(第137回)


説教日:2008年2月10日
聖書箇所:マタイの福音書6章5節〜15節


 今日も、主の祈りの第3の祈りである、

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という祈りについてのお話を続けます。
 この祈りは、基本的に、父なる神さまがご自身のみこころを実現してくださることを祈り求めるものです。その父なる神さまのみこころには二つの中心があります。これまで、まず、私たち主の契約の民にかかわるみこころについてお話ししました。そして、それに続いて、被造物全体にかかわるみこころについてお話ししてきました。今日も、その被造物全体にかかわるみこころについてお話しします。


 いつものように、これまでお話ししてきたことを復習しながら、お話を進めていきます。
 創世記1章1節〜2章3節に記されている神さまの天地創造の御業の記事の見出しに当たる1章1節には、

 初めに、神が天と地を創造した。

と記されています。この御言葉は、壮大な大宇宙とそこに存在するすべてのものには「初め」があり、それは神さまの創造の御業によっているということを宣言しています。すべては、神さまが創造の御業によって造り出されたものであるということです。それで、この御言葉は、神さまが無からこの世界のすべてのものを造り出された(「無からの創造」creatio ex nihilo)という意味での「絶対創造」のことを述べています。
 続く2節の冒頭には、新改訳には訳し出されていませんが、接続詞があって、「さて、地は」という形で始まっています。これは、創造の御業の記事の視点と関心が「」に移っていることを意味しています。
 2節から、創造の御業の記事の視点と関心を「」に移していることには理由があります。それは、この記事が、神のかたちに造られた人、ことに、私たち主の契約の民への啓示であるからです。神さまは、この「」に住んでいて、「」からの視点から、この世界を見ている私たちの目線に合わせて、ご自身の創造の御業を啓示してくださいました。これによって、私たちがこの世界をどのように理解したらいいかを汲み取ることができるようにしてくださったのです。
 2節前半には、

地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、

と記されています。これは神さまが最初に造り出された「」の状態を示しています。すでにお話ししましたように、

 地は形がなく、何もなかった。

という御言葉は、イザヤ書45章18節に記されている御言葉とのかかわりから、この時の「」は、とても「人の住みか」とは言えない状態にあったことを示していると考えられます。
 しかし、2節ではこれに続いて、

 神の霊は水の上を動いていた。

と記されています。「」がとても「人の住みか」とは言えない状態にあった時に、すでに、神さまが御霊によってそこにご臨在しておられたことが示されています。このことは、「」は「人の住みか」である前に、また「人の住みか」である以上に、神さまがご臨在される場であるということを意味しています。
 2節以下に記されていることは、神さまがこのような状態にあった「」をご自身のご臨在の場にふさわしく整えてくださり、そこを、後に神のかたちに造られるようになる「人の住みか」としてくださったということを記しています。このことは、「」は神のかたちに造られた人が、そこにご臨在してくださる神さまを礼拝することを中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるために備えられたものである、ということを意味しています。
 先週は、このことと関連して、二つのことをお話ししました。
 一つは、この「」には、愛と恵みといつくしみに満ちた造り主である神さまのご臨在の現れとして、さまざまな形で愛と恵みといつくしみのしるしがあふれていることです。これによって、神さまは、神のかたちに造られた人がこの「」に住みながら神さまのご臨在を身近に感じ取ることができるようにしてくださっています。
 もう一つは、聖書の中に繰り返し出てくる、「」を受け継ぐということ、「」を相続するということです。そして、出エジプト記に記されていることですが、イスラエルの民が金の子牛を作ってこれを契約の神である主、ヤハウェと呼んで拝んだことによって主の御前に背教してしまったときに、モーセがなしたとりなしの祈りに基づいて、「約束の地」とは、そこにご臨在してくださる神である主を礼拝することを中心として、主との交わりのうちに生きるために与えられたものであるということをお話ししました。また、詩篇の中には、主の民が相続地として分け与えられた土地である「分の土地」は主ご自身である、ということが繰り返し出てくるということをお話ししました。
 このように、天地創造の御業の記事において、1章2節以下では、神さまが「」をご自身のご臨在の場として、それにふさわしく整えてゆかれ、それを「人の住みか」としてくださったことが記されています。神さまの創造の御業の最後には、神さまが人を神のかたちにお造りになり、神のかたちに造られた人に、歴史と文化を造る使命を委ねられたことが記されています。
 26節〜28節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 ここに記されていることの意味については、すでに、いろいろな機会にお話ししてきましたが、今お話していることとのかかわりで、いくつかのことをお話ししたいと思います。もちろん、それも、すでにいろいろな機会にお話ししたことの復習のようなことになってしまいます。
 先ほど引用しましたが、28節には、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 これは一般に「文化命令」と呼ばれています。しかし、これはただ文化を造ることだけでなく、

 生めよ。ふえよ。地を満たせ。

という御言葉に示されていますように、それが世代を越えて継承されていくという歴史的な面があります。その意味で、これは何よりも歴史を造る命令です。それで、私は「歴史と文化を造る使命」と呼んでいます。ただし、この呼び方は、玉川上水キリスト教会用語のようなもので、一般には知られていません。
 これまでお話ししてきましたこととの関連で、まず、取り上げたいことは、この歴史と文化を造る使命には、

 地を従えよ。

という使命があるということです。この「従えよ」と訳されている言葉(カーバシュ)をめぐって議論があります。これには力尽くで従わせるというような意味合いがあります。しかし、それは人が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後から現れてきた現実を反映しています。人類の堕落の前には、そのような必要はなかったと考えられます。このことは、その後に出てくる「支配せよ」と訳されている言葉(ダーラー)についても当てはまります。結論的には、この力にかかわる意味合いは、神のかたちに造られた人に神さまが与えてくださった能力を傾けてこの使命に当たることを意味していると考えられます。
 これまでお話ししてきたこととのかかわりで注意したいことは、この「」は、神さまがご自身のご臨在の場にふさわしく整えてくださり、それを「人の住みか」としてくださった「」であるということです。ですから、

 地を従えよ。

という使命は、この「」が、造り主である神さまが特別な意味でご臨在してくださっている場として聖別されているということと深くかかわっています。神のかたちに造られた人は、この「」がこのような意味をもったものとして聖別されていることをわきまえて、さらにそれにふさわしく整えていく使命を委ねられていると考えられます。そのためには、何よりもまず、自分たち自身が造り主である神さまを礼拝するものでなければなりませんし、その礼拝を中心として、神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものでなければならいわけです。そして、このことが、神のかたちに造られた人が歴史と文化を造ることの中心になるはずでした。また、歴史と文化の中心は造り主である神さまを礼拝し、神さまの栄光を現すことにあります。
 実際には、神のかたちに造られた人が造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、このことは損なわれてしまっています。しかし、神さまは御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業をとおして、私たちを再び神のかたちの栄光と尊厳性のうちに回復してくださり、新しい歴史と文化を造るものとしてくださっています。

みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

という、主の祈りの第3の祈りは、そのことのさらなる実現と、終りの日における完成を祈り求めるものです。
 この基本的なことを踏まえたうえで、さらに、歴史と文化を造る使命について見てみましょう。
 28節の初めに、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。

と記されていますように、歴史と文化を造る使命は神のかたちに造られた人への祝福として与えられています。
 この主の祈りの第3の祈りについてのお話の中で繰り返し取り上げましたが、21節には、

それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。

と記されています。ここには、神さまの創造の御業において初めて「いのちあるもの」が造り出されたことが記されています。それは、造り主である神さまが生きておられる方であられることを、この被造物世界において、その存在をもって現している存在が造り出されたということを意味しています。その意味で、神さまの創造の御業は新しい段階を迎えています。それで、ここでは、創造の御業の記事の見出しに当たり、絶対創造に触れている1節の、

 初めに、神が天と地を創造した。

という御言葉に用いられてから用いられていなかった「創造した」という言葉(バーラー)が用いられていると考えられます。
 そして、これに続く22節には、

神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」

と記されています。これは、神さまがお造りになった「いのちあるもの」たちへの祝福の言葉です。創造の御業においては、これより前には祝福の言葉はありません。このことは、創造の御業における神さまの祝福がいのち、特に、いのちの豊かさとかかわっているということを示しています。
 次に「創造した」という言葉が出てくるのは27節で、そこには、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されています。ここには「創造した」という言葉が3回繰り返されています。神さまの創造の御業において「いのちあるもの」が造り出されたことは、創造の御業の新しい段階を画することでしたが、人が神のかたちに造られたことは、それ以上の意味をもったことであるのです。神のかたちに造られた人は、神さまが生きておられる方であられるということだけでなく、神さまが愛を本質的な特性とする人格的な方であられることを、この被造物世界において、その存在をもって現すものです。
 このように、神さまの創造の御業において新しい意味をもった存在である人が神のかたちに造られたことを受けて、先ほど引用しました28節には、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

というように、神さまが神のかたちに造られた人を祝福してくださったことが記されています。
 これを22節に記されている、神さまが最初に造られた「いのちあるもの」たちを祝福してくださったことの記事と比べてみますと、そこには共通点と、相違点があります。
 まず、共通点を見てみましょう。神さまの祝福の御言葉は、どちらも、

 生めよ。ふえよ。・・・を満たせ。

という御言葉で始まっています。新改訳では22節と28節の訳し方が違っていますが、この部分はまったく同じです。ただ「・・・を」の「・・・」という部分が違っているだけです。このことからも、創造の御業における神さまの祝福はいのちにかかわっており、さらに、いのちの豊かさにかかわっていると考えられます。
 神のかたちに造られた人の場合には、そのいのちの本質は、造り主である神さまを礼拝することを中心とした、神さまとの愛にある交わりのうちにあります。その意味でも、神さまの祝福として委ねられた歴史と文化を造る使命の本質が、神さまを礼拝することを中心とした、神さまとの愛にある交わりのうちに生きることにあると考えられます。
 二つの祝福の相違点はいくつかあります。
 すぐに分かることは、22節に記されている生き物たちへの祝福の御言葉には、治めることが使命として含まれていないということです。「」を従え、「すべての生き物」を支配することは、神のかたちに造られた人に委ねられた使命です。先程もお話ししましたように、神のかたちに造られた人は、神さまが生きておられる方であられるということだけでなく、愛を本質的な特性とする人格的な方であられることを、造られたこの世界において、その存在をもって現すものです。それが神のかたちに造られた人に委ねられた使命の本質的な特徴となっています。
 ここととの関連で注意したいことは、神のかたちに造られた人は、被造物としての次元においてではありますが、造り主である神さまを代表し、表すものとして造られているということです。
 この場合には、代表することと、表すことを区別しています。この世界において神さまを代表することは、神のかたちに造られた人に与えられた身分や立場のことで「権威」にかかわっています。これに対して、この世界において神さまを表すことは、神さまがどのような方であられるかを、言い換えますと、神さまが愛を本質的な特性とする人格的な方であられることを身をもってあかしすることです。
 この二つのことは区別されますが、本来、矛盾するものではありません。神のかたちに造られた人は、自らに委ねられた権威に基づいて、愛と恵みといつくしみに満ちておられる神さまをあかしするものでした。それが、神のかたちに造られた人の本来のあり方でしたし、歴史と文化を造る使命もそのために与えられたと考えられます。
 具体的には、

 地を従えよ。

という使命を与えられた人がしていることは、2章15節に、

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

と記されていますように、自分が置かれた土地を耕すことでした。興味深いことに、この「耕す」という言葉(アーバド)の名詞形(エベド)は「奴隷」や「しもべ」や「役人」などを意味しています。実際に、神のかたちに造られた人は神さまのしもべとして、神さまがご臨在されるエデンの園を耕して守っていました。
 エデンの園については、2章9節に、

神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。

と記されています。そこでは耕さなければ作物が生らないということはなかったのです。ですから、人がそこを耕したのは、自分の必要のためではなかったと考えられます。考えられるのは、植物には意思がないので、放っておけばどんどん木々や作物が育ってしまって入り乱れた状態になってしまうので、その「交通整理」のようなことをしたということです。それは、造り主である神さまが創造の御業によって造り出された植物の手入れをし、お世話をするということです。それが、

 地を従えよ。

という使命を与えられた人がなしていたことであると考えられます。
 これと同じことが、

海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という使命にも当てはまります。先ほどお話ししましたように、神のかたちに造られた人が支配するようにと委ねられた生き物たちについては、22節に、

神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」

と記されていました。この祝福は、その後に造られる動物たちにも当てはめられていると考えられます。造り主である神さまがこのように生き物たちを祝福してくださっていることは、後の時代に生きている私たちに啓示されています。当然、神のかたちに造られた人は、このことを教えられていたと考えられます。このことを教えられないままに、生き物たちを支配する使命が委ねられたというようなことは考えられません。それで、神のかたちに造られた人は、その神さまからの祝福を効果的に生き物たちの間に実現するために、仕えるように召されていたと考えられます。
 先にお話ししました、

 地を従えよ。

という使命は、具体的には、その「」を耕し、そこに生長する植物たちの手入れをし、お世話をすることを意味していました。そのことは、この使命において取り上げられている「地をはうすべての生き物」たちの生存にとっても、また、生き物たちへの祝福の言葉において「鳥は、地にふえよ」と言われている鳥たちにとっても、大切な意味をもっていたと考えられます。
 このように「土地」を耕し、そこに育つ植物の手入れをし、生き物たちのお世話をするためには、神さまがお造りになった「」のことをよく知らなければなりません。また、それぞれの植物や生き物たちの特徴や性質をよく知らなければなりません。神のかたちに造られた人は、これらのことを、自らに与えられた能力を傾けて調べたはずです。そこに、文化的な活動が生まれてきます。そして、その知識や働きが継承されて歴史が造られます。
 そして、神さまがお造りなった「」のことや、それぞれの植物や生き物たちの特徴や性質をより深く知るようになるにしたがって、造り主である神さまの愛と恵みといつくしみに満ちたご配慮の深さに触れていくことになったでしょう。そのことをとおして、人はこの「」にご臨在される神さまを身近に感じ、その栄光をほめたたえるようになります。その意味でも、歴史と文化を造る使命の中心には造り主である神さまへの礼拝があります。

 


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