師の表象で記されています。「土地のちり」の「土地」と訳されている言葉は「アダーマー」で「」と訳されている言葉「アーダーム」との親和性を示しています。先ほどの、

 地を従えよ。

という使命とのかかわりでは、人はこの「土地」を耕し、そのお世話をしていたわけです。また、「ちり」と訳されている言葉(アーファール)は「細かい粒子」を表すものです。これも陶器師の表象に沿っています。実際には、神さまはご自身が造り出された「」に含まれているさまざまな化学的な分子をもって人を形造られたと考えられますが、それを陶器師の表象で表しているということです。これは神のかたちに造られた人の肉体的な面を示しています。しかし、人が人としてのいのちをもつのは、神である主が、

 その鼻にいのちの息を吹き込まれた

ことによっています。これは神である主が人と向き合ってくださり、また、人をご自身に向き合わせてくださり、「いのちの息」を吹き込んでくださったという、神である主との親しい関係を示しています。このように、神のかたちに造られた人には、自分がそこから取られた「土地」との親和性と、人をご自身に向けて造ってくださった神である主との親しさの二面があります。
 2章19節には、

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。

と記されています。
 ここで、

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき

と言われているときの「」と訳されている言葉は「アダーマー」、先ほどの、人が「土地のちり」から形造られたというときの「土地」と同じ言葉です。ですから、ここでは「土地のちり」から形造られた人と、「土地」から形造られた「あらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥」とのつながりが示されています。人は、このように、「あらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥」と結ばれている者として、

海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を授けられています。
 そして、人が造り主である神さまから委ねられた使命を果たしていることの最初の現れが、

神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。

ということにありました。
 古代オリエントの文化の発想では、名をつけることは、権威を行使することを意味していました。ですから、ここで人は、

海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を授けられている者として、その権威を行使しています。また、古代オリエントの文化の発想では、名は、その名をつけられたものの本質的な特徴を表わすものでした。ですから、人が生き物たちの名をつけたということは、人が神さまのお造りになったそれぞれの生き物と触れ合いながら、その本質的な特徴を見て取って、それを表す名をつけたということを意味しています。
 人が生き物たちに名をつけたことは、これに先立つ18節において、

その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

と記されていることを受けており、20節に、

こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。

と記されていることにつながっていきます。

こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。

ということは、「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた」ことによって、それらの生き物との親しい関係を築いたけれども、そこには「ふさわしい助け手」はいなかったということを示しています。このことは、「ふさわしい助け手」としての女性の創造につながっていきますが、今お話ししていることはそのことではありません。
 いずれにしましても、神のかたちに造られた人が、

海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を果たすことは、それらの生き物と親しい関係を確立することから始まっています。
 このように、人は、自分がそこから形造られた「土地」や、同じくそこから形造られた「すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣」と深く結ばれています。そのような者として、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命を委ねられています。その使命は神のかたちの本質的な特性である愛を表すことによって果たされます。それは、自分に委ねられた「」を耕し、そこに生えてくるすべての植物たちの手入れをし、それによって、生き物たちを養い、生き物たちがそれぞれの特性を発揮して生きるようになるために仕えることいくことを意味していました。これが神のかたちに造られている人間に委ねられている権威を行使することの根本にあることです。その権威は神のかたちの本質的な特性である愛のうちに、また愛に導かれて行使されるものです。それは、造り主である神さまがご自身がお造りになったすべてのものの上に権威を振るっておられることが、ご自身がお造りになったすべてのものを、愛と恵みといつくしみをもって真実に支えてくださっていることに現れているのと同じです。
 先程もお話ししましたように、人は「」に働きかけ、さまざまな植物や生き物たちに触れて、その特徴や性質を知ることによって、それをお造りになった神さまの知恵や御力や、ご配慮の豊かさを感じ取ることができました。この「」にご臨在される神さまの愛と恵みといつくしみに満ちた栄光のしるしを身近に感じ取ることができたのです。それで、このことから造り主である神さまを礼拝し讚えることを中心とした文化が生まれ、それが継承されて歴史が生まれます。
 このことは、神のかたちに造られた最初の人においては現実となっていました。けれども、その最初の人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、この使命の遂行は、罪の自己中心性によって歪められてしまいました。その権威が愛にあって、また、愛に導かれて発揮されるのではなく、その権威の下にあるものたちを自分のために搾取するようになってしまいました。そのことは、今日では、この「」における環境の破壊やさまざまな植物や生き物たちの絶滅という形ではっきりと見て取れるようになっています。造り主である神さまは、このような歴史をおさばきになります。
 しかし、神さまは御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業をとおして、私たちを再び神のかたちの栄光と尊厳性のうちに回復してくださいました。そして、歴史と文化を造る使命をも回復してくださって、私たちに造り主である神さまを礼拝し、神さまの栄光を現すことを本質とする、新しい歴史と文化を造る使命を委ねてくださっています。

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という、主の祈りの第3の祈りは、それがこの「」において実現することと、終りの日に再臨される栄光のキリストをとおして完成することを祈り求めるものです。

 


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